所は変わり、名も知れない
そこの客室にて、フンドシ姿の
「おのれ……あのタクトとかいう男。絶対ゆるさん。何とか、鼻をあかす方法はないものか」
「伊織さま伊織さま」
「何だ、
伊織さまは、取り巻きの男の名を呼んだ(ちなみに、この取り巻きはみな兄弟で、上から舞下園一、園二、園三、園四という名だった。園五もいるが、この末っ子は
「正面から戦ってダメなら、うしろからブン
「……それは
「でもー」
「でももクソもあるか、習わし、
「でも、もう、うしろから殴れそうな人、見つけて来ちゃいましたよ」
「何だと」
「入ってくださいー」
舞下がうしろのふすまに声をかけると、その陰から、ひとりの男がぬっと現れてきた。
それは、本でしか見たことのないような、黒装束の人物だった。
「……!?」
「道を歩いてたら、この男がいかにもニンジャな身なりで歩いてたので、連れてきました。なんか暗殺とかできそうです」
舞下園一が、得意げに説明した。
「ほう……確かに
「は」
ニンジャはおもむろに顔を
「タクトと言います」
伊織さま
「……」
「…………」
五秒後、安宿の二階に、ドッタンバッタンと大きな音が
「どうしたんですか?
宿の入口で待っていたアズマが、けげんな顔色でたずねた。
「ん、ちょっとな。でももう終わったよ。人の頭を
「……???」
「ともかく飯屋だよ飯屋……ほら、そこにドジョウ汁屋が見える。早くコイバナしようぜ」
タクトは目の前にある『どぜう』と書かれた藍染のれんの店を指差した。
「なあアズマ。お前自身は、あの亀井って奴に心当たりはないのか?」
(ちなみにドジョウ鍋とは、甘味噌で煮込んだ汁に、生きたドジョウをそのまま放り込むという、今の感覚からすると、ショッキングな作り方をする。そのため、生物学的に同情心の強い女性は、あまりドジョウ鍋を食べなかったそうだ)。
アズマは九割がた食事を平らげていたが、タクトのほうはまだ半分は残っている状態だった。
タクトは、食べるのが
「なにぶん、記憶があまりにも少なすぎるもので……」
「
「ええ……僕の
「農村? 江戸じゃないのか? 何で、似た農村を探さない」
「農村こそ、一番探してきましたよ。この二年をかけて、西のほうはあらかた農村で聞き込みをしました。でも
「そうか……お前を襲った老人のことも、調べたのか?」
「そのへんも聞き込みたいんですけど、他人にたずねるにも、老人っていうところしか説明できることがなくて……探すのは無理なんじゃないかと思いかけてます。
でも僕の出身に関しては、手がかりとおぼしい出来事があった。それが亀井って人ですけど、こっちから話をつける方法が見つかりませんし……こうしてタクトさんの
「でもなあアズマ。わりと真相まで近づいてるじゃん。次に亀井に会えれば、もう王手みたいなものだしな」
「その通りですが、そううまくいきますかね……」
「大丈夫さ。でも気になってるんだけど──お前のその鼻の良さ、いったい何なんだよ。記憶を失う前に訓練したことでそうなった、とか、そういう水準じゃないぞ。犬でもそこまでわからないんじゃないのか?」
「どうなんでしょうね」
「おーい……そりゃないだろ、オレたち、もう友達だろ?」
「僕は
そんなやりとりを
そこにいたのは、おしづだった。
だがその表情はというと、大きく
「アズマさん! 良かった、見つけられました」
「ど、どうしたんですか、おしづさん」
「大事なお知らせが……」
「よくもまあ、これだけある飯屋からオレたちの場所を見つけられたな。あんたもアズマみたいに鼻がきくのか?」
「白ずくめのお侍さんのことを聞いたら、すぐにわかりましたよ。しかもここ、
「ははっ、目立つってさ、アズマ」
タクトが笑った。
「で、どうしたんです?」
おしづが
「アズマさん……江戸を、離れたほうが良さそうです」
「え?」
「あなたの命を
「ど、どういうことです?」
アズマが
「なんでも、あなた様が
「……それは、いつ起こったことだと言いました?」
「……去年、とのことです」
おしづは
「それはおかしい。僕の記憶は二年前から始まってる。水戸といえば東のほうでしょ? 僕は最近まで、ひたすら西のほうを
「完璧に、ではないが、いちおうアズマの潔白は証明されたんじゃないの? ……ただ、おしづちゃんの話がホントなら、アズマはその水戸藩桑内って所じゃお
横で聞いていたタクトが意見を述べる。
「だけど、これも立派な情報だな。その水戸藩桑内ってところに行けば、何かつかめるものもあるかもしれないってことだ」
「そう、ですか……いずれにしても、アズマさんではない、と……」
おしづは
「なあおしづちゃん……君はどう思ったんだ? その話を聞いて、アズマがやらかしたって思ったのか?」
タクトがねんごろにたずねた。
「……いえ、でも」
おしづはためらいがちに
「色々考えました。だから、すぐにお知らせをしに来れなかったんですけど……人を殺すなんてことを、アズマさんがするとは思えないんです。
そんな方が、私を
「筋が通らないのが世の中ってもんだ。マフィアが花屋を
「マヒア……? ダツゼー……? 知らない言葉ですが……タクトさんは、どうお感じになったんですか?」
おしづが意見を求める。
「オレも一度、アズマが本当に2年前から記憶が始まった男なのか、
ちょっと話がそれるんだが、たとえば、おしづちゃんが
15歳でも13歳でもいい。で、誰かに会うとするだろう? オレなら、そんな人間が近づいてきたときには、こう質問するね。お前さんの
人間ってのは嘘をつくとき、時間のことを考慮して嘘をつくのが苦手な生き物なんだ」
「な、なるほどですね……」
横のアズマが、舌を巻いた。
「まあ、色々言ったが、オレなりにアズマは
「安心しました……つまり、タクトさんも私の
おしづも
「……誰か、お前と似たような顔で、悪いことをしまくってる奴がいるってことじゃないか?」
タクトが思いつきのような結論をもらしたが、実はこの予想がいちばんしっくり来ることを、アズマもおしづも感じていた。
「おしづさん。帰った方がいいですよ。僕の
「アズマさんが、ここから出られてから帰ります」
「僕の力は見たでしょう?
危険ですが、一度会ってみたい。亀井さんよりは会うのが簡単そうですしね。まずは、その人と戦って、勝つ必要があるみたいですが。いきなり背中からブスリとやられるかもしれませんけど……まあ、そっちは何とか防ぎましょう。
それが片付いたら、今度はその桑内領という所に行くのも悪くないでしょうね。領へ入ろうとしたら捕まるかもしれませんけど」
「アズマさんは、強いですね……でも、今回ばかりはお
「オレはアズマに
タクトが割り込んだ。
「タクトさん! お友達のアズマさんが危ないんですよ? あなたまで、あのお侍さまに会わせたいなんて」
「でもアズマは逃げる気はないって言ってるぜ。自信があるんだよ。戦っても負けない自信がな」
「タクトさん、前々から聞きたかったんですが」
今度はアズマがタクトに話を振った。
「あなたに、この件は関わりのないこと。なぜ、ここまで首を突っ込むんですか?」
「深い理由なんて必要か? お前、面白そうじゃん?」
タクトの
「はぁ……どうしようもないですね」
おしづは
「アズマさんが心配ですが……それでも気持ちはわかります。私だって、たしかに目的の途中に
「おしづさんも……何かやってみたいことがあるんですね?」
「ええ、二つあります。一つはその……あんまり語りたくないんですが、もう一つは胸を張って言えます。
いずれ……いえ、来年には女子用の学塾を開きたいんです」
「女に学力はいらない、という時代の中で、
タクトが
ちなみに女大学とは、明治になっても流通していた本で──子供を産まない女は離婚していい、女なら夫がバカでも必ず従え、女なら遊ぶな……などなど、小さな冊子ではあるが、よく本屋に並んでいた
つまり、辞書や計算ドリルと同じような認識で、男尊女卑の本を置いていたのである。
今のおしづが進めようとしている、女の学力向上と社会進出は、イバラの道。
157年後の2018年にも東京医大はじめ、多くの国公立大が、入試を受ける女と浪人生は、わざと合格しにくくなるように、実際の点数を理由なくマイナスにしたぐらい、その根は深い(その後、政府は他の大学で不正が行われたかを調査しない、と述べたことでも日本は世界の
「話に聞くと、シーボルトの娘さんが、お医者さまになるために頑張っているそうです。私もあんなふうに、女の力を世の中に広めたいんです。それが、今の
「……すごいです、おしづさん」
アズマは素直に
おしづが、未来の人間のことまで考えて道を進んでいるのに、ひるがえって自分のほうは、自分がどこの馬の骨なのかを必死に探している。
それが、えらく
そもそも、自分の
二年前、あの大雨の降る川べりで、おかしな言動をする老人に、刀で
故郷や知人が見つかったからといって、元のサヤに収まることも期待はできない。
つまりアズマは、
突き詰めればこれは……自己満足。
それなのにアズマは、そんなことに、ひたすらこだわっているのだ。
──こだわる以外に、やることがないんだ。
──僕は自分の過去ばかりを探してる。
──その間にも、おしづさんは未来を見
そこまでわかるアズマではあったが、今更、引っ込みがつかなくなっているのも事実だった。
二年探して、やっと、亀井という男と、
──今は、このまま進もう。
──それが片付いてから、僕も次を見ようと思う。
──その頃には、おしづさんは、もうこんな所にいないかもしれないな。
「少しスッキリしました。ダンナ様が待っているので、帰りますね」
おしづは上品に両手を前に組んで、おじぎをしてから
「……じゃあ僕も、行きますね」
おしづが去ったのを見て少しして、にわかにアズマは立ち上がった。
「行くって、どこへだ?」
「どこって……寝に行くんですよ」
「
「いいえ、そこじゃありません」
「ほかの
「旅籠では寝ませんよ。眠れないんです、そこだと」
「宿で寝られないんなら、どこなら寝られんだよ」
「
「は? 野宿って……は?」
さすがのタクトも、アズマの言い分に首をかしげた。
「宿のほうがよっぽど安眠できるだろ。宿で寝られるのに宿を使わないなんて、スズメみたいだぞ。何より外は、暗くて危険だ」
「そうですよ。僕、暗いところが嫌いで……だからこんな、上下を白い袴で固めてますしね」
「それ、矛盾してないか? 暗いところが怖いのに、暗いところで寝るんだって言ってるぞ?」
「それもそうなんですが……僕、人の気配のする所で寝るのも、どうも落ち着かなくて……」
「旅をしてるってんなら、
「うーん……
「何だよ、けっきょく秘密をウリにしてくのかよ。
「いえ、口はかなり軽い自覚はあるんですけど……しょうがないんですよ、こればっかりは……あ、お代は置いとくんで、ここの人に渡しといてもらえれば」
アズマは