30.諜報(ちょうほう)

 翌日の昼。

「ありがとうございました。おかげさまで、(じゅく)の場所も決まりそうです」

 おしづは民家の内見(ないけん)ののち、玄関先で、家主の男にふかぶかとお辞儀(じぎ)した。

「うんウン、いいのよ。手助けできて私も(うれ)しいよ。この家は死んだ兄の家だけど、親族は私だけでねえ……ウチには住むところがすでにあるんで、誰か(もら)い手はないか探してた所なんだよ」

「そんなお家を……大事に使わせて頂きます。感謝してもしきれません」

 おしづには夢があった。

 ──いや、夢は寝て見るものだけれど、これは起きている間に見るもの……目標だ。

 女のみの私塾(しじゅく)

 おしづは以前、女性ながらに医者になった人の話(シーボルトの娘のことである)を旅人から聞いた時、自分にも何かできないか考えるようになっていた。

 ──私も、勉強だけは昔から亀井さまに教えてもらっていた。

 ──あの女のお医者さまも、かなり苦労しているっていう話は聞いてる。

 ──それもこれも、この世にはびこる、女への偏見のためだ。

 ──私は、女性が少しでも進みやすくするための、手段を用意したい。

 女性の地位向上。

 うまく説明のできないおしづの代わりに表現すると、そういうことになる。

 女性のための塾を開くのは、その目標のためなのである。

 おしづは、アズマの手助けと並行(へいこう)して、この計画をおこなっていたわけだ。

 だがそこには、江戸時代ならではの障壁(しょうへき)が数多くあった(その時代は未来になっても何も変わらない。2018年、東京医科大学は女性受験者の得点を意図的に下げることで、合格者の男女比を操っていた。そしてその後、日本政府は『それについて調査はおこなわない』と、未開人のような発表をして世界から笑われている)。

 この頃でも、寺子屋(てらこや)でならば女に手習(てならい)のたぐいは教えられていたが、高度な授業をほどこす私塾は存在しなかった(それでもこれより前時代に、女の文学者や女の医師は生まれているが、その存在はとにかく少なかった。さらに付言すると、寺子屋と塾は別物で、寺子屋は小学校に近く、塾は高校や大学に近かった)。

 他にもおしづを(さまた)げる風習は多いが、結局のところ、それらは中国の唐時代から輸入された、強烈な男尊女卑(だんそんじょひ)である(つまり中国の影響を受けたそのころから、男女の自由恋愛も消滅したのだが、興味深いことに、その思想が流入する以前の日本は、自由に恋愛ができたのである)。

「女のための塾なんて、聞いたこともないねえ」

 家主が(たん)じる。

 誰もやらないことを(ひらめ)くのには、それなりの素地(そじ)が必要だが、おしづの発案には、亀井の力が大きく関わっていた。

 亀井は師の寺山士門に、未来の女がいずれ、どういうことをやり出すのか、聞いていた。

 日本の女のことではなく、海外の女の話であるが。

 寺山士門はサイコパス人格ではあったが、こと女の進退については、おおよそ通常の感覚を持っていた。

 それは士門がおそらく、母親という女に強く依存していたからだ。

 その士門の教育観が、めぐりめぐっておしづの教育観とつながるのは、ひどい皮肉(ひにく)であるが、時代とはけっきょく、ヒトの善悪など参照しないのだろう。

「めでたいじゃんか、おしづちゃん。オレが塾頭(じゅくとう)をやってやろう」

 おしづの随伴に来ていたタクトが両手を打ちながら、提案をした。

「私より少し下の女学生たちの中に……男のあなた様が……?? えーと、考えときますね」

「なんだか、これからは茶屋に行っても会えなくなりそうですね」

 背中のケガを押して外出していたアズマが、タクトの横で、少しばかり(さび)しそうにつぶやいた。

「まだまだ後のことですから大丈夫ですよ。それよりアズマさんは安静(あんせい)にしてらしたほうが良いですよ。こっちが心配しますよ」

「ケガにも構わずに出てくるってところを見せたかったんだよ。そんで、あわよくば塾の仕事をせしめようってんだ。確実に女の(その)だからな」

「それ、あなたでしょ……僕は本当に見てみたかったんですよ。おしづさんの塾ってものを」

「わかってますよ。アズマさん、優しいですものね……」

 おしづは目を細めた。

 おせっかいなのはわかっているが、おしづはアズマのためなら、大抵のことはやるつもりでいた。

 ──何で、こんな気持ちになるからだろう。

 ──たぶん、危なっかしくて、ほっとけないんだ。

「正式に引っ越すことになったら、教えてくださいね。荷物運びならできますし。タクトさんも来てくださいよね」

「え?」

「ちょっとチンピラを退治しただけで、あとはほとんど、おしづさんの世話になってるでしょ。恩返しできる良い機会なんだから」

「わかったよ……だから、そんなに引っ張んな」

「さあ、行きますよ、僕はケガ人なんだから、ちゃんと看病してくださいよ」

 いつもの(にぎ)やかさを披露(ひろう)しながら、アズマとタクトは去っていった。

「では、お二人さま、また」

 そんな二人に手を振って、おしづも茶屋に戻ろうと背をひるがえしたとたん──

「──っ!」

 おしづは、自らの視野の隅に、とある物が写ったのに気づいて固まってしまった。

 ──今別れたばかりのアズマが、その道を歩いていたのである。

 アズマと見間違(みまちが)えようはずもなかった。

 今もアズマは、雑踏(ざっとう)のかなり向こうとはいえ、タクトと仲良く歩いているのが見えるのだから。

「アッ、アズマさ……」

 声をしぼりかけて、おしづは踏みとどまった。

 ──アズマさんじゃない人間。

 ──服だって違う。あそこの人は、紺の羽織、黒の長着に茶色の袴……アズマさんが、絶対に着ない服装。

 ──あそこにいるのが、十瀬(とおせ)願十郎(がんじゅうろう)なんだ!

 ──女サムライの池上リン太郎さんが追い、アズマさんが求める人物……!

 ──タクトさんが予測した通りだった。

 ──白袴のアズマさんは、やっぱり人殺しなんて、してないんだ。

 十瀬願十郎。

 寺山士門の偽名(ぎめい)である。

 本来おしづは、寺山士門と顔見知り。

 だが、おしづが知るのは、まだ脳移植(のういしょく)をする前の、『老人』だった寺山士門のみ。

 おしづでなくとも、まさか目の前に見えるアズマ顔の若者が、老人の脳を()め込んだ人間だと、()しはかれるわけもなかった。

「どうしよう……どっちも、逆方向へ歩いている。アズマさんへ知らせに行ってたら、見失っちゃう」

 おしづは逡巡(しゅんじゅん)したが、その時間はすぐに、終わった。

 ──私が追うしか、ない。

 ──そして普段の順路とか、住んでるところを暴いてアズマさんたちに知らせる。

 おしづはそう決断すると、人だかりにもまれながら、黒アズマ──寺山士門のほうの追跡(ついせき)を始めた。

 士門は往来(おうらい)を、わずかに身体を上向かせるようにして(見方によっては、ふんぞりかえっているようにして)歩き続けていた。

 町屋を抜け、職人小屋を抜け、茶店に着いたところで、やっと士門はそこの縁台(えんだい)(細長いイス)に腰掛(こしか)け、なにごとか、そこで働く娘に話しかけていた。

 おしづはできるだけ士門の視界に入らないよう、職人小屋の(かど)に身をひそめ、次の士門の動作(どうさ)を待った。

「!」

 おしづが見守っている内に、士門の(となり)に腰掛ける人物が現れた。

 それは、亀井だった。

「亀井さま……なぜ」

 おしづは、目に入った人物の名をひとりごちた。

 ──亀井さまが、どうしてあの人と……?

 ──いったい、どんなつながりが……。

 ──この黒アズマさん、亀井さまの先生の、寺山士門さまとも、つながりがあるのかもしれない。

 ──考えるのは後。今はそれよりも、あの二人が、何を話してるか聞かなくちゃ……。

 ──そのためには近寄らないといけない。

 ──(さいわ)い、亀井さまのほうは、黒アズマさんに向かって話してるから、私に後頭部(こうとうぶ)を向けてて、私のほうを見ていない。

 ──黒アズマさんはこっちを向いてるけど……私と面識はないから、少しくらい見えても大丈夫。

「あとは亀井さまが、いきなり振り向いたりしませんように……」

 そう祈りをつぶやきながら、おしづは小屋から離れて、茶屋の隣に立てかけられた角材(かくざい)へ、身をひそめる。

 その時、『黒アズマ』のほうはおしづを見て目を細めた……ような気がしたが、それ以上に何か反応を示すことはなかった。

「先生。仲介者(ちゅうかいしゃ)から、きのうの件で報告がありました」

 おしづの接近など知らぬ亀井が、経過を報告する。

 ──先生?

 ──亀井さまは、寺山士門先生以外にも、師事(しじ)しているの?

 おしづは引き続き、注意深くふたりの会話に食い入る。

首尾(しゅび)はどうだった」

 あきらかに年下の『黒アズマ』が、とつとつと問い返す。

「朝田は失敗したようです。朝田をふくめて十五人でCCE七十へ(いど)んだようですが……返り()ちに()いました」

「生き残りは何人だ。可能なら、そいつらを再利用して、ふたたびCCE七十にけしかけねばならんが……そんな負け方をした連中だ。怖気(おじけ)付いていたら役に立たんだろうがな」

「ほぼ全員、死んだようです。頭領(とうりょう)の朝田と数人の死体が見つかっていませんが。生きているのなら、また接触(せっしょく)してみます。どうも、ひどい負け方をしているようで、内臓をそこらに飛び散らして死んでいる者も多数でした。私が現場へ行ってみると、竹林に臓腑がくっついておりましたので。そんな有様でしたから、逃げるのに精一杯だったのではないかと思っています。いずれにせよ、もはやわれわれの仲介人(ちゅうかいにん)が朝田と接触することもないでしょうから、奴との接点からたどられることはないでしょう」

「しかし、CCE七十はかなりの使い手だな。徒党(ととう)を組んでも拉致(らち)は難しいか」

「はい……次の一手を考えている所です」

 ──しぃしぃ、いー? ななじゅう……?

 (ぬす)み聞きをしているおしづが、わずかに首をかしげる。

 ──知らない言葉……オランダ語かな。それに返り()ちがどうとか、拉致(らち)だとか……物騒(ぶっそう)な言葉が飛び()っているけれど、亀井さまは、いったい、どんな事に手を()めているの?

 ──でも、この会話の断片でもわかることがある。

 ──亀井さまは……悪いことをしている。

 おしづの脳裏(のうり)に、昔良く見た、屈託(くったく)なく笑う亀井の顔が浮かび、目頭(めがしら)が熱くなる。

 ──なんで、そんな悪いことを、無表情で話せるんですか? 亀井さま。

 ──あなた様は、そんな人だったんですか?

 ──そんなの……受け入れられません。

 ──私は昔、あなたに命を救われました。

 ──だけど、それでも、私は自分の信念を曲げたくはない。

「手ならある」

 黒アズマ──士門が提案した。

「亀井よ。3日……いや、2日でいい。アジトへ顔を出すのを(ひか)えよ。私にはやることがある。CCE七十の捕獲(ほかく)に関わる事だが、その情報は現時点で、お前にも伝える気はない。お前はお前で、次の手を考えておけ」

 有無(うむ)は言わせない──そんな気配(けはい)のこもった視線を、士門は亀井へ向ける。

「……わかりました」

 昔からこの視線に調教されてきた亀井は、異論どころか質問さえ吐けなくなっていた。

 結果、士門がこの目を向けるときには、亀井は唯々諾々(いいだくだく)とうなずくのである。

「話は以上だ。行け」

 返事を聞いた士門は、いつものように、片手を振って追い払う仕草(しぐさ)をすると、亀井はその命令のままに、その場を歩き去っていった。

 そんな亀井の背をしばらく見つめていた士門だったが、茶代を台に置くと、ゆっくり立ち上がって、おしづの隠れる角材を通りすぎるようにして、亀井とは逆のほうへ歩き出した。

「……」

 おしづはドギマギしながら、横をすれ違う『黒アズマ』が通り過ぎるのを、首も動かさずに待った。

 だが、なぜだろうか。

 おしづは、随分(ずいぶん)と黒アズマとすれ違うまでの時間を、長く感じていた。

 ──もしかして、取り返しのつかないことを、私はしでかしている……?

 その思いをぬぐうように、おしづは、去りゆく『黒アズマ』を、遠巻きに追跡(ついせき)し始めた。

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