13.行路

 所は変わり、名も知れない安宿(やすやど)

 そこの客室にて、フンドシ姿の伊織(いおり)さまが座り込み、同じ格好(かっこう)の取り巻き四人を前にして、フンドシ推進(すいしん)委員会を開い……ではなく、四人を相手に話し合っていた。

「おのれ……あのタクトとかいう男。絶対ゆるさん。何とか、鼻をあかす方法はないものか」

「伊織さま伊織さま」

「何だ、舞下園一(ぶかそのいち)

 伊織さまは、取り巻きの男の名を呼んだ(ちなみに、この取り巻きはみな兄弟で、上から舞下園一、園二、園三、園四という名だった。園五もいるが、この末っ子は蝦夷(えぞ)(北海道)で畑を(たがや)していたから、ここにはいない)。

「正面から戦ってダメなら、うしろからブン(なぐ)ってやればいいんです」

「……それは(ほま)れのあるモノノフとは呼べないぞ」

「でもー」

「でももクソもあるか、習わし、武勇(ぶゆう)、誉れだ。古事記(こじき)にも書いてあるだろうが」

「でも、もう、うしろから殴れそうな人、見つけて来ちゃいましたよ」

「何だと」

「入ってくださいー」

 舞下がうしろのふすまに声をかけると、その陰から、ひとりの男がぬっと現れてきた。

 それは、本でしか見たことのないような、黒装束の人物だった。

「……!?」

「道を歩いてたら、この男がいかにもニンジャな身なりで歩いてたので、連れてきました。なんか暗殺とかできそうです」

 舞下園一が、得意げに説明した。

「ほう……確かに毒団子(どくだんご)とかも投げるのが得意そうだな。園一も言うことだし間違いあるまい。ぜひ、あのタクトという男の後頭部(こうとうぶ)をぶん殴って来てほしいものだ……お前、名は何という」

「は」

 ニンジャはおもむろに顔を(おお)う布をほどいて、素顔(すがお)をさらした。

「タクトと言います」

 覆面(ふくめん)をほどいて顔を見せる男──タクトはにこりと笑った。

 伊織さま一行(いっこう)もまた、にこりと微笑(ほほえ)みかえす。

「……」

「…………」

 五秒後、安宿の二階に、ドッタンバッタンと大きな音が(ひび)いたあと──少ししてからタクトが一人、そこから出てきた。

「どうしたんですか? (みょう)な格好で歩きはじめたと思っていたら、もう()いでる」

 宿の入口で待っていたアズマが、けげんな顔色でたずねた。

「ん、ちょっとな。でももう終わったよ。人の頭を(たたみ)の中に()めるのって、難しかったぞ」

「……???」

「ともかく飯屋だよ飯屋……ほら、そこにドジョウ汁屋が見える。早くコイバナしようぜ」

 タクトは目の前にある『どぜう』と書かれた藍染のれんの店を指差した。

「なあアズマ。お前自身は、あの亀井って奴に心当たりはないのか?」

 座敷(ざしき)に上がったタクトは、卓上(たくじょう)のドジョウ(なべ)を、左手の(はし)でつまみながら、アズマに聞いた。

(ちなみにドジョウ鍋とは、甘味噌で煮込んだ汁に、生きたドジョウをそのまま放り込むという、今の感覚からすると、ショッキングな作り方をする。そのため、生物学的に同情心の強い女性は、あまりドジョウ鍋を食べなかったそうだ)。

 アズマは九割がた食事を平らげていたが、タクトのほうはまだ半分は残っている状態だった。

 タクトは、食べるのが(おそ)かった。

「なにぶん、記憶があまりにも少なすぎるもので……」

難儀(なんぎ)だよなー」

「ええ……僕の記憶(きおく)が始まったのは、よくわからない農村の川にいた所からです。そこで、老人に(おそ)われ……()(くる)う川に落ちたんです」

「農村? 江戸じゃないのか? 何で、似た農村を探さない」

「農村こそ、一番探してきましたよ。この二年をかけて、西のほうはあらかた農村で聞き込みをしました。でも(たい)した成果はありませんでした。そこから北上(ほくじょう)して、今はこの江戸で僕の知人を探しているところです。何もないとわかれば、江戸も(はな)れて北のほうを(めぐ)ります。ただ、江戸は人が多いから、聞き込むのにも時間はかかるでしょうね」

「そうか……お前を襲った老人のことも、調べたのか?」

「そのへんも聞き込みたいんですけど、他人にたずねるにも、老人っていうところしか説明できることがなくて……探すのは無理なんじゃないかと思いかけてます。

 でも僕の出身に関しては、手がかりとおぼしい出来事があった。それが亀井って人ですけど、こっちから話をつける方法が見つかりませんし……こうしてタクトさんの(すす)めに従って、ヤケ食いをしてるってところですかね」

「でもなあアズマ。わりと真相まで近づいてるじゃん。次に亀井に会えれば、もう王手みたいなものだしな」

「その通りですが、そううまくいきますかね……」

「大丈夫さ。でも気になってるんだけど──お前のその鼻の良さ、いったい何なんだよ。記憶を失う前に訓練したことでそうなった、とか、そういう水準じゃないぞ。犬でもそこまでわからないんじゃないのか?」

「どうなんでしょうね」

「おーい……そりゃないだろ、オレたち、もう友達だろ?」

「僕は秘密(ひみつ)にしたくてしてるんじゃありません。ともかく、初めからできてたんです」

 そんなやりとりを()り返していると……ちょうどそこで入口の戸が横開きにされた。

 そこにいたのは、おしづだった。

 だがその表情はというと、大きく(ほお)が赤らみ、肩を(はげ)しく上下させていた。

「アズマさん! 良かった、見つけられました」

「ど、どうしたんですか、おしづさん」

「大事なお知らせが……」

「よくもまあ、これだけある飯屋からオレたちの場所を見つけられたな。あんたもアズマみたいに鼻がきくのか?」

「白ずくめのお侍さんのことを聞いたら、すぐにわかりましたよ。しかもここ、甘味処(かんみどころ)旦那(ダンナ)さまの、親類(しんるい)ですし」

「ははっ、目立つってさ、アズマ」

 タクトが笑った。

「で、どうしたんです?」

 おしづが(あわ)てているのを(さっ)しているアズマが、続きの言葉を(うなが)す。

「アズマさん……江戸を、離れたほうが良さそうです」

「え?」

「あなたの命を(ねら)う、おん……男の方がいました。あの感じだと、間違いなく果たし合い……いえ、それどころか、背後(はいご)からいきなり()りかかりそうな感じでした」

「ど、どういうことです?」

 アズマが困惑(こんわく)した声音(こわね)で問い返した。

「なんでも、あなた様が水戸藩(みとはん)桑内領(くわうちりょう)家老(かろう)(ころ)したとか……本当ですか?」

「……それは、いつ起こったことだと言いました?」

「……去年、とのことです」

 おしづは(さぐ)るように、少し時間を置いてから答えた。

「それはおかしい。僕の記憶は二年前から始まってる。水戸といえば東のほうでしょ? 僕は最近まで、ひたすら西のほうを徘徊(はいかい)して、最近やっと東に差し掛かろうかという所です。いずれ行くでしょうけど、そこに立ち寄ったことはありませんよ……」

「完璧に、ではないが、いちおうアズマの潔白は証明されたんじゃないの? ……ただ、おしづちゃんの話がホントなら、アズマはその水戸藩桑内って所じゃお」(たず)ね者ってことになるな」

 横で聞いていたタクトが意見を述べる。

「だけど、これも立派な情報だな。その水戸藩桑内ってところに行けば、何かつかめるものもあるかもしれないってことだ」

「そう、ですか……いずれにしても、アズマさんではない、と……」

 おしづは釈然(しゃくぜん)としないまま反応した。

「なあおしづちゃん……君はどう思ったんだ? その話を聞いて、アズマがやらかしたって思ったのか?」

 タクトがねんごろにたずねた。

「……いえ、でも」

 おしづはためらいがちに否定(ひてい)した。

「色々考えました。だから、すぐにお知らせをしに来れなかったんですけど……人を殺すなんてことを、アズマさんがするとは思えないんです。

 そんな方が、私を悪漢(あっかん)から(すく)ってくださるのは、(すじ)が通らない気がして」

「筋が通らないのが世の中ってもんだ。マフィアが花屋を(いとな)むというのも聞いたことがあるし、寄付(きふ)はするが脱税(だつぜい)を常習している人間もいる……見えるものはアテにならないぜ」

「マヒア……? ダツゼー……? 知らない言葉ですが……タクトさんは、どうお感じになったんですか?」

 おしづが意見を求める。

「オレも一度、アズマが本当に2年前から記憶が始まった男なのか、(ため)してみた。アズマに、ここ2年で起こった事件と、それ以前の話を聞いてみたんだ。見事に、アズマが自称する通り、2年より前のことは、すっぽりキレイに記憶がなかったんだ。さすがに黒船のことは知ってたけど、それは誰かに教えてもらったんだろうさ──こういう出自(しゅつじ)の話でウソをつける人間は多くない。

 ちょっと話がそれるんだが、たとえば、おしづちゃんが年齢(ねんれい)詐称(さしょう)するとしよう。

 15歳でも13歳でもいい。で、誰かに会うとするだろう? オレなら、そんな人間が近づいてきたときには、こう質問するね。お前さんの干支(えと)は? と。年齢を(いつわ)ることなら誰でもできる。だけど、その年齢と干支を(ひも)づけることのできる奴は、そうそういない。万能(ばんのう)なやりかたでもないが、たいていはそこでボロを出す。

 人間ってのは嘘をつくとき、時間のことを考慮して嘘をつくのが苦手な生き物なんだ」

「な、なるほどですね……」

 横のアズマが、舌を巻いた。

「まあ、色々言ったが、オレなりにアズマは潔白(けっぱく)なんじゃないか……とは思ってる。()っ白とは言わないが、ひとまずはこれで良いだろう」

「安心しました……つまり、タクトさんも私の(かん)と同じ答えを導いたのですね」

 おしづも(うなず)く。

「……誰か、お前と似たような顔で、悪いことをしまくってる奴がいるってことじゃないか?」

 タクトが思いつきのような結論をもらしたが、実はこの予想がいちばんしっくり来ることを、アズマもおしづも感じていた。

「おしづさん。帰った方がいいですよ。僕の(そば)にいると、巻き()えを食らいます」

「アズマさんが、ここから出られてから帰ります」

「僕の力は見たでしょう? 簡単(かんたん)には負けませんよ。それに僕にとって手がかりになりそうなのが、亀井さんだけだと思ってましたが……どうやら僕を(かたき)だと話すその人も、そうかもしれません。

 危険ですが、一度会ってみたい。亀井さんよりは会うのが簡単そうですしね。まずは、その人と戦って、勝つ必要があるみたいですが。いきなり背中からブスリとやられるかもしれませんけど……まあ、そっちは何とか防ぎましょう。

 それが片付いたら、今度はその桑内領という所に行くのも悪くないでしょうね。領へ入ろうとしたら捕まるかもしれませんけど」

「アズマさんは、強いですね……でも、今回ばかりはお(すす)めはしませんよ、お考え直しを」

「オレはアズマに賛成(さんせい)だね。亀井って男も、次はいつ現れるかわからない──危険だが、桑内(くわうち)サムライとやらと会う価値はあるよな。オレも協力するしさ」

 タクトが割り込んだ。

「タクトさん! お友達のアズマさんが危ないんですよ? あなたまで、あのお侍さまに会わせたいなんて」

「でもアズマは逃げる気はないって言ってるぜ。自信があるんだよ。戦っても負けない自信がな」

「タクトさん、前々から聞きたかったんですが」

 今度はアズマがタクトに話を振った。

「あなたに、この件は関わりのないこと。なぜ、ここまで首を突っ込むんですか?」

「深い理由なんて必要か? お前、面白そうじゃん?」

 タクトの論拠(ろんきょ)はきわめて単純だった。

「はぁ……どうしようもないですね」

 おしづは苛立(いらだ)ちを見せたが、もう(あきら)めかげんだった。

「アズマさんが心配ですが……それでも気持ちはわかります。私だって、たしかに目的の途中に障害(しょうがい)があったからといって、引き返したりはしないですし」

「おしづさんも……何かやってみたいことがあるんですね?」

「ええ、二つあります。一つはその……あんまり語りたくないんですが、もう一つは胸を張って言えます。

 いずれ……いえ、来年には女子用の学塾を開きたいんです」

「女に学力はいらない、という時代の中で、先陣(せんじん)をきって学術開発か。オレは応援するが、周りの奴らからの風当たりは悪そうだな。今の時代ってのは日本の歴史の中で、いちばん女の頭を抑えつけてる時代だ。女大学(おんなだいがく)とかいう、トンデモ本も流通してるしな」
 タクトが男尊女卑(だんそんじょひ)の現状をわざわざ口述した。

 ちなみに女大学とは、明治になっても流通していた本で──子供を産まない女は離婚していい、女なら夫がバカでも必ず従え、女なら遊ぶな……などなど、小さな冊子ではあるが、よく本屋に並んでいた書籍(しょせき)である。

 つまり、辞書や計算ドリルと同じような認識で、男尊女卑の本を置いていたのである。

 今のおしづが進めようとしている、女の学力向上と社会進出は、イバラの道。

 157年後の2018年にも東京医大はじめ、多くの国公立大が、入試を受ける女と浪人生は、わざと合格しにくくなるように、実際の点数を理由なくマイナスにしたぐらい、その根は深い(その後、政府は他の大学で不正が行われたかを調査しない、と述べたことでも日本は世界の嘲笑(ちょうしょう)を買った)。

「話に聞くと、シーボルトの娘さんが、お医者さまになるために頑張っているそうです。私もあんなふうに、女の力を世の中に広めたいんです。それが、今の抑圧(よくあつ)された女の方の光になれば」

「……すごいです、おしづさん」

 アズマは素直に感嘆(かんたん)したが、自分のことが、痛烈(つうれつ)()ずかしくもなった。

 おしづが、未来の人間のことまで考えて道を進んでいるのに、ひるがえって自分のほうは、自分がどこの馬の骨なのかを必死に探している。

 それが、えらく矮小(わいしょう)に思えたのだ。

 そもそも、自分の素性(すじょう)がわかったところで、必ずしも状況が良い方向へ変わるとも限らない。

 二年前、あの大雨の降る川べりで、おかしな言動をする老人に、刀で(おそ)われたことは覚えているが、それ以前の記憶は……わずかにしかない(その『わずか』の部分は、まだタクトにも話していない)。

 故郷や知人が見つかったからといって、元のサヤに収まることも期待はできない。

 つまりアズマは、出自(しゅつじ)を見つけたからといって、幸せになるとは限らないのである。

 突き詰めればこれは……自己満足。

 それなのにアズマは、そんなことに、ひたすらこだわっているのだ。

 ──こだわる以外に、やることがないんだ。

 ──僕は自分の過去ばかりを探してる。

 ──その間にも、おしづさんは未来を見()えて、どんどん進んでいる。

 そこまでわかるアズマではあったが、今更、引っ込みがつかなくなっているのも事実だった。

 二年探して、やっと、亀井という男と、(なぞ)(さむらい)に行き当たった。

 ──今は、このまま進もう。

 ──それが片付いてから、僕も次を見ようと思う。

 ──その頃には、おしづさんは、もうこんな所にいないかもしれないな。

「少しスッキリしました。ダンナ様が待っているので、帰りますね」

 おしづは上品に両手を前に組んで、おじぎをしてから障子(しょうじ)を閉めて、出て行った。

「……じゃあ僕も、行きますね」

 おしづが去ったのを見て少しして、にわかにアズマは立ち上がった。

「行くって、どこへだ?」

「どこって……寝に行くんですよ」

旅籠(はたご)のえながやに帰るのか? ならオレも帰るかな」

「いいえ、そこじゃありません」

「ほかの旅籠(はたご)で寝るってんなら、やめちまえよ。世七郎(よしちろう)のオッサンの好意で、安く泊まっていいって言われてるだろ」

「旅籠では寝ませんよ。眠れないんです、そこだと」

「宿で寝られないんなら、どこなら寝られんだよ」

野宿(のじゅく)じゃないとダメなんです」

「は? 野宿って……は?」

 さすがのタクトも、アズマの言い分に首をかしげた。

「宿のほうがよっぽど安眠できるだろ。宿で寝られるのに宿を使わないなんて、スズメみたいだぞ。何より外は、暗くて危険だ」

「そうですよ。僕、暗いところが嫌いで……だからこんな、上下を白い袴で固めてますしね」

「それ、矛盾してないか? 暗いところが怖いのに、暗いところで寝るんだって言ってるぞ?」

「それもそうなんですが……僕、人の気配のする所で寝るのも、どうも落ち着かなくて……」

「旅をしてるってんなら、寝泊(ねと)まりに旅籠ははずせないだろ。旅籠となると、どこもあんな感じだ、えながやにはノミはいなそうだったから、むしろ良い宿と言えるくらいだ──野宿ったって、どこで寝るんだ?」

「うーん……秘密(ひみつ)です」

「何だよ、けっきょく秘密をウリにしてくのかよ。流行(はや)んないよ、秘密の多い奴とか」

「いえ、口はかなり軽い自覚はあるんですけど……しょうがないんですよ、こればっかりは……あ、お代は置いとくんで、ここの人に渡しといてもらえれば」

 アズマは(なぞ)めいたことを言い残すと、(ふところ)財布(さいふ)から30文をつまみだし、(たく)に置いて、その場を去っていった。

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