翌日の昼。
「ありがとうございました。おかげさまで、
おしづは民家の
「うんウン、いいのよ。手助けできて私も
「そんなお家を……大事に使わせて頂きます。感謝してもしきれません」
おしづには夢があった。
──いや、夢は寝て見るものだけれど、これは起きている間に見るもの……目標だ。
女のみの
おしづは以前、女性ながらに医者になった人の話(シーボルトの娘のことである)を旅人から聞いた時、自分にも何かできないか考えるようになっていた。
──私も、勉強だけは昔から亀井さまに教えてもらっていた。
──あの女のお医者さまも、かなり苦労しているっていう話は聞いてる。
──それもこれも、この世にはびこる、女への偏見のためだ。
──私は、女性が少しでも進みやすくするための、手段を用意したい。
女性の地位向上。
うまく説明のできないおしづの代わりに表現すると、そういうことになる。
女性のための塾を開くのは、その目標のためなのである。
おしづは、アズマの手助けと
だがそこには、江戸時代ならではの
この頃でも、
他にもおしづを
「女のための塾なんて、聞いたこともないねえ」
家主が
誰もやらないことを
亀井は師の寺山士門に、未来の女がいずれ、どういうことをやり出すのか、聞いていた。
日本の女のことではなく、海外の女の話であるが。
寺山士門はサイコパス人格ではあったが、こと女の進退については、おおよそ通常の感覚を持っていた。
それは士門がおそらく、母親という女に強く依存していたからだ。
その士門の教育観が、めぐりめぐっておしづの教育観とつながるのは、ひどい
「めでたいじゃんか、おしづちゃん。オレが
おしづの随伴に来ていたタクトが両手を打ちながら、提案をした。
「私より少し下の女学生たちの中に……男のあなた様が……?? えーと、考えときますね」
「なんだか、これからは茶屋に行っても会えなくなりそうですね」
背中のケガを押して外出していたアズマが、タクトの横で、少しばかり
「まだまだ後のことですから大丈夫ですよ。それよりアズマさんは
「ケガにも構わずに出てくるってところを見せたかったんだよ。そんで、あわよくば塾の仕事をせしめようってんだ。確実に女の
「それ、あなたでしょ……僕は本当に見てみたかったんですよ。おしづさんの塾ってものを」
「わかってますよ。アズマさん、優しいですものね……」
おしづは目を細めた。
おせっかいなのはわかっているが、おしづはアズマのためなら、大抵のことはやるつもりでいた。
──何で、こんな気持ちになるからだろう。
──たぶん、危なっかしくて、ほっとけないんだ。
「正式に引っ越すことになったら、教えてくださいね。荷物運びならできますし。タクトさんも来てくださいよね」
「え?」
「ちょっとチンピラを退治しただけで、あとはほとんど、おしづさんの世話になってるでしょ。恩返しできる良い機会なんだから」
「わかったよ……だから、そんなに引っ張んな」
「さあ、行きますよ、僕はケガ人なんだから、ちゃんと看病してくださいよ」
いつもの
「では、お二人さま、また」
そんな二人に手を振って、おしづも茶屋に戻ろうと背をひるがえしたとたん──
「──っ!」
おしづは、自らの視野の隅に、とある物が写ったのに気づいて固まってしまった。
──今別れたばかりのアズマが、その道を歩いていたのである。
アズマと
今もアズマは、
「アッ、アズマさ……」
声をしぼりかけて、おしづは踏みとどまった。
──アズマさんじゃない人間。
──服だって違う。あそこの人は、紺の羽織、黒の長着に茶色の袴……アズマさんが、絶対に着ない服装。
──あそこにいるのが、
──女サムライの池上リン太郎さんが追い、アズマさんが求める人物……!
──タクトさんが予測した通りだった。
──白袴のアズマさんは、やっぱり人殺しなんて、してないんだ。
十瀬願十郎。
寺山士門の
本来おしづは、寺山士門と顔見知り。
だが、おしづが知るのは、まだ
おしづでなくとも、まさか目の前に見えるアズマ顔の若者が、老人の脳を
「どうしよう……どっちも、逆方向へ歩いている。アズマさんへ知らせに行ってたら、見失っちゃう」
おしづは
──私が追うしか、ない。
──そして普段の順路とか、住んでるところを暴いてアズマさんたちに知らせる。
おしづはそう決断すると、人だかりにもまれながら、黒アズマ──寺山士門のほうの
士門は
町屋を抜け、職人小屋を抜け、茶店に着いたところで、やっと士門はそこの
おしづはできるだけ士門の視界に入らないよう、職人小屋の
「!」
おしづが見守っている内に、士門の
それは、亀井だった。
「亀井さま……なぜ」
おしづは、目に入った人物の名をひとりごちた。
──亀井さまが、どうしてあの人と……?
──いったい、どんなつながりが……。
──この黒アズマさん、亀井さまの先生の、寺山士門さまとも、つながりがあるのかもしれない。
──考えるのは後。今はそれよりも、あの二人が、何を話してるか聞かなくちゃ……。
──そのためには近寄らないといけない。
──
──黒アズマさんはこっちを向いてるけど……私と面識はないから、少しくらい見えても大丈夫。
「あとは亀井さまが、いきなり振り向いたりしませんように……」
そう祈りをつぶやきながら、おしづは小屋から離れて、茶屋の隣に立てかけられた
その時、『黒アズマ』のほうはおしづを見て目を細めた……ような気がしたが、それ以上に何か反応を示すことはなかった。
「先生。
おしづの接近など知らぬ亀井が、経過を報告する。
──先生?
──亀井さまは、寺山士門先生以外にも、
おしづは引き続き、注意深くふたりの会話に食い入る。
「
あきらかに年下の『黒アズマ』が、とつとつと問い返す。
「朝田は失敗したようです。朝田をふくめて十五人でCCE七十へ
「生き残りは何人だ。可能なら、そいつらを再利用して、ふたたびCCE七十にけしかけねばならんが……そんな負け方をした連中だ。
「ほぼ全員、死んだようです。
「しかし、CCE七十はかなりの使い手だな。
「はい……次の一手を考えている所です」
──しぃしぃ、いー? ななじゅう……?
──知らない言葉……オランダ語かな。それに返り
──でも、この会話の断片でもわかることがある。
──亀井さまは……悪いことをしている。
おしづの
──なんで、そんな悪いことを、無表情で話せるんですか? 亀井さま。
──あなた様は、そんな人だったんですか?
──そんなの……受け入れられません。
──私は昔、あなたに命を救われました。
──だけど、それでも、私は自分の信念を曲げたくはない。
「手ならある」
黒アズマ──士門が提案した。
「亀井よ。3日……いや、2日でいい。アジトへ顔を出すのを
「……わかりました」
昔からこの視線に調教されてきた亀井は、異論どころか質問さえ吐けなくなっていた。
結果、士門がこの目を向けるときには、亀井は
「話は以上だ。行け」
返事を聞いた士門は、いつものように、片手を振って追い払う
そんな亀井の背をしばらく見つめていた士門だったが、茶代を台に置くと、ゆっくり立ち上がって、おしづの隠れる角材を通りすぎるようにして、亀井とは逆のほうへ歩き出した。
「……」
おしづはドギマギしながら、横をすれ違う『黒アズマ』が通り過ぎるのを、首も動かさずに待った。
だが、なぜだろうか。
おしづは、
──もしかして、取り返しのつかないことを、私はしでかしている……?
その思いをぬぐうように、おしづは、去りゆく『黒アズマ』を、遠巻きに