三日後。
長屋の屋根は低く、人が潜伏するには適さないし、物陰の桶や樽に身をひそめるにしても、昼間ならむしろ悪目立ちするのは間違いない。
このころの人間の結びつきの強さは、インターネットが産まれた頃の比ではない。
──長屋に住む者は、ほぼ例外なく、お互いが顔見知り。
そんな中にタクトという未知の異物がうろついていれば、気にとめられないはずがなかった。
それでもなお、タクトは人の通行を先んじて読み取り、あるいは人目のないところを選んで潜伏を試み、あるいはまた風呂敷をかぶって屋根にへばりつく……ということを繰り返して、なんとか三日間、尾行を続けることに成功したのである。
──とはいえ、これができたのは奇跡としか言いようがない(そろそろ限界でもあった。これ以上の張り込みを続けていたら、長屋の誰かに、さすがに何らかの手を打たれたことだろう)。
とうぜん、ほとんど寝ていないから、頭は朦朧としているが。
だが、この精神の削れ落ちる労力のおかげで、タクトはついに『根元』にまで到達したようだった。
運河にかかる京橋にて、みすぼらしい仲介者が、依頼人とおぼしき男と接触するのを目にしたのである。
『根元』の仲介者とタクトが思ったのには、訳がある。
仲介者が話す相手というのが──亀井関規だったからである。
──あいつ……あいつが犯人なのか?
──間違いない。あいつ、おしづちゃんのところに来て、アズマの顔を見るや、すぐに逃げてった奴だ。
──考えても見れば、アズマのやつ、いままでずっと、手がかりらしいものは見つけられなかったのに、亀井に逃げられた直後、暗殺者が10人も踊り込んできたんだよな。
──その事に、亀井とアズマに何らかの関わりがあることに気付くべきだったんだ。
──黒頭巾どもは、アズマを連れ出したかったようだったが、その理由説明は、はぐらかしてきた。
──理由を説明すると、アズマの同意を得られない内容だってことだ。
──だから頭巾をかぶってアズマを襲いにきたんだ。
──いま、誘拐犯をけしかけた人物を、亀井って男と特定した。目的は果たせたと言っていい。
──このまま帰ってもいいんだが……いや、むしろ帰りたいんだが……。
タクトは素知らぬ顔で、亀井と仲介の中年男の話し合う距離まで近付いた。
タクトが思った通り、亀井はタクトを見ても、アズマの一味とは思いもしない様子で、仲介の男から話を受け取り続けていた。
──やっぱりな。オレに気付かない。
──あのとき、亀井はアズマの顔を見るなり、驚きながら一目散に逃げ出した。
──突発的なことが起きたり、緊張したり、集中したりしているときってのは、生物学的に人間の視界は、いちぢるしく狭くなるんだ。
──目の前から獣が襲ってくるとき、その獣の一挙手一投足を観察して、命を守る動作をおこなうために。
──獣に襲われているときに、遠くの山の美しさとか、木々のせせらぎなんかに注意をそぐ必要はないからな。
──オレだって銃口を突きつけられているときに、遠くの方でオネーチャンが裸踊りを始めても気付けないだろうし、後で警察の事情説明で、オネーチャンがうしろにいたと言われても、そうだったのか? と聞き返すレベルだろう。
──だからオレがここで堂々と聞き耳を立てても、こいつには気付かれない。
「けど、念のため……」
タクトは橋を渡る、ゆきずりの町人男に体当たりしそうになるほど近付くと、その腰帯にささっていたキセルをくすねて、亀井と仲介者のいるすぐ横で、橋の欄干でタバコを吸うフリを始めた(ただし、もともとタクトは喫煙は嫌いなので、キセルを握って口のそばに当てているだけだったが)。
──親父のことは嫌いだったけど、このスリの技術は役に立ったな。
そうしてタクトは、尾行相手の話に耳をかたむけていると、中年男は亀井に、亀井は中年男に、タクトの知りたい情報を山ほど吐き始めた──