3.塞翁が馬

 それから翌日、文久元年五月十三日(1861年6月20日)。

 明治維新の七年前と言えば、たびたび人が斬った、斬られたと(さわ)がれているころで、物価も不安定に高騰(こうとう)している時代だった。

 ()の時(早朝6時頃)、通旅籠町(とおりはたごちょう)

「あのねえ、お侍さま……路銀がないのに泊まられたって?」

 大店の主人、世七郎(よしちろう)が、困った顔で()げた。

「いや、あるにはあったんだ。でもホラ、相部屋(あいべや)だったろ? 誰かに財布を(ぬす)まれたんだよ」

 大小の刀を腰に差した少年が、いま思いついたかのような口振(くちぶ)りで、ひょうひょうと語る。

「そもそも、本当に持ち合わせてらしたのですか?」

「もちろんだ。ガマ口の、いかにも高級そうな財布」

「先ほどは布地の袋に入れていたと言われておりましたが……」

「あーそうそう、それとガマ口の両方。ホントだって。あとオレ、朝はホントに弱いんだ。あんまりデカイ声で話さないでくれ」

「えーと……霧乃森タクト様でしたか? 話し合いをせねばならんようですなぁ……」

 壮年の、白髪(しらが)まじりの世七郎は、また白髪の増えることを心配しそうな顔で言った。

 そして困らせているほうはというと……華奢(きゃしゃ)な肉付きの、総髪(そうはつ)(ポニーテールのような髪型)の男。

 とくに不思議なところのない、典型的な袴姿ではあったものの、このタクトと呼ばれた人物の左耳には……糸で吊るされ、三角(すい)の形状をした、半透明の袋がぶら下げられていた。

 その袋の中には、秋の落ち葉を砕いたような、何かの葉っぱが()まっているようだった。

「おっ、これはアレか。奥から屈強(くっきょう)な男が出てきてオレをとっちめる流れだな? そんで、オレがそれを軽くやっつけて、あんたのところの娘がオレに()れるって流れだ」

「屈強な男とやらを(やと)う金なんて、ありませんし……ウチには娘どころか、子はおりません。それに、(なぐ)ったりしませんよ、話し合いは話し合いです」

「用心棒がいないってのか……そうだ、ならオレを雇わないか? 体力と笑顔には自信があるんだ、住み込みで働くぜ。見てわかるだろ? 今もオレの愛想(あいそ)は大爆発してるじゃん? あんたは金が取り戻せるし、オレも扶持(ふち)を得られる。一石二鳥じゃんか」

「そう言われましても、人手はなんとか足りておりましてねぇ……使える給金も今でギリギリなんですよ」

「なら、ホラ。どこか仕事を紹介してくれても良いんだぜ」

()み倒しの方を、知りあいに紹介する、ですか……しかしこれまた」

 世七郎は、さらに困った表情になった。

 (らち)のあかない問答がまだまだ続くかと思われたとき、今度は入口の土間(どま)のほうから、一人の人物が入ってきた。

「あの……ちょっと聞きたいんですが、この宿ではあんまの職が余ってませんか? あれば紹介してほしいです」

 白い着物と(はかま)に身を包んだ少年──アズマは、入ってくるなり、そう切り出した。

「オイ!」

 その言葉に反応したのは、タクトだった。

「仕事はまずオレが紹介してもらう約束だぜ」

 タクトは総髪を揺らして、白袴のアズマににじり寄った。

「何なんですか、あなた、やぶからぼうに……」

 近づくタクトからのけぞりながら、アズマが顔をしかめた。

「わたしゃ、仕事を斡旋(あっせん)する、なんて話してはおりませんよ」

 世七郎はあきれ加減に突っ込む。

「ですって。あきらめてください」

「ここであきらめたら、お(なわ)についちまうじゃんか……勘弁してくれよ」

「支払いで困ってるんですか? だったら、何か抵当(ていとう)に入れたら良いんじゃないですか? その刀とか」

「そりゃ名案だな!」

 タクトは即座にそう叫んだ。

旦那(ダンナ)さん、これでお縄談義はチャラにしてくれ」

 タクトは(さや)ごと大小を抜くと、世七郎へ押し付けた。

「へえ……これだとお釣りを渡さねばなりませんよ」

「あと十年もすれば、どうせ武士は廃刀(はいとう)……いや、何でもない。オレはそういうこだわりはないんだ、受け取ってくれよな。お釣りが気になるってんなら、オレも急ぐ身じゃないし、江戸に少しばかり滞在することにしよう。その刀のお釣りは宿賃に回しといてくれ」

「それなら私も文句(もんく)はございません」

「話が収まって良かったですね……ところで、あなた、何を耳から下げているんですか」

 アズマは、タクトの耳にさがったものに目を止め、質問した。

「これか? 紅茶だよ。ティーバッグっていうんだ。オレの唯一(ゆいいつ)のお気に入りさ。これが何かわかる人間が現れるまでは、ぶら下げとくつもりだ。あんた、これをどうやって使うか、わかるかい?」

「いえ……」

「なら、あんたは違うな。次はオレの質問だが、あんたこそ……なんで白装束(しろしょうぞく)なんて着てるんだい? 河原にセップクでもしに行くのか?」

「これは死ぬためのものではなく、僕が生きるためのものです……どうも、暗い色というものが苦手で」

「変なことを言う。夜になったら、どこもかしこも暗い色になるってのに。その時はどうするんだよ。夜の間は発狂しなきゃならんぞ?」

「そこなんですよ……そのせいで、まともに睡眠(すいみん)を取れてないんです」

「んん? なら、今まで毎晩、どうやって……」

 タクトがその先を(しゃべ)りきることは、できなかった。

 二階の階段から、やたらと大きながなり声と足音がしてきたからである(旅籠(はたご)『えながや』は、一階の奥が自宅で、二階を客の宿泊スペースにしていた)。

「オイえながや! 世話になったな!」

 えらく派手な身なりの男が五人、降りてくるや、その前列にいた、金羽織(きんばおり)の男がそう叫んだ。

「は、はい! 土井伊織さまですね、五名様で三(しゅ)です」

「は?」

 金の羽織をまとった、土井伊織と呼ばれた男が、世七郎の告げた言葉に(まゆ)を寄せた。

「はあ?」

「へ?」

「あ?」

「うんこ()れそう」

 次々に、四人の取り巻きも口調を合わせる。

「おい貴様……俺の身なりを見てわからんか」

 土井伊織は(すご)んだ表情のまま、世七郎にヅカヅカと詰め寄った。

「俺は攘夷(じょうい)のさなか。いわば天命を帯びたに等しい者だ。ここでつまらぬ問答(もんどう)をする暇があれば、貴様も()(もと)のために滅私奉公(めっしぼうこう)してみせよ」

「そうだそうだ! 伊織さまを見習え!」

「まさにまさに! 伊織さまが正しい!」

「無料無料! 伊織さまのために無料!」

「口くっさいよね伊織さま」

 口々に、男の取り巻きがもてはやす。

 このころ、攘夷を口実(こうじつ)に、支払いを踏み倒す連中は、一定数だが存在した(というよりも、士族の身分は昔から、何かしらの理由をつけて民衆から金を奪っていた)。

 下級士族はその貧窮(ひんきゅう)のために、必要のないものを市井(しせい)の者に無理矢理売りつけることもあれば、食べても飲んでも金を払わない者も、たしかに存在したのである。

 どこかの商家でめでたいことがあったと知るや、御用金(ごようきん)といって金をむしりとり、斬り捨て御免(ごめん)という、私刑の権利もサムライは持ち合わせていた。 

 上士族であれば、市民を何人殺しても、せいぜいが島流し。

 昔の日本が道徳と倫理(りんり)に満ちあふれ、令せずとも善はおこなわれ、平等にして対等、不条理や無情さとは縁がなかった……というのは、都合のいい幻想である。

 理不尽(りふじん)──それは今も昔も、そして未来も、変わりはしない。

「われわれ商人ふぜいには、(ほこ)りや名分(めいぶん)は身に余るもの。それら以外のもので扶持(ふち)(かせ)いでいる次第でして……どうぞお支払を」

 世七郎は町人らしく、あくまでもへりくだって話すが、その瞳は、けっして武士の空威張(からいば)りに屈してはいなかった。

 それは『伊織さま』の機嫌をそこねることになったが、伊織さまのほうは、世七郎がそれを覚悟していることに、気づきもしなかった。

「何を生意気な……貴様ら、誇りと名分がどんなものか、身体に教えてやれ」

 伊織さまは、うしろの配下に目配(めくば)せもしないまま命じた。

「へーい」

 やる気のない返事が帰ってくる。

「へーい、とは何だ! もっと覇気(はき)をこめろ!」

 伊織さまが振り向くと、そこには、アズマとタクトが、4人の取り巻きをフンドシ一丁にして、頭から土間に()め終わっている所だった。

「こいつら、ちょうど4人だし、フンドシのところに四字熟語を一文字ずつ書こうと思うんだが、何が良いかな。オレ参上とか?」

 半裸(はんら)になる男たちの前にしゃがむタクトが、どこから取り出したのか、(すみ)のついた筆を左手につまみ、横にいるアズマにたずねた。

魑魅魍魎(ちみもうりょう)とかどうです?」

 アズマが適当(てきとう)に思いついた漢字を提案(ていあん)した。

「書けねぇけど……頑張るわ」

 タクトは()け合うと、股間のフンドシに、サラサラと迷いのない達筆を滑らせたが、あきらかにその字は魑魅魍魎ではなかった。

「……良いんじゃないですかね?」

「何ならショーユとかヒンシュクとかも書こうか?」

 タクトはなぜだか得意げだった。

「お……お……お前ら……一体、何をした」

 伊織さまが、(ふる)えた声でたずねる。

「殴って(はだか)にして埋めただけだよ。お前も今から、ここに加えてやる。五字熟語とか、あったっけ?」

 タクトは筆を土間にほうると、立ち上がって伊織さまを(にら)()えた。

「ヒ……ヒエエエエエ!」

 伊織さまは情けない声をもらしながら、大根のように埋まる取り巻きを四人、一瞬で引っこ抜いて、そそくさと逃げだそうとした。

「……──!」

 その伊織さまの背に、アズマが追いすがったかと思うと、自らの腰に差さる刀の(つか)に手をかけた。

 だが、刀を抜き打とうとするその動作は、タクトの片手にさえぎられた。

 その間に伊織さまは、四人を担いで逃げおおせてしまった。

物騒(ぶっそう)なのはやめてくれ」

 タクトが、いささか(あわ)てたふうにアズマの右手首を(おさ)えたまま、こぼした。

「なぜ?」

「殺すほどのことは、まだしてないだろ。それに今のやつ、仲間を助けてから逃げてたじゃん。根は良い奴なんだよ……本物のクズなら、そんなことはしない」

「……」

 アズマはしばらく、(さや)に収まるままの刀を(なが)めていた。

 そのまま少しばかり思案(しあん)をめぐらしていたアズマだったが、やがて刀から手を離して、やっと帳場へ向き直った。

 そんなアズマに、タクトは肩をすくめたが、ふと思い出したように、また口を開いた。

「そういや、あんた、まだ名前を聞いてなかったな。オレは霧乃森タクト。ホントはもうちょっと名前が長いんだが、まあタクトで良い」

「僕は……コスミコス……ミ……アズマ……えーと、小澄アズマです」

「なぜコスミを二回言った……? まあいいや。ともかく、チンピラに(から)まれた者同士、何かの縁だ。甘味処(かんみどころ)ででも茶をやろうぜ」

「お待ちを、お強い旦那(だんな)様がた」

 ずっと放置されていた世七郎が、やっとのことで横槍(よこやり)を入れた。

「その……タクトさま。こちらの刀は、お返しいたします」

「へえ、いいのかい?」

悪党(あくとう)から救ってくださったお礼です。私だって(おに)じゃありません。恩があれば、何かで返したいものなんですよ」

「そう、か……じゃあ、そこは遠慮(えんりょ)なく付け込ませてもらうよ。行こうぜアズマ、甘味処(かんみどころ)。あんみつ食おうぜ」

「いや、タクトさん、お金ないんでしょ? 僕、おごるのイヤですよ」

「え? 金ならあるぞ」

 タクトは、ぼろ切れのような灰色の袋を胸元から取り出すと、その中身を手のひらにこぼし始めた。

 そこから、銀七朱がぽろりとこぼれ出てきた。

「ちょっ……あるんじゃないですか。払って下さいよ、それで宿賃(やどちん)

 世七郎が今度は泣きそうな顔になった。

「さっきまではなかったんだよ」

「まさか、そのお金……」

「あいつらが、悪いことをしてすいませんでした、とか言って置いてった(ことになってるよ)」

 タクトは自らの手のひらから、先程の男たちが踏み倒した三朱銀と、四百文銭をつまむと、世七郎にしっかりと(つか)ませていった。

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