同じ日、夕方のえながや。
黒くてかる屋根が、夕日を帯びて赤黄金にきらめく光を、アズマのいる部屋の一室に投げ込んでいた。
「アズマさん!
おしづは二階の部屋に
そこではちょうどアズマと、宿の主人,世七郎が座って向き合い、
おかげでおしづは、赤い一本線が何本も走る腕を、もろに見ることになった(もっとも
「ひどい、なんでアズマさんがこんな目に。一体、誰がこんなことを……」
「わかりません……理由も言わずに襲ってきましたから」
アズマにはそう答えるしかなかった。
「タクトさんはどちらへ?」
「タクトさん? あの人はいま、半里(2キロ)離れた長屋の屋根に寝そべってますよ」
「え? 半里? 長屋の屋根で?? え!?」
「タクトさん、すごく疲れてるみたいですね。眠いとか小便に行きたいとか考えてるみたいです。でも、そんななのに、ずっと、そこを動かずにいる。何かやろうとしてるんでしょう」
アズマの嗅覚について、昨日、まだ黒頭巾が襲いかかってくる前、タクトがこんなことを言っていた。
──おそらくブラッドハウンド犬のことを指しているのだろうが……犬はフィラデルフィア市に落ちた一滴の甘味を見つけることができるそうだ。
──アズマの鼻も、もしかしたらそれと同じ……イヤ、明らかに、お前のはそれ以上だな。
──誰の耳や目や直感よりも、お前の嗅覚は色んなものを見分けるんだ。
「タクトさんが戻ってこないのには理由があるんだと思う。僕が行けば、匂いをたどって助けることができる。それはあの人もわかってる。
だけど、それが使えない状況……たとえば、まだ誰を追えばいいかわからない、とか、もしくは、僕を呼ぶべきではない状態……そんな有様なんだと思います。手伝って欲しかったら、そこらへんの歩いてる人にお金を払うなり頼み込むなりして、ここへ遣いをよこして僕を呼ぶはずですしね。つまり、タクトさんは今、むしろ助けを望んでないはずです」
アズマはおしづと世七郎にそう語ったが、それはタクトの行動パターンを的確に言い当てていた。
アズマが舌っ足らずなのでここで補足しておくと、匂いは、じつはさまざまな情報を持っている。
たとえば動物が、怖がっている人間を選んで特に襲うのは、匂いで判断しているからだと言われている。
怒るときに出る匂い。おそれる時に出る匂い。ついでに言うとガンや腎臓病、糖尿病などによる体調の匂い。
その時々によって、生き物は身体から発する匂いが変わるのである。
アズマは、風に乗ってやってくる江戸百万の人間の中から、タクトの匂いだけを割り出し、かつ、その匂いに含まれる感情まで分析できるのだ。
「世七郎さん」
アズマは世七郎を見た。
「はい?」
世七郎はアズマの腕にできていた、最後の傷を包帯でくるみ終わったところで返事をした。
「お世話になりました。すぐ、ここを出て行きます。しばらく、ここには近づかないようにしますから」
「そりゃ……何でですかい」
「何でって、それは……迷惑をかけたでしょ。部屋は血まみれ、畳だって焦がしたし」
「そりゃそうですが、こっちだって悪漢から守ってもらった義理があります。これでやっと恩が返せたってもんですよ」
「そんなこと言ってても、本心では、またあの連中が来るかもしれないって思ってるんですよね。こわいんでしょう? 本当は出て行ってほしいんでしょ? 匂いでわかりますよ」
アズマに対しての、良い感情、悪い感情。
この二年の間、アズマはそれらを、常に匂いだけでかぎとり、良ければ近づき、悪ければ遠ざかることで、大きな事故に遭わずにやり過ごしてきた。
いま、世七郎は、たしかにアズマを疎み、おそれていたのである。
アズマはそれらの匂いを放つ人間がどうするかを、身をもって知り尽くしていたが……世七郎の返答は、アズマの予想とはまったく違うものだった。
「へえ、そうですよ」
まず世七郎は、アズマに喝破された心の奥底を、あっさりと認めたが、それのみに終わらなかった。
「たしかにそうです。ですがね」
世七郎はもともと深い目尻のシワをさらに深めながら、目を細める。
「こっちにだって意地ってものがあります。アズマさん。
怖いからやらない。寒いからやらない。面白いからやる。面白くないから続けない──人間生活が、こんな単純なものだけでできてるとお思いなんですか?
戦場に立つ兵は誰だって怖い。死にたくはない。だからその感情だけに従っていれば、どこの戦場でも兵を一兵たりとも見かけることはないはずですが、実際は違う。
彼らは一人一人、戦う理由が違う。金のため、家族のため、名声や地位だけでなく、脅されていたり、名誉挽回だったり汚名返上もあるでしょう。
人は、感情以外のものでも動いてるんです。
私たちだって、いつだって意地とやせ我慢で、怖さに逆らいながら、だるさを押しのけながら、毎日布団から起きて働いてんですよ。
十人もの頭のおかしい侍がいきなり押し掛けてきて、他人の宿を血まみれにして、謝りもせずに出て行く。これに懲りて私があなたを追い出したら、私はこれからも似たようなことがあるたびに、こうして人を切り離して生きていかなきゃならなくなる。
これは人間だけの筆法じゃない。
昔、知り合いにたのんで海に潜らせてもらったときのことです。小さな魚が自分の家を守るために、私を口でつついてきたことがありました」
「小魚が?」
「ええ、そうです。小魚は巨大な私が恐ろしかったでしょうが、家の子供や妻を守るために、勇気を出さなくてはならなかったってことです。
いいですかい? アズマさん。あなたは匂いでどうこう判断ばかりしていますが、それにばかり頼らず、もう少し心のほうも、しっかりと見つめてあげることです。自分のものも、他人のものも」
「心の……ほう……」
手厳しく言い返されたアズマだが、ふしぎと不快な感じはなかった。
世七郎が、どこまでもアズマの成長を願っているからこそ口にした言葉だと言うことは……『匂いで』わかったからだった。
アズマはあまり叱られたことがない。
親が子をしかるのを、何度もアズマは見てきた。
あれを、アズマは羨ましいと思っていた。
自分にも、そういう人間はいるはずだと。
いまだに、そういう気持ちと出会えたことはないが、もしかしたら今の気持ちに近いのかもしれない。
「──世七郎さん。私からもいいですか?」
話が一区切りついたのを見計らって、黙って様子を見ていたおしづが間に入るようにして、世七郎のとなりに座った。
「アズマさんにお尋ねしたいことが、いくつか。
この
「さあ……」
「殺されかけたんでしょう? お
「あ、いえ……奉行所の世話になるわけにはいかないんです」
あぐらをかいていたアズマは、自信なさげに目をそらし、腰を丸めて、しどろもどろな返答をした。
「なぜですか?」
おしづの瞳がにぶく光った気がした。
「その……えーと、あの……」
アズマの二年ぶんの記憶の中には、相手を言いくるめられるような知識や情報など、詰まっているわけがなかった。
「僕……戸籍がないんです」
けっきょく、アズマは正直に話す以外に、何か名案を思いつくことができなかったのである。
戸籍の詐称。
そんなことをやっている人間が奉行所に赴けば、普通の人だったら問題のない質問でも、返答に窮するものが頻出することになるだろう。
この時代の司法は『
そして自白させるのに、もっとも適した方法とは……
痛みから解放されるために、ありもしない罪を
「お侍さまではないんですか……これはまた」
世七郎はアズマの告白を聞くや、即座に周囲を見回した。
幸いにも、掃除が終わってなお、まだ血のにおいが残るために開け放たれていた二階の宿泊部屋には、アズマ、世七郎、おしづ以外には誰もいなかった。
「僕が奉行所に駆け込めないのは、そういう理由なんですよ。でも侍の肩書きがないと、どうにも動きにくいですから」
「仕方ないなあ、それは」
世七郎はそれを聞いたとたん、アズマへのへりくだった態度をやめたが、その仕草は決して尊大ではなかった。
「アズマさんがお侍さまでないのはわかりました。でも、私の恩人であることには変わりありません」
おしづの態度にいたっては、何も変わらなかった。
「この事は、私の胸の中に閉まっておきます……世七郎さんはどうされるんですか」
「私も同じさ。他言はすまい。だが困ったな……それだと法を使って無法を正す、ということはできそうにない」
世七郎が腕を組んで、難しい顔になる。
「でも僕、おかげで気持ちが軽くなりましたよ」
アズマはつとめて明るく言ったが、それは嘘でも世辞でもなかった。
いつも内心、侍の詐称がバレないかと心のどこかで心配しながら人付き合いをしてきたアズマが、初めてありのままの自分を話せたのである。
自分を自分として受け入れてもらえる。
それだけで、充分すぎることだった。
だが裏を返せば、それは危なっかしい告白ともいえる。
ふつうなら、その事実をタネにゆすられたり、脅されたりしないかと心配するものだが……アズマはそれを考えるほど、記憶も経験も多くはない。
いわば、疑いを知らぬ子供と同じ。
アズマにとって幸運だったのは、いま真実を打ち明けた二人は、口の堅い人間だったことだった。
「軽くなってもねえ……問題は相変わらず重いままだよ。いいかい? アズマさん。タクトさんが戻るまでは、頑張ってここにいるんだ。いいね?」
世七郎は包帯を巻き終わったアズマの手を上下に振りながら、アズマをいさめるように言い聞かせた。
「でも、世七郎さん……僕がここにいると、えながやに
「いいかい? アズマさん。まだあの連中は、あんたを狙っている。そんなときに、だだっ広い河原にいてみなさい。前だけでなくうしろからも狙われ放題になってしまうよ。あんたは鼻が利くが、それはつまり、風下から来られたらひとたまりもない、という意味だろう?」
「でも、ここで戦うよりマシです」
「私はね」
叱るでも、なじるでも、たしなめるでもない、やわらかい物言いで、世七郎は続ける。
「妻は死に、子供は四人いたが、みな早死にしたよ。私は独り身なんだ。再婚とかも勧められるけれど、こんな目に遭ってると、また妻や子が私を置いて死ぬんじゃないか、と考えたら、耐えられなくてね。
そもそも、妻も子も、まだ私の思い出という形で、昔のまま、ここで生きているんだ」
そう言って世七郎は、自分の胸に親指を当てた。
「だから、この宿えながやは、よその宿の次男とか三男とかに譲ろうかと考えているところさ。
──ところでアズマさん。友と言うのは、どういうのを言うかわかるかね?」
「とも……? 一緒にいて、不快ではない人間のことですか?」
「それは顔を知っているだけの人間だよ。ふつうは、それを友と呼びたくなるし、私もそうだった。
だけどね。違うんだよ。
友とは、あんたの危機に時間を使える人間のことを言い、親友とは、あんたの危機に命を張れる人間のことを言うのさ。
これは、死んだ私の親父の受け売りだけどね。
──あんたは一度、私のために命を張った。今度は私が、あんたのために命を張って、ここで何が何でも、あんたを守るつもりでいるのさ。怖いけど、それでもやるつもりだってのは、さっきも話したね」
「……」
アズマは言い返せずに、その場に立ち尽くした。
そこにアズマの肩に触れることで、はしけを渡してきたのは、おしづだった。
「あなたの負けですよ、アズマさん」