23.No One Escapes Death

「へへ……間違えて、ティーカップ持って来ちゃったよ。あいつ、包丁まで投げるんだもの。

 すぐに逃げなきゃ、タクトを助けなきゃ、とか考えて……必死だったとはいっても……何でだろね……財布とか通帳とか、もっと大事なものがあったのに、よりにもよって紅茶カップって。私裸足だし」

 母マリアは、寒空へと様変わりした11月の公園のベンチで、横のタクトに向けて苦笑いをした。

「父さん、もう戻らないの?」

「戻る……? ああ、性格が昔に戻らないのかって意味ね。うん……さあ……どうかな」

「父さん、仕事決まれば元に戻るよね」

「……」

 母マリアは、それ以上しゃべらず、顔をそむけて口を手で覆った。

 母ののどから、小さい呻き声が聞こえた。

 タクトには、母のその態度が示す意味はわかったが……この時のタクトは、あまりにも無力すぎた。

「ここ、寒いね」

 当時のタクトには『ウチに帰りたい』という、母を困らせる言葉を吐かずに飲み込むしか、できることがなかったのだ。

「待ってね……ちょっと待って。小中学校のときの友達の……電話番号思い出してるところだから……ああー、昔は番号、覚えてたのになー」

 母マリアがきれいな顔にシワを寄せながら、両手の指をこめかみに当てて、助けてくれそうな友人の電話番号を、何とか思い浮かべようとしていた。

 そんなとき──

「おや? おやおやおや? おっやぁ?!」

 マリアとタクトの横から、ハスキーぎみな、若い男の声がぶつけられてきた。

 見るとそこには、ダボダボの、適当に色んな色の絵の具を混ぜたような、あたかも毒カエルがまといそうな、まだら模様の服装をした、6人の若い男たちが立っていた。

 そのひとりの、ガムをクチャクチャ噛んでいる男が、マリア達に話しかけてきたようだった。

「おねえさん、こんなところで何してんの? 困ってんならハナシきくよ」

 リーダーらしい毒カエル男を先頭にするように、似たような顔と格好の男たちは無遠慮に近づき、あっというまに、マリアとタクトのベンチを囲んでしまった。

「結構よ。こんなオバサンに話しかける暇があったら、もっと若くていい子の気を引けるように自分磨きしたら?」

 マリアは四面楚歌な布陣を男たちに取られているにも関わらず、気丈さをまったく崩さなかった。

「オバサンだって? どこにいんだ? そんなの。ここにいんのは、キレーなお姉さんだぜ」

「そうそう、キレイだよ、おねーさん」

「俺たち自分磨きのために、困った人に声かけてんだわ。いま、まさにあんた、困ってるんしょ?」

 男たちはそこで、コーヒーとタバコの混ざり合った、不快な息を飛び散らしながら高笑いした。

「子供がいるのよ。さっさと消えなさい」

 マリアは声をすごませるのみではなく、そのまなざしもナイフのように鋭くとがらせたが、男たちにそんなことなど、関係あるはずがなかった。

 男たちにとっては、逃げ場のないカマキリがライオンに向けて、無駄な威嚇をしているのと同じ気持ちだったのである。

「まあまあ、怒らないでよ、おねえさん。いい話があるんだ」

「……」

「仕事……ふへへ、ひとつ紹介できるよ。大丈夫、子供を預けっところもあっからさ。何なら子供の前で仕事してもいいけど」

「……消えて」

「消えませ~ん」

 男のひとりが、顎をしゃくりあげ、売れない芸人のような変顔になったが、すぐに男はその変顔をしかめっ面に変えてきた。

「オラ、こっち来いっての」

 男が、ベンチに深く身をちぢめるマリアの腕をつかみ、立ち上がらせた。

「身体だけはいいんだからさ、それ使えや」

「やめ……やめて!」

 マリアはさすがに青ざめるが、その反応は、男たちの増長を高めるだけだった。

「やめろ! 母さんにさわるな!」

 タクトがチンピラの脚にしがみつくが、それで何とかなる相手のはずがない。

 それどころか、そのチンピラの苛立ちが、もろにタクトに向くことになった。

「どけや! クソガキが!」

 男は何一つ容赦のない平手打ちを、タクトの頬に放った。

「あぅっ!」

 体重が19キロしかないタクトだったが、倒れることも吹っ飛ぶこともなく、その場に踏みとどまって男たちを睨みつけた。

 この時の非力なタクトにできることは、倒れないこと、睨みつづけること──節を屈していないことを示すことが、最大の抵抗だった。

 子供が子供らしくない態度を見せたこと──それが、男の怒りに火を注いだ。

「てめ!」

 男は今度はビンタではなく、拳をがっしり握りしめ、もう一度タクトの頬に見舞おうとしたが……それは、うしろにいた母マリアが羽交い締めにすることで食い止めた。

「やめなさい! あんたたち! 子供に手を出すなんて、本当に人間なの?!」

「はーい、子供に手を出しまーす。クズでーす」

 羽交い締めを受ける男は、マリアが力ずくで締め上げる指をこじあけ、逆に抱きしめるようにしてマリアを両腕で縛り付けてしまった。

「……っぐ……はな…………せ……!」

「やめろ! お前ら……オグッ!」

 男たちの暴挙をとどめようと飛びついたタクトだったが、そのタクトのみぞおちに、チンピラ男の容赦のない蹴りが食い込んだ。

「オッ…………………ごっ………………」

 呼吸のやりかたを忘れるような、きつい一撃。

 それを見た母マリアが、何かをタクトに叫んだようだったが、その声の理解さえできなくなるような、意識の明滅。

 タクトは味わったことのない激痛に、身を丸めて悶えた。

 ──母さんを、守らないと……

 心ではそう決めているのに、タクトの身体のほうは、立ち上がってチンピラに抵抗するより、身を丸める動きをほどくことができなかった。

 ──身体が……動かない……母さん……。

「隊長! 確保しました! これより我々のアジトへ連行し、性欲発散と資金確保の作戦に入るであります!」

「あー、いいから運べよ」

 別の男が、ここでの用は済ませたとばかりに手をひらつかせて、うずくまるタクトを横切り、公園の出口に歩き出した。

「タイトル何にすっかね?!」

 また別の男のひとりが、独り言かげんにつぶやく。

「──sure, how about a story about fighting off arrogant thugs?(イキリ散らかしたチンピラを撃退する話』はどうだ?)」

「お? いきなり外国語ペラペラになって、どうした?」

 チンピラ男が振り返ると、そこには、頼りになる大親友たちの代わりに──従軍経験者の、アドレナリンを垂れ流した、腹がでてなお筋肉ダルマと呼べる、いかつい白人中年が立っていた。

「え? あの、ええと……奥さんにお世話になってまオボブッッ!」

 すべて話しきる前に、チンピラ男のみぞおちには、先ほどのタクトにやっていたものより、はるかに強烈なボディブローが突き刺さっていた。

 のちにタクトも半年だけ父から学ぶことになる、シカゴ土着の、荒々しいボクシングである。

「オコッ……ポホッ!」

 変な単語を並べ、さらに口の中から胃液を吹き散らしながら、チンピラ男は前のめりに崩れて、そのまま動かなくなった。

 そんな男の後頭部を、白人中年──父ユリシーズが、おもいきり踏み抜く。

 その男の鼻の形が右に大きく変型したのを、しばらくタクトは夢にまで見ることになる。

「無事か、タクト! マリア!!」

 ユリシーズはまずタクトを抱き上げ、太い腕に乗せると、そのままマリアのほうへ寄った。

「……」

 母マリアはこわばらせた目を横にそらす。

 そんな反応には構わず、父は、まるでかき集めるような動作で、マリアとタクトをまとめて抱き寄せ、震えるようにむせび始めた。

 酒臭く、汗臭く、加齢臭もひどかったが……タクトの感じる寒さは、少しだけ和らいだ──