雨のシトシトと落ちる二日後の昼、旅籠えながやの、二階。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
雨戸も障子も開けっぴろげた個室で、水たまりの点在する往来を見下ろしながら座るタクトは、何度も何度も、長いため息をもらしていた。
「どうしたんですか、タクトさん」
同じように手すりに肘をついて座っているアズマが、仕方ない感じを出しながらたずねる。
聞くと面倒ごとに首を突っ込むことになる気がしたが、聞かなければ、絶対にタクトはアズマをここから出さないだろうからだ。
「金がない」
アズマが思った通り、タクトの悩みは、しょうもないものだった。
「伊織さまをやっつけた時の金はどうしたんですか。慎ましくしてたら、三日で無くなることはないでしょう」
「いやあ、他人の金ってのは、どうも無責任に使い込んじまうもんだよな。だって、どうでも良いんだものな、自分のカネじゃないし」
「え、じゃあ、今日の宿賃は……?」
「ない」
「……」
アズマは声を失い、顔を片手で覆った。
「アズマ、金貸してくれ」
「イヤですよ。返すアテがないじゃないですか。あなたが何日か滞在するって言ったから、世七郎さんだって、だいぶマケてくれたのに……」
「じゃあどうしろってんだ」
「居直らないでください。あなたのことですから、どうせ案はあるんでしょう?」
「ある」
「じゃあ、それをやりましょうよ」
「ただまあ……一人だと心細いんだ。付いて来てくれよ」
「どこへですか? 奉行所とかなら無理ですよ、僕、戸籍がないんですから」
「なあに、すぐそばの……世七郎のオッサンのところだ」
「そういう次第だから、仕事くれ!」
一階の帳場できちっと正座をしてソロバンをはじいていた世七郎を見かけるや、タクトは階段にいるにもかかわらず、即座にその場で土下座した。
それは超高難度の、階段土下座だった。
「いや、結局これですかい……」
世七郎が、先程のアズマと同じような表情になった。
「節制か貯蓄か、どちらか覚えたほうが良いですよ、タクトさん」
階段上にいるアズマが渋い顔で助言する。
「セッセー? チョチク? 金に厳しいな、アズマ……お前って記憶がないのに、どうやって稼いでるんだよ」
タクトは土下座をやめて立ち上がりながら、うしろのアズマにたずねた。
「前にも言ったでしょ? 一応、僕はあんまができますからね……これだって、親切なあんま師の人に教えてもらって、学んだものです。
あれこれ悩んでるなら、棒手振でも何でもやれば良いじゃないですか。あれは免許制ですけど、実際は免許があろうとなかろうと誰も気にしませんよ」
棒手振(振売とも呼ぶ)。
簡単に言えば歩き売りだが、魚専門の棒手振や、寿司や団子など、その専門とするものは多岐にわたる。
たいてい棒手振は販売店と提携して、魚なら魚、団子なら団子と、ひとつの種類に絞って売っていた。
つまり江戸は、金の工面さえできるなら、家から出ずとも棒手振の持ってくる物だけで生活の成り立つ町だったのである。
「ウーバーイーツよりはるか昔から、こういう商売が存在してたってわけだ。あれがセンセーショナルなわけじゃない。日本人からしたら、埋まってたものが掘り出されて、また使われてるのを見る感じだな」
タクトが謎のタイミングでひとりごちる。
「乳母? なんですか?」
「ひとり言さ。それにしても、あんまかぁ……」
「あんま、悪くないですよ。棒手振とも違って、最悪の場合でも、指さえあれば仕事ができますからね。ほら、見ますか? 僕の仕事の証」
そう言って、アズマは親指を見せた。
仕事を長く続けているためだろう、その親指はわずかに逆方向に湾曲していた。
「いいじゃん、それ教えてくれよ」
「良いですけど、一朝一夕にはいきませんよ? せめて三日前くらいに言ってくれたら、まだ何とかできたかもしれないのに……」
「お二人様……あの、仕事ですが、ありますぞ」
世七郎が、ためらい加減に口を開いた。
「本当か!? どんなのだ?」
タクトはがっついて世七郎の両肩に手を置いた。
「それこそ、アズマ様が今おっしゃった、その棒手振です……きのう、知り合いの京豆腐屋に出入りの棒手振の方が、亡くなったらしくてね。隣町の寺の得意先を回る者がおらなくなったと困っておりました」
いま世七郎が口にした、京豆腐というのは、京都発祥のやわらかい豆腐だが、絹豆腐のことではない。木綿豆腐と絹豆腐の間ほどの固さである。
「紹介してくれんの?」
「一応、助けてもらったことは恩義に感じておりますからね。それに、あなたなら愛想と器量のほうは、心配なさそうです」
「感謝するぜ、世七郎さん」
「いいですか? まずはそこの通りを出て左へ、それから……」