19.襲撃

 旅籠(はたご)とは、いわゆる旅館とか民宿(みんしゅく)のことだ。

 そこでの()まり客同士はどのように区切られているかというと、うすい障子(しょうじ)のみで、当然そこに(かぎ)などかけられようはずもない。

 それどころか、時として一部屋を他人といっしょに眠る場合もある。そうなれば財布(さいふ)(ぬす)まれることもあるし、安い宿なら、シラミがお土産についてくる場合もある。

 (さいわ)いにして、シラミは今のところいない旅籠(はたご)、えながやでの七つ(16時ごろ)。

 久しぶりに晴れていた日で、まぶしい太陽が強く屋根を照らしていた。

 部屋はどこも障子を開け放しにしていたが、泊まり客はまばらで、夏の前触れとはいえ、長雨のせいで、少しばかり涼しかった(夜が()けてくると、行商(ぎょうしょう)や夜遊びから戻る客のために、やかましくなるだろう)。

「ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、ウマ……なあアズマ」

 開け放しの窓から射し込む光を横目に、あぐらをかくタクトが難しい表情で、向かいに座るアズマへ切り出した。

「何ですか」

「タツは(りゅう)だよな。ミって何だ?」

「ミカンじゃないですか?」

「そうだったな」

「それにしても、世七郎(よしちろう)さん、喜んでくれましたね。タクトさんが定職についたと。おしづさんにも伝えなきゃ」

「あーあー、それ言うなよ。思い出したくなかったから、つまらん事を考えるようにしてたのに。

 早起き君か……明日もあさっても早起き君か……そうか、オレは……早起き君に変身したのか……………」

 タクトはアズマに脱・無職を()められても気にならないようで、早起き早起きとうるさかった。

「そんなに早起きがイヤですか?」

「オレ、夜からじゃないと元気になれないんだ。朝は10時まで早朝なんだ……それより早く起こすのは失礼に当たるんだ、覚えとけよ」

「あっそ。なら朝型の人間に生まれ変われば解決ですね」

「仕方ないよなあ……これからオレのことを早起き君と呼んでくれ」

「早起き君」

「なんだ、アズマさん」

「僕はここらへんで、おいとまします」

 アズマはすっと立ちあがった。

「へ? また河原(かわら)で寝るのか? 誰が、明日オレを起こすんだよ。オレ、七つ半(6時)から仕事だぞ…つまりお前は、それより早く起きなきゃなんないんだぞ」

「なんで僕が起こすことになってるんですか。自分で起きてください、(かね)だって鳴るでしょ。それに……僕が寝るには外が一番ですから」

「わーかったよ、しょうがないな」

 タクトは悪態(あくたい)とばかりに、両腕を()ばしながら寝転がった。

「お前は一人で悪魔召喚(しょうかん)でもしてると良いさ」

「わからない言葉を並べてくれますが……面倒なんで聞かないでおきますね」

 アズマがそこで話を打ち切り、部屋を出ようとしたとき。

 一階のほうから、ドタドタと、せわしなく大きな足音が、いくつも鳴り始めた。

 アズマもタクトも、その騒音(そうおん)の中に、世七郎(よしちろう)の悲鳴がわずかに聞こえたのに気付くと、即座(そくざ)に刀の()に手をかけた。

 やがて、開け放しの障子戸(しょうじど)から、木綿(もめん)着流(きなが)し姿の、顔を黒頭巾(くろずきん)にくるめた、十人もの男がなだれ込んできた。

 ここに居合わせる数人の泊まり客も、何事かと息を飲んで、この異様な光景を見つめる。

 来訪者はみな、刀を抜いたまま部屋に入っていたが……いちばん奥に立つ人物のみ、まだ抜刀してはいなかった。

「何だよ、お前ら」

 タクトが刀に手をかけて腰を落とし、退路をふさいで立ちふさがる男達に言い放った。

 すると、一番奥にひかえていた、ゆいいつ刀を握っていない男が、前に歩み出てきた。

「そこの白袴(しろはかま)のお前……お前に用がある。付いて来てもらうぞ」

 先頭に立つ黒頭巾の男(おそらく首長だろう)が、だしぬけにアズマを指差した。

「付いて行くって……どこへですか」

 アズマは殺気を敏感に嗅ぎ取っているのだろう、けわしい表情で聞き返す。

「それをお前が知る必要はない」

 首長男は、うなずくでもなく、アズマとタクトの様子を注視しながら、超然(ちょうぜん)腕組(うでぐ)みをした。

「大人しく付いていけば、お前らはアズマをどうするんだ」

 横で聞いていたタクトが交渉(こうしょう)役とばかりに、でしゃばる。

危害(きがい)は加えんと約束しよう」

 首長男が冷たく答える。

「知らないのか? 約束と自己申告は、裏付ける証拠がない場合には、絶対に信じちゃいけないんだぜ。

 で、大人しくしなければどうなるんだ?」

「力に(うった)えるのみだ」

「なら、オレたちが大人しくしておく理由はないな。あんた、話すのヘタだろ」

 タクトは刀をスッと抜くと、正眼(せいがん)に構えた。

 これから始まる刃傷(にんじょう)ざたに、さすがに周囲の客も、アズマたちの動きを見ながら、少しずつうしろずさり、やがて逃げ始めた。

「今、刀を抜いた奴……お前のほうは死んでも構わんそうだ」

 首長男はタクトに低いうなり声でそう言い残すと、刀を抜き、(こし)だめに下ろし、突撃(とつげき)ばりにタクトへ走りだした。

 タクトもまた刀で迎え撃つ姿勢を見せたが、わずかに動作(どうさ)が遅れた。

 タクトのガラ空きの(のど)へ、横()ぎの一閃が決まりそうになったが……その動線を、もう一本の、ボロボロの刀の身幅が食い止めた。

 横に立っていた、アズマのものだった。

「ぬぅっ!?」

 首長男が舌を巻く。

「……さんざん挑発しといて首を即ハネされるなんて、カッコ悪すぎますよ」

 タクトを横に見るアズマのまなざしは、すでに剣客(けんかく)のものに早変わりしていた。

「あ、お、お前が守ってくれるって思ってたんだ、うん、うん」

「ウソですね、それは」

 アズマはタクトの首前でかみあう刃を、少しずつ襲撃者のほうへ押し返した。

 男は両手で、アズマは右手一本で。

「こ、この……馬鹿力(ばかぢから)め」

 男の表情は黒頭巾のせいでほとんどわからないが、その隙間からのぞける目には、あきらかに焦りが宿っていた。

 だが、力関係をまざまざと示されてなお恐怖が宿っていないのは、さすがと言えた。

 首長男は五体をしりぞけ、いったんアズマとタクトから距離をとるものの、すぐさま男は再び斬りかかってきた。

 今度はしっかりと、アズマと首長男で、刀をかちあわせる。

 何度も打ち合う刀と刀。

 だが、男の剣技(けんぎ)は、腕力以外でも、あきらかにアズマに見劣(みおと)りしていた。

 アズマのものは、どこのものとも知れない剣術ではあったが、確実に男の()で斬り、振り下ろし、袈裟(けさ)斬り、突きを叩き落とし、代わりに攻撃を浴びせていた。

 男から、みるみる余裕(よゆう)と血の()が引いていく。

 刀のぶつかり合いが数回行われる頃には、今度は男が肩や腕、腰に傷を作られ始めていた。

「な、何を見ている、お前ら! 囲め! 全員で斬りかかれ!」

 首長男はたまらず、うしろに控えていた部下の襲撃者たちに発破(はっぱ)をかけた。

「そうでなくては」

 アズマがそのとたん、首長男をほうって、背後(はいご)の九人へ刀を大上段(だいじょうだん)に構えて飛び込んだ。

 気のせいか、タクトにはその声が、女の物だったような気がした。

 ──今のアズマの声……?

 その時はまだ、タクトはどこか遠くの女中の声がまぎれこんだのだと思った。

 だがその疑念はすぐに、確信として蒸し返されることになった。

「う、うわっ!」

 浪人の一人の腕が、アズマのギザギザ刀の一閃(いっせん)によって、簡単に両断された。

 アズマの武器は、研がれることのないノコギリが、竹をすりおろすのに難儀するのと同じで、何かを()つような機能は失っている。

 そのはずなのに、それができるということは──相当(そうとう)な、(すさ)まじい力でそれをおこなったからだ。

 ──なんで、そんな力があるんだ?

 アズマの背後(はいご)に立っていたタクトが、そんなふうに思うが……それ以上に観察している余裕は、すぐに捨てなくてはならなくなった。

 別の男が、いっさいの吐息(といき)()け声もなく、いきなり斬りかかってきたからである。

 タクトは初撃をなんとか刀で受け止めたが、それがやっとだった。

 男はすでに、華麗(かれい)即位付(そくいづ)けで刃の上をすべらせたかと思うと、タクトの持つ刀を思いっきり真上に打ち上げた。

 タクトの刀は、天井(てんじょう)に突き刺さり、そのまま抜けなくなった。

 得物(えもの)を奪われたタクトに向け、男は(さや)を抜いて、それをタクトのみぞおちに叩き込んだ。

「ウゲッ!」

 タクトはもろにそれを喰らい、(ひざ)をついた。

 そんなタクトのうなじに向けて、男はあたかも介錯(かいしゃく)するように、トドメの一撃を入れようとする。

「!」

 アズマはタクトを守るために、男へ駆けた。

 かろうじて、タクトの首へ向かう刀を叩き返すことに成功したアズマではあったが、代わりに、ほかの襲撃者たちに背中をガラ空きにすることになった。

 三人の黒頭巾がいっせいに、無防備なアズマの背中へ斬り込んでいく。

 アズマも、斬られる寸前に背中をそらしたから、その刃が内臓(ないぞう)を引き裂くことはなかったが……それでもアズマの背骨は黒頭巾たちの振りおろしをまともに受けることになった。

 あたかも(くま)の爪を背中に浴びたかのように、アズマの背や肩に、三本の裂傷が走り、少しの間ののち、赤い鮮血(せんけつ)がにじみでる。

 その攻撃によって長着もやぶれ、アズマの左肩に、見慣れない模様がさらけ出された。

 CCE七十……と、そこには刻まれていた。

 タクトにもそれは見えたが……さらに強い反応を示したのは、うしろでなりゆきを見守る、黒頭巾(くろずきん)の首長男だった。

 首長男は、あきらかにアズマの肩を強く凝視(ぎょうし)しているようだった。

「──っ!」

 アズマはたまらず、(とこ)の間に転がり込むようにして、背後を壁にしたが……それはつまり、退路を自ら閉ざしたことと同義でもあった。

 だがアズマは、かなりの深手(ふかで)を負ったはずなのに、なぜだか顔色ひとつ、変えていなかった。

「よし、白袴(しろはかま)のアズマを手負いにした。囲んでもう少し切り刻んでやれ」

 首長男が部下の襲撃者を盾にするように(じん)取ると、その手下ともども、じりじりとアズマに()め寄った。

「──!」

 まだ腹部(ふくぶ)の痛みが引いていないタクトは、起き上がることさえできずに、その様を見守るしかできなかった。

 それでも、タクトは頭だけは()え渡っていた。

 何かないかと探していたところ、タクトの横目に、薄暗く灯る行灯(あんどん)が目に入った。

 午後四時の今、ふつうなら行灯に火をともすなどありえないことなのだが……宿の主・世七郎が、暗所恐怖症のアズマを少しでも落ち着けるために(あるいは少しでも宿に長居できるように)、高価な行灯に、早めに火をつけていてくれたのである。

 ──人の親切は、こういう風に役立つこともあるんだな。

 タクトはそれを片手に持ち上げると、精一杯(せいいっぱい)の力で、襲撃者たちのほうへ投げつけた。

 首長男はその動作(どうさ)を視界の隅で見ていたから、当然それをよけるが、その行灯(あんどん)はガコンガコンと転がりながら、炎を畳に()き散らし始めた。

「何のつもりだ? 畜生でもあるまいに、我々が火ごときで臆すとでも?」

 タクトのしでかした行為に、首長男はじめ、襲撃者の態度がゆるむことはなかった。

 だが、ゆるもうが、ゆるむまいが、タクトにはどうでもいいことだった。

「それは狼煙(のろし)がわりさ。煙を見て、そのうち火消しがくるぜ。

 ここじゃ火付けは死罪だってな。何てことをしてくれたんだよ」

 火付けの当人が、不敵(ふてき)に笑った。

「火付けはお前がやったことだ、死ぬのもお前だけだ……お前たち、早くその手負いの白袴を無力化しろ」

 首長男がそう言っている内に、アズマが部下頭巾の首を、見事にハネ飛ばしていた。

「ですが……こいつ、強くて近づけません……」

 手下たちは少しずつアズマと距離をあけ、(にら)むのみで、斬りかかる者はいなくなっていた。

「役立たずどもめ」

 戦いが膠着(こうちゃく)し始めていることに、首長男がいらだちを(つの)らせる。

「おやおや? 急がないと、火消しなり岡っ引きが来るぞ」

 タクトが、決着を急ぐ襲撃者たちの平常心をさらにくじくために、得意げにほくそ()んだ。

「オレは暗殺者にビックリして行灯(あんどん)を倒しただけだ。暗殺者さえいなければ、行灯(あんどん)(さわ)るわけがないだろ……この続きの話は奉行所(ぶぎょうしょ)でやろうぜ」

 本当に奉行所談判(だんぱん)になれば、不利になるのは戸籍(こせき)のないタクトのほうだったから、タクトも内心はどぎまぎしていたはずだ。

 だが、そのハリボテの(おど)しは……今回においては、効果を表したようだった。

「……! ちっ」

 男は手下たちに目(くば)せをすると、少しずつアズマから離れ、やがて刀を抜いたまま、その場を走り去っていった。

「……ここからが、面白かったのだがな」

 アズマは襲撃(しゅうげき)者がいなくなったのを残念そうにつぶやいてから、刀を(さや)に納めたが、その声はまだ低めの女の物だった。

「……アズマ。お前、声が女なんだけど、どうしたんだ」

「声が? ん?」

 そう問い返したアズマの声は、元の、少年の声音(こわね)に戻っていた。

「え? 人間、やる気になると誰でもあんな感じになるでしょ?」

「え? いや、お前……」

 タクトは言い終わる前に、アズマの背中の傷を見た。

 そこには、骨がのぞけるほどの三本の刀傷。

 ──いや、楽しくお話してる場合じゃない。

 そう思って、タクトは言葉を飲み込むことにした。

 ──本当はこいつの止血をしなきゃいけないんだが……まずは火を消さなきゃな。弱い油とはいえ、けっこう燃え上がってる。

 タクトが見る通り、行灯の火はすでに、畳や柱に引火し、あきらかに火事の体裁になりつつある。

 ──あれ? やばいかな? オレが行灯投げたって、色んな人間に見られてるから、これが司法案件になったら、けっこう追いつめられるかも。

 このままでは、火消しのみでなく、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)(放火や盗みに動く同心)もやってくるだろう。

 そうなれば、自分たちの身分にまで話がおよぶのは明らか。

 タクトは久しぶりに、本気で自分の身の心配をした。

 そんなわけで、タクトが今までのスカした態度をかなぐり捨てて、あわてて水を汲みに行こうとしたとき──

「アズマさん! タクトさん! 無事ですか!」

 一階から続く障子のほうから、今度は世七郎と三人の女中が血相を変えて入ってきた。

 その手には、おのおの、大きな濡れた手ぬぐい。

 四人はアズマとタクトの横を抜けると、まるで何度もやってきたかのような慣れた手つきで、濡れ手ぬぐいを大きく広げながら、それを覆い被せるようにして、引火する畳や柱に、手際よく当てていった。

 ジュワっと音を立てながら、火はあっという間に、沈下されていった……。

「ふう……何とかなりましたな」

 世七郎が額の汗を袖でぬぐって一息つくと、横に並んでいた三人の女中は、胸を張って炭になりかけた畳をみおろしてきた。

「危ないところだったねえ」

「あたしたちがいなかったらどうなってたか」

「火のついた油には、直接水をかけちゃいけない、さらに火の手が強くなるから濡れた手ぬぐいを使えって言ったのはアタシだよ」

「はいはい、あんたらのおかげで命拾いしたよ。ありがとさん」

 世七郎は自分の頬をなでながら、女中たちを誉めた。

「世七郎さん……それに女中さんたちも……迷惑をかけた」

 タクトは、天井に突き刺さる自分の刀を抜いて、もとの鞘に納めると、盛り上がっている世七郎たちのところへ向かい、らしくない、少しシュンとした態度で、短く礼を述べた。

 それに、世七郎も女中も、心底嬉しそうな顔で迎え入れた。

「いいってことですよ」

「あたしゃ安心しましたよ。タクトさんってば、やたら大人っぽいたたずまいしてるから……なんかこういう顔もするんだなって」

 女中たちが照れくさそうに言った。

「それより、怪我はなかったですかい」

 世七郎が最後にたずねる。

「うん、こっちはな。だけどアズマが……」

 タクトはアズマのほうを一瞥(いちべつ)してみせると、世七郎はすぐに、どういう意図なのか悟ったようだった。

「こりゃ……アズマさん。なんて傷だい」

「そのうち塞がるから大丈夫ですよ」

 駆け寄る世七郎の心配を一蹴するように、アズマは軽く流した。

「それよりタクトさん。いま逃げた黒頭巾たちを追いましょう」

「そのつもりだ……が」

 タクトは強くうなずいたが、何か告げるように前置きした。

「だが、それはオレだけでやる。お前はここにいるんだ」

「何でですか。奴らと因縁があるのは僕だ。僕こそ行かなきゃなんないでしょ」

「イヤお前、その傷で走り回るつもりか? 血ィボッタボタですよ」

「だって今から行かなきゃ、追いつけないでしょ。これは僕の問題です」

「その通りだ。だが、追いつくのはオレ1人でできる。問題はその後だ。やつらには黒幕がいる。だから尾行することになるが、当然バレちゃだめだ。お前、ただでさえ白ずくめなのに、今は血まみれじゃないか。イチゴかき氷みたいな配色になってんぞ。そんなんじゃ、周りの人間が心配して、あっという間に囲まれる。その騒ぎに、追われてるほうも気付くだろうさ」

「む……」

 タクトの理詰めの説得に、アズマは押し黙った。

「……なら、お願いします」

「いい情報を持って帰ってやるつもりだが、ひとつだけ協力してほしい。

 なあアズマ。お前、いま襲ってきたやつら、昨日からんできた朝田って奴だってこと……気づいてるだろ?」

「ええ、匂いで」

「だろうな。オレは声でわかったけど……こんだけ密室で、あれだけ暴れたんだ。朝田ってやつの匂いは完璧に覚えたろ?」

「もちろんです。あの男がどこを走ってるか、どんな気持ちでいるかもわかります」

「あいつの気持ちは今のところ必要ないが、あいつの居場所を知りたい。教えてくれるか?

 おそらく、この襲撃に参加した奴らは散り散りになって逃げてるはずだ。

 だが、主導してたのは朝田だった。追うなら朝田だけでいい。確実に、というわけでもないが、あいつが連中のまとめ役なんだから、黒幕と取引するとなると、それに出しゃばるのはあいつだろう」

「……あっちです。あいつはいま、ここから北東の伊勢のあたりにいます。日本橋のここから、相当必死に走ったんでしょうね。息がかなり荒れてます。

 あ、僕らが追ってきてないのを確認して、安心したみたいです……ここまで匂いが到達するまでの時間を考えないといけませんけどね」

「え、イヤ……匂いだけで場所まで特定すんの? こわ」

「万能ではないんで、過信は禁物ですよ。風向きが変わればわかりにくくなりますし、あの朝田って男が会おうとしてる男の匂いまでは、さすがにわかりません」

「行って確かめればいいってことだな」

「ほんらい、あなたは僕に付き合う理由なんて何もないのは、わかってますけど……行く気でいますもんね、あなた」

「匂いでぜんぶ知られるの、いい加減イヤになってきたな。

 オレの人生観としても、こんな不思議な体験はできるだけ長続きさせたいんだ」

「ありがとうタクトさん」

「気をつけなされ、タクトさん」

 ずっとやりとりを見守っていた世七郎が、小さくはげました。

「世七郎さん、手間をかけたな。あとは頼む。もしも火消しか何かが来たら、うまくごまかしてくれよ。帰ってきたら火付けの下手人だった、とかはイヤだぜ」

「江戸は火にうるさい町ですがねえ……うるさくすれば火事が消える道理はありませんよ。こういうのはたまにあるんですよ。もし火消しやら同心が飛んで来ても、何とでも言いくるめてみせますから、タクトさんは安心していってらっしゃい」

「借りができたな、世七郎さん」

「いいえ、これでようやく、貸し借りなしです」

 タクトは嬉しい気持ちになったのを隠すように、さっと世七郎に背を向けて、一階の階段へ飛び降りるように向かうと、即座にわらじをはいて、外へ走り出した。

「ひゃあ!」

 そばにいた町人が驚きの悲鳴を上げる。

「すまない」

 タクトは、わき目もふらずに、先ほどアズマが伝えた場所へ走り出した。
 ──あの朝田ってやつが、オレたちを襲いに来た理由が、わからない。

 ──つまり、襲う理由がないのに襲ってきたってことは……何かの理念で動いたわけじゃない。

 ──誰かに雇われたって事だ。

 ──アズマの身柄を確保したがっていたから、考えられるのは、アズマの出生に関わってる奴……。

 ──あいつらを追えば、その理由までたどり着けるだろう。

「みつけた!」

 タクトが細身から出る軽やかな疾走を続けていると、前方のほうで、えながやの追撃からうまく逃げ延びたと思い込んでいそうな顔の、頭巾をとった朝田の顔が見えた。

 ──あいつら、完全に俺たちの追撃を撒いたと思ってるな。

──オレたちがまだ火の始末に追われて、尾行する余裕なんかないと踏んでるみたいだな。

 ──そりゃそうだよな。こんだけ離れてんのに、匂いだけで居場所をバッチリ特定するなんて、アズマじゃなきゃ到底できない。同じ立場なら、オレだって逃げおおせたと安心する。

 ──ん? 待てよ、つまり、黒幕のやつは、アズマがこの能力を持っていることを知らないってことか? 知ってたら、匂いのことを計算に入れた襲撃にするはずだ……。

 ──考えても見れば……アズマが、10人がかりでも倒せないくらい強いってことも、知らないのもおかしいな。この裏ボスは。

 ──アズマのことを熟知している奴が、アズマを狙ったわけじゃない……?

 ──どういうことだ?

 ──ならいったい、そいつはアズマの何を狙っているんだ?

 タクトは朝田の背中をにらみながら、首をひねった。

 ──ともかくそれは後だ。絶対に見失わないようにしないとな。

 タクトは朝田と距離を保ったまま、追跡を続けた。

 男たちは大通りを出て路地に入り、右へ左へと進路を変えながら、歩いていく。

 川べりの長屋まで来たところ、朝田は誰もいないのを見ると、そのうちの一軒の家の戸になにごとか、ささやきかけていた。

 ──ここに、黒幕がいるのか?

 タクトはというと、重なった桶のすきまから、朝田を観察していた。

 タクトの尾行に気付かない朝田が、合い言葉でも言っているのか、そこそこ長い何かの言葉を口にすると、中から目にクマをへばりつかせた、やせ細った男が出てきた。

 ──こいつが、オレたちを殺そうとした黒幕……!? いや、それにしちゃ、弱々しすぎるって言うか、息も絶え絶えな感じがしないか?

 ──やばいな、何にもわからん。

 タクトが思案しているさなかにも、朝田とヤセ男は、つぶやき声で何か伝えあっているようで、ヤセ男のほうはウンウンと、しきりに首を縦に振っていた。

 あらかた話したのだろう、朝田はいきなりきびすを返して、別の木戸(長屋は木戸と板に囲まれ、誰が出入りしたかわかるようになっている)から出て行った……。

 タクトは桶の陰から身を出すと、消えた朝田と、いま朝田がコンタクトを取っていた長屋の一角を見比べた。

 ──こいつは仲介人だ。面倒なことをしてくるもんだ。

 ──だけど、今の時点でわかったことがある。

 ──アズマに刺客を放ったのは、公権力とか、少なくともカネを大量に持ってる連中ではなさそうだ。

 ──カネか権力があれば、こうやって追跡するオレを監視する奴も雇えただろうし、いま監視しているオレを始末しにも来れただろう。

 ──が、オレは難なく、朝田と仲介人を特定できている。

 ──あるいは、今回の襲撃を、失敗するなど考えてもいなかった……とかいうセンもあるけどな。オレだって、10人の殺人鬼に襲わせれば、ふつうなら生き残れると思えないし。

 ──こうして五体満足でいられるのはアズマのおかげなんだが……ここらへんが、アズマの狙われる理由なのだろうか。

 ──あいつ、一体なんなんだろうな。

 ──片手で人間の腕やら首やらをハネ飛ばしたり、本気になると女の声帯になったり。

 ──あいつの出生も謎だらけだ。

 ──だからこそ、首を突っ込んでみたいと思ってしまうんだが。

「だけど、ここからが長丁場だ。あの長屋の男はいずれ、連絡役としてどこかと接触をはかる。あいつがいつ動いても良いように、ずっと隠れて張ってないとな……何日かかることやら」

 タクトはそうつぶやくと、白昼堂々、そこらの家でくすねた、大きな灰色の風呂敷と漬け物石を4つ抱えながら、長屋の一部屋の前でぼんやりたたずむ老人に近付いた。

「あー、すまない。俺はここらへんで屋根を直して回ってる者だが」

「へ? へえ」

 オサムライ様とあらば、貧乏士族であろうと、天のように敬わねばならない平民には、そう返すしかなかった。

「あんたの屋根、雨漏りしかかってるぜ。20文で直してやるよ」

「に、二十文で? そ、それはありがとうございます」

 昔からいらないものを押し付けられてきたのだろう、町民の老人は、ありがたくない申し出を、ありがたそうに礼を並べてきた。

 ──クズ侍の理論だ……この手はやりたくなかったんだがなあ。

 タクトは自己嫌悪しながらも、話を続ける。

「時間はかかるぜ。なんといっても、まだ仕事を始めたばかりだからな」

 タクトはそう言うと、あたかも屋根修理業者のような顔をして、ひょいっと身軽に長屋の屋根に登った。

 そうしてタクトはひとつの屋根の上に、雨漏り防止シートをでっちあげると、さも何かを直そうとしているような感じを出しながら、そのシートの下にもぐりこみ、その隙間から、目的の家の監視を開始した……。

次話