14.三途(さんず)黒闇(こくあん)ひらくなり

 暗い、暗い、部屋とも、森林の中ともつかぬ所。

 そこは、光だけでなく、あらゆるものがない世界だった。

 音、空気、重力、温度、そして──

 いや、だが『外』は見えた。

 『外』は前とうしろに二つあり……ひとつは海のような、空間の波がさざめく場所で(ただし、そこから聞こえる音は、潮騒(しおさい)の代わりに、耳をすまさねば聞こえない大きさで、ブゥーンという重低音を常に鳴らしていた)もう一つは……まさに『外』だった。

 そこは、誰かの見ている景色なのか、めまぐるしく視界が動いたり、()れたり、自分の手のひらをのぞいたり、道行く人々が映ったりしていた(卑近(ひきん)(たと)えを出すと……それは暗い空間にともる、映画館のスクリーンに近い)。

「また一人、ここへ来たか。お前は、何ができる?」

 金のプールポワンに純白のホーズをはいた、チョビヒゲの中年騎士が、黒くたゆたう波に脚を沈めながら、岸まで歩き近づく女に、高飛車(たかびしゃ)にたずねた。

 その女は、黒い肌にボリュームのあるスカート姿だった。

「アタイは……洗濯婦(せんたくふ)だった。裁縫(さいほう)炊事(すいじ)……夜の相手、なんでもやってた……綿の採集(さいしゅう)にも駆り出されてるときもあったから、それもできるっちゃ、できるね」

 騎士の高圧的な質問に(まゆ)をひそめつつ、女が答えた。

「洗濯婦?」

 騎士は、まるで女に陸地へ上がられるのをこばむように、波打ち(ぎわ)に立ちはだかった。

「それがここで何の役に立つ。私は祖国で騎士をやっていた。この剣技(けんぎ)でイングランドの悪党どもを、何匹も斬り刻んできた。洗濯婦なんぞが……それも黒奴(こくど)か。汚れるから出ていけ」

「あんたの、そういう滋養(じよう)はどこから出てたんだい? あんたらは身体をゴリラみたいに動かしてりゃいいだけ。威張(いば)ってればいいだけ。楽な仕事だよね。アタイらは、あんた等がゴリラをできるように働いてたんじゃないか。アタイがここにいるのは、あんたみたいな奴のせいだよ」

「? 私はお前なんぞに仕事をさせたことはないぞ?」

「あんたの白い肌を見てるとイラつくって言ってんだよ!」

「静かにしてくれない? (いの)りの邪魔」

 カラフルな布地を混ぜ合わせた服の少女が、手を合わせ、目を伏せたまま忠告した。

「また、ヒト臭くなった。ここは狭すぎる」

 今度はその少女の背後(はいご)にいた、一頭の大型犬ほどの大きさの犬が『人間の言葉で』しゃべる。

「ここの犬はしゃべるのかい……犬は犬らしくワンワンとだけ鳴いてりゃいいだろうさね」

 騎士にからまれていらだっている洗濯婦が、その怒りの余波を犬にぶつけた。

 と、そこで新入りの洗濯婦は、犬のうしろに、二人の影があることに気づいた。

 一人は、玉座のような黄金の椅子に脚を組んで腰掛け、その足元にライオンを従える、豊満(ほうまん)な身体をもつ半裸(はんら)の女。

 その隣にも、別の女が(やわ)らかそうな雲の上に正座していたが、こちらはちゃんと長袖の服を着込んでいた。

 二人とも、顔は()しはかれなかった。

「新入りのあなたには、わからないだろうから忠告しとく。そこのお二人には……話しかけられない限り、何も言わないほうがいいよ」

 カラフル少女が、祈りのための手合わせをやめないまま、付言(ふげん)する。

「ともかく、私はここを出るぞ」

 大型犬が身体を起こし、先ほど女がやってきた『海岸』のほうへ歩き出す。

「此岸へ行かれると? あなた様がここを離れたら、これはもはや維持(いじ)できません」

 騎士が、洗濯婦に対するのとは打って変わった、ていねいな口調で(さと)す。

「構うものか。こんな『物』では、私の願いをかなえることなど不可能……」

 大型犬がそう告げて、その場を去ろうとした時、だった。

 黒い闇の中に、ビュオっと音を立てて、強烈な(あらし)が巻き起こった。

 その風で、誰かが吹き飛ぶようなことはなかったが、大型犬だけは、その風を浴びるや、大きな耳が弱々しく()れ下がった。

 その風は──半裸の女から発せられているようだった。

「……ま、まあ、もう少しだけ、ここに居てやろう……だが、もう少しだけだ」

 大型犬はそう(つぶや)くと、うずくまるように座り込んで、自らの首を守るように丸まった。

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