それから翌日、文久元年五月十三日(1861年6月20日)。
明治維新の七年前と言えば、たびたび人が斬った、斬られたと
「あのねえ、お侍さま……路銀がないのに泊まられたって?」
大店の主人、
「いや、あるにはあったんだ。でもホラ、
大小の刀を腰に差した少年が、いま思いついたかのような
「そもそも、本当に持ち合わせてらしたのですか?」
「もちろんだ。ガマ口の、いかにも高級そうな財布」
「先ほどは布地の袋に入れていたと言われておりましたが……」
「あーそうそう、それとガマ口の両方。ホントだって。あとオレ、朝はホントに弱いんだ。あんまりデカイ声で話さないでくれ」
「えーと……霧乃森タクト様でしたか? 話し合いをせねばならんようですなぁ……」
壮年の、
そして困らせているほうはというと……
とくに不思議なところのない、典型的な袴姿ではあったものの、このタクトと呼ばれた人物の左耳には……糸で吊るされ、三角
その袋の中には、秋の落ち葉を砕いたような、何かの葉っぱが
「おっ、これはアレか。奥から
「屈強な男とやらを
「用心棒がいないってのか……そうだ、ならオレを雇わないか? 体力と笑顔には自信があるんだ、住み込みで働くぜ。見てわかるだろ? 今もオレの
「そう言われましても、人手はなんとか足りておりましてねぇ……使える給金も今でギリギリなんですよ」
「なら、ホラ。どこか仕事を紹介してくれても良いんだぜ」
「
世七郎は、さらに困った表情になった。
「あの……ちょっと聞きたいんですが、この宿ではあんまの職が余ってませんか? あれば紹介してほしいです」
白い着物と
「オイ!」
その言葉に反応したのは、タクトだった。
「仕事はまずオレが紹介してもらう約束だぜ」
タクトは総髪を揺らして、白袴のアズマににじり寄った。
「何なんですか、あなた、やぶからぼうに……」
近づくタクトからのけぞりながら、アズマが顔をしかめた。
「わたしゃ、仕事を
世七郎はあきれ加減に突っ込む。
「ですって。あきらめてください」
「ここであきらめたら、お
「支払いで困ってるんですか? だったら、何か
「そりゃ名案だな!」
タクトは即座にそう叫んだ。
「
タクトは
「へえ……これだとお釣りを渡さねばなりませんよ」
「あと十年もすれば、どうせ武士は
「それなら私も
「話が収まって良かったですね……ところで、あなた、何を耳から下げているんですか」
アズマは、タクトの耳にさがったものに目を止め、質問した。
「これか? 紅茶だよ。ティーバッグっていうんだ。オレの
「いえ……」
「なら、あんたは違うな。次はオレの質問だが、あんたこそ……なんで
「これは死ぬためのものではなく、僕が生きるためのものです……どうも、暗い色というものが苦手で」
「変なことを言う。夜になったら、どこもかしこも暗い色になるってのに。その時はどうするんだよ。夜の間は発狂しなきゃならんぞ?」
「そこなんですよ……そのせいで、まともに
「んん? なら、今まで毎晩、どうやって……」
タクトがその先を
二階の階段から、やたらと大きながなり声と足音がしてきたからである(
「オイえながや! 世話になったな!」
えらく派手な身なりの男が五人、降りてくるや、その前列にいた、
「は、はい! 土井伊織さまですね、五名様で三
「は?」
金の羽織をまとった、土井伊織と呼ばれた男が、世七郎の告げた言葉に
「はあ?」
「へ?」
「あ?」
「うんこ
次々に、四人の取り巻きも口調を合わせる。
「おい貴様……俺の身なりを見てわからんか」
土井伊織は
「俺は
「そうだそうだ! 伊織さまを見習え!」
「まさにまさに! 伊織さまが正しい!」
「無料無料! 伊織さまのために無料!」
「口くっさいよね伊織さま」
口々に、男の取り巻きがもてはやす。
このころ、攘夷を
下級士族はその
どこかの商家でめでたいことがあったと知るや、
上士族であれば、市民を何人殺しても、せいぜいが島流し。
昔の日本が道徳と
「われわれ商人ふぜいには、
世七郎は町人らしく、あくまでもへりくだって話すが、その瞳は、けっして武士の
それは『伊織さま』の機嫌をそこねることになったが、伊織さまのほうは、世七郎がそれを覚悟していることに、気づきもしなかった。
「何を生意気な……貴様ら、誇りと名分がどんなものか、身体に教えてやれ」
伊織さまは、うしろの配下に
「へーい」
やる気のない返事が帰ってくる。
「へーい、とは何だ! もっと
伊織さまが振り向くと、そこには、アズマとタクトが、4人の取り巻きをフンドシ一丁にして、頭から土間に
「こいつら、ちょうど4人だし、フンドシのところに四字熟語を一文字ずつ書こうと思うんだが、何が良いかな。オレ参上とか?」
「
アズマが
「書けねぇけど……頑張るわ」
タクトは
「……良いんじゃないですかね?」
「何ならショーユとかヒンシュクとかも書こうか?」
タクトはなぜだか得意げだった。
「お……お……お前ら……一体、何をした」
伊織さまが、
「殴って
タクトは筆を土間にほうると、立ち上がって伊織さまを
「ヒ……ヒエエエエエ!」
伊織さまは情けない声をもらしながら、大根のように埋まる取り巻きを四人、一瞬で引っこ抜いて、そそくさと逃げだそうとした。
「……──!」
その伊織さまの背に、アズマが追いすがったかと思うと、自らの腰に差さる刀の
だが、刀を抜き打とうとするその動作は、タクトの片手にさえぎられた。
その間に伊織さまは、四人を担いで逃げおおせてしまった。
「
タクトが、いささか
「なぜ?」
「殺すほどのことは、まだしてないだろ。それに今のやつ、仲間を助けてから逃げてたじゃん。根は良い奴なんだよ……本物のクズなら、そんなことはしない」
「……」
アズマはしばらく、
そのまま少しばかり
そんなアズマに、タクトは肩をすくめたが、ふと思い出したように、また口を開いた。
「そういや、あんた、まだ名前を聞いてなかったな。オレは霧乃森タクト。ホントはもうちょっと名前が長いんだが、まあタクトで良い」
「僕は……コスミコス……ミ……アズマ……えーと、小澄アズマです」
「なぜコスミを二回言った……? まあいいや。ともかく、チンピラに
「お待ちを、お強い
ずっと放置されていた世七郎が、やっとのことで
「その……タクトさま。こちらの刀は、お返しいたします」
「へえ、いいのかい?」
「
「そう、か……じゃあ、そこは
「いや、タクトさん、お金ないんでしょ? 僕、おごるのイヤですよ」
「え? 金ならあるぞ」
タクトは、ぼろ切れのような灰色の袋を胸元から取り出すと、その中身を手のひらにこぼし始めた。
そこから、銀七朱がぽろりとこぼれ出てきた。
「ちょっ……あるんじゃないですか。払って下さいよ、それで
世七郎が今度は泣きそうな顔になった。
「さっきまではなかったんだよ」
「まさか、そのお金……」
「あいつらが、悪いことをしてすいませんでした、とか言って置いてった(ことになってるよ)」
タクトは自らの手のひらから、先程の男たちが踏み倒した三朱銀と、四百文銭をつまむと、世七郎にしっかりと