15年にわたる恋心に終止符を打った。その15年の経緯を、俺の思い出づくりのために書いていく010

彼女にフラれてから(というより、俺がアノコの元から去った、という方が正しいのかもしれない。絶対にフラれるタイミングを待ち、告白し、爆砕して、そのエネルギーを自分の未来に注入させたのだから)20日ほど経っただろうか?

初めの10日間は、食事が喉を通らず、食べても下痢。眠っても2時間ほどで目が覚め、それ以降、寝ることはできない……という日が続いた。

今はまだマシだ。食事は……まあまあできる。眠る時間も4時間に増えた。下痢は相変わらずだが。

彼女のことを思い出す頻度は、あきらかに、減っている。この『思い出の箱』は、あの子との顛末を、俺が病床に伏したとき、この文章を読んで、当時のことを振り返って喜ぶためにしたためているものだ。

だから、彼女のことを完全にふっきり、あるいは、忘れてしまうまでに、完成したいと思う。

忘れるのは悪いことではない。良いことだ。

人は一緒に歩いている相手がそばにいる、と思っているときでも、じつはその道はわずかにズレている。

1億5000万キロメートル向こうには、太陽がある。俺たちの人生は、目をつぶって、その太陽を目指すのに似ている。

立っている場所が同じでも、同じ方向へ歩き出したつもりでも──目を開けて、同じ方向へ進む大事な人を見守っているつもりでも──その歩く道は、かならずズレる。

親であろうと、兄や姉であろうと、親友や恋人であろうと、結婚していようとも子供がいようとも、愛していても愛していなくても、そのズレは、太陽へ向けて歩くだけで、離れている差が、わずかずつ……だが確実に開いていく。

そのズレがはっきりと知覚しやすくなるタイミングはある。学校なら卒業がそうだし、職場を変えても住処を変えても起こる。

そして、命の量の違いも、それに入る。

親もやがて、同じところへ向かっているはずなのに、声も届かないところへ離れることになる。

親でさえそうなのだから、それ以外の者も、等しくそうなっていく。

それは悲しいことではあるが、後悔することでは決してない。それは俺が語らずとも、わかるはずだ。

見えなくなっても、聞こえなくなっても、忘れてしまっても、自分自身が死んでしまっても、届けられるものがある。

それは愛だ。

これだけは、時間も空間も越えて、それが必要な人のもとへ行くことができる。

そのことを知っている俺は、幸福だと思うよ。

また、幸いなことに、彼女からの愛が、今も届いていることは、確実にわかっている(彼女は俺を兄として見ていてくれたから、そういう愛情だ)。直感とか願望とか、そういうものではなく、確信だ。その証拠もじつはある。

こんなことになったが、彼女とは今、かなり不思議なつながりになっているのだ。

そのエピソードは、この物語の最後に語ろうと思う。

20240928記す。




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