31.接触

 翌日。

「早起き君のあとの飯って、うまいんだよな」

 路上の(たる)に腰掛けておにぎりを頬張(ほおば)るタクトは、ひとり小さく舌鼓を打った。

 ──やたらと米がうまいのは、やっぱり農薬が使われてないからかな。

 ──オレのいた時代の食べ物は、大量生産のしすぎで、土壌(どじょう)の栄養が損なわれていた。

 ──たとえばホウレンソウには本来含まれているはずの鉄分などは、ほとんど含まれなくなっている。

 ──アメリカやインドは食品の鉄分をおぎなうために、工場生産する日用食に、別途で鉄分を加えなくてはならないと法を定めたくらいだ。

 ──このへんのことが、味にも出てるのかもな。

 ──ほかには、青空がめちゃくちゃキレイだとか、夜には星空がメチャクチャきれいだとか……これを見たあとは、六本木ヒルズのプラネタリウムとか、ただの小さい蛍光灯にしか見えなくなるぜ。

 ──でも、やっぱ不便(ふべん)のほうが多いんだよな。

 ──水洗トイレはないから、長屋からはいつもウンコの匂いがするし、洗濯はぜんぶ手()み洗いだし、歯ブラシは竹ボウキみたいな物があるけど、なんか痛いし。

 ──何よりも、えっちな本はみんなオカメ顔だし。

 ──人は紀元前以上の昔から……森におびえ、暗闇におびえ、食べ物の不足におびえ、命の危険をすぐそばに感じながら生きてきた。

 ──だからこそ、人は森を開き、闇に電気を通し、田畑を耕し羊やニワトリを育て、医療を発達させて、命の危険が遠ざかるように苦慮してきたんだ。

 ──その太古の人が願ってやまなかったものを果たした未来人は、こんどは自然に帰りたいとか言い始めているのは、なんとも贅沢(ぜいたく)な手のひら返しってもんだ。

 ──オレもその時代から来た。

 ──でも、それがわがままだったと知った今でも、やっぱり帰れるものなら帰りたいな……。

 タクトはそんなことを考えながらも、最後のおにぎりの一切れをほおばった。

「おい」

 それを見計らってかどうか、横からひとりの、細身の(さむらい)が、小さな木(おけ)を抱えて近づいてきた。

 その侍は、美丈夫(びじょうふ)と言っても余るほどの、ホクロひとつのない、白い雲母(うんも)のような肌を持つ人物だった。

 その体つきは華奢(きゃしゃ)だったが、背筋(せすじ)はきれいに伸び、自信と誇りがただよっていた。

 ただし、その表情は暗く、よどんでいるふうにタクトには見えた。

 ──それにこの人……もしかしたら。

 タクトはすぐに、目の前の人物が隠そうとしているものを、見抜いていた。

京豆腐(きょうどうふ)を扱っているのはお前か、一丁欲しい」

 侍は少しばかり高い声音(こわね)で言った。

「あ……あーい!」

 タクトは即座に営業口調(くちょう)に切り替えて、井戸水にぬらした手ぬぐいで手をきれいに()き取ると、横に置いている水入りの桶から豆腐を手ですくって、侍の持つ桶へそれを入れた。

「ところで、聞きたいことがあるのだが」

 布の財布から4文を取り出しながら、侍は切り出した。

「何でしょ、おね……お侍さん」

 タクトなりに、へりくだって聞き返す。

「この男を探しているのだが、知らんか」

 侍は(そで)の中から、丸く巻いた紙をとりだし、広げて見せた。

 そこには、アズマと同じ顔が写っていたのである。

「ん……、んん………? こいつは何をやったんだ?」

「わが(はん)の財を奪い、父を殺したのだ」

「ああ……おしづが言ってたのは、あんたか」

「さんざん(たず)ね歩いているからか……私は(うわさ)になっているのか? で、何か知っているか」

「……そいつを見つけたら、どうするつもりだ?」

 タクトはしらばっくれながら、相手から話を引き出すことを(こころ)みた。

「どうする、だと? 決まったこと、たたっ斬るのみ」

「たたっ斬るのか……少しは話してみたらどうだ? 誤解(ごかい)って線もあるぜ」

「そんな余地なぞ、あるものか。確かに、間違いなく、どう見ても、奴が我らから財を、信を、そして命を奪ったのだ。会えば斬る。見れば斬る。探して斬る……で、知っているのか、どうなのだ」

「知らんな」

 タクトは背をそらして腕を組み、大仰(おおぎょう)に返した。

「そうか……仕方ないな、ところで貴様、先ほど私のことをお姉さん、と言いかけていなかったか? 私の名前は池上リン……太郎。リン太郎という名前だ、お姉さん呼ばわりされる言われはない」

「ん? あ、ああー……おね……尾根(おね)がキレイだって言いかけたんだよ。ほら、富士山の尾根。キレイだろ? おね……お侍さん」

 タクトは遠くにそびえる、白粉のような雪をかぶる富士山を指差した。

「オイ、また言いかけたな?」

「そんなことより、ほら、見ろよ、あの……尾根を。ほら、なんかこう……いいだろ?」

「……まあ、たしかに富士山は良いものだ。あの大いなる山を前にすると、私のやっていることなど小さく感じる。いわんや、人間のことなど、すべて細事なのかもしれん……」

 池上リンは、タクトにうながされるまま、富士山を(なが)め、なにやら(ひと)り言をブツクサ言い始めた。

「そ、そうか……まあ、オレ(いそが)しいから、もう行くからな」

 タクトはそんな池上をほうって、その場を去ろうとしたが、そこで信じられないものを見つけて、呼吸と身体を止めた。

 ──向かいから、アズマが歩いてきたのである。

 いま、アズマと池上の鉢合(はちあ)わせは、まずい。

 池上リンの顔はおがむことができたし、名前も覚えた。あとは戦うにせよ逃げるにせよ、こちらも準備をする時間がほしい。

 正式に果たし合いをするなら、この往来(おうらい)で斬り合うことはないから、河原(かわら)にでも移って斬り合うことになろうが……ここで果たし合いの宣言(せんげん)を突きつけられた場合、あまりにも決闘の目撃者が多いのだ。

 前にも言ったが、アズマも、タクトも、戸籍(こせき)はないのである。

 噂が広がりすぎれば、確実に政府の目にも止まる(今でも結構な認知度になってしまっているが)。

 そうなれば、アズマはもちろんだが、そのアズマにくっついていたタクトにも、聞き取り調査が行われるだろう。

 それを防ぐため、できるだけ他人の(から)まない形で戦いをおこない、そして終わらせたいのである。

 たとえば、人通りのない路地や、どこかの街道の山中(さんちゅう)など、だ。

 タクトは戦地の選択を、(あきら)めていなかった。

「ど、どうした? こんな所で、奇遇(きぐう)じゃないか! アア奇遇だ!」

 タクトはわざとらしく池上とアズマの間に立って死角を作りながら、アズマに片手で追い払う仕草(しぐさ)を取った。

「ん? 呼んでるんですか? なんです?」

 だが、アズマは逆に近付いてきた。

「違う、違うんだ。呼んだわけじゃない。あー、どっかに行くのか?」

「宿でのあんまも、ひと段落ついたから、おしづさんの所に行くんです。タクトさんはまだ、仕事中みたいですね」

「お、おしづ? おしづの甘味処(かんみどころ)は、このおね……お(さむらい)さんを通り過ぎた先にあるよな……そこはあえて、遠回りしてみたい気分にならないか? あっちの路地で、オッサンが野糞(のぐそ)してたから見てこいよ」

 タクトは見事に池上とアズマの間を動いて、視線切りを(はか)りながらアズマと会話をおこなう。

「何で、そんなもんを見るために遠回りしなきゃなんないんですか。そこ通してくださいよ。ビミョーに邪魔(じゃま)ですよ、タクトさん」

「あ、いや、今日は甘味処は休みらしいぜ。おしづはホラその……野糞してるオッサンを見るのに忙しいんだ」

「イヤ、タクトさん……僕はこれでも、おしづさんを尊敬(そんけい)してるんですよ? 白昼堂々(はくちゅうどうどう)、そんな趣味の悪いことを、あの人がするわけないでしょ。(うそ)はやめて下さい、そこ通りますよ……ちょ、何で通せんぼするんですか」

「ともかく、おしづは来るなって言ってるんだ。だからあの子のために、宿に帰ってやんな」

「おい、今またお姉さん、と言いかけたな? せっかく私がご機嫌(きげん)で富士山を見ていたのに、現実に引き戻されたぞ……それに、そこの男も通りたがっているだろう、通してやれ」

 池上が不審(ふしん)な表情でアズマの顔を確認しようとしたが……タクトがまたも割って入った。

「見ろよお姉さん。ホラ……富士山の左側のあたり、見てみろよ。あんたの探してる奴が野糞(のぐそ)してるぞ」

「何!? ……って、いないではないか。あとオイ、やはり、お姉さんと言ったな?」

 池上が不快そうな顔を浮かべてタクトへ()め寄った。

 二人のやりとりに、往来(おうらい)を歩く人々も足を止め、失笑をまじえ、小さく両者を囲いながら観戦していた。

 ──こいつら、他人事(ひとごと)だと思って……。

 ──オレはほんらい、ウンコウンコと子供みたいな下ネタを言ってるキャラじゃない……メガネをクイってやってるキャラクターでいたいんだ。

 タクトは内心、衆人(しゅうじん)をうっとおしく感じていたが、どうにもできない。

「タクトさん、ちゃんと説明してくださいよ。なぜ僕がここを離れなければいけないかを」

 アズマもまた、背後からタクトを問い詰める。

 刺客(しかく)と、その対象、その両者はタクトを(はさ)んでにらみあうことになった。

「む、むむむ……! う、うわああああああああ!!」

 いよいよ追い詰められたタクトは、とっさに背後を指差した。

「み、みんな! 野糞が回転しながら飛んで来る! よけろ!」

「えええええ?!」

 池上のみならず、その場でタクトと池上のやりとりを(なが)めていた人々が、その言葉で一気に混乱に飲み込まれた。

 こんな幼稚(ようち)な嘘で、全員を(だま)し通せるわけはないが、それでも逃げる動作をする者が数人現れたりする者は何人かはいた(おそらく、わざとタクトの嘘に付き合った者もいるはずだ)。

 この何人か、が現れるだけで充分だった。

 人々は、周囲の空気に反応して、タクトの示したほうへ振り返った。

 当然、池上も。

 ──これぞ、昭和トイレットペーパー作戦。

 タクトはこの誘導を、ひとまずそう名づけた。

 1973年、オイルショックによって、ひとつのデマが流れた。

 石油が輸入できなくなった日本は、トイレットペーパーが生産できず、品切れになる、というもの。

 この情報のかんじんなところは、トイレットペーパーの不足という誤情報に(まど)わされなかった人間までもが、それを買い求めたことである(結果として、買う必要のない者までが買い求めたために在庫が減り、本当にトイレットペーパーの流通が一時的に滞った)。

 信じていない人間さえ、自分の都合の良い方向へ歩かせる。

 これがその作戦の大意(たいい)だが……どう考えても無関係の人々を巻き込むクソテロであったがゆえに、のちのちタクトは人々からの意趣返(いしゅがえ)しを受けることになる。

 つまり、この日からタクトは『野糞のタクト』という二つ名を与えられることになったのだ。

「? 何の話ですか……」

 そして、タクトの子供じみた嘘を信じなかった人物のひとりは、アズマだった。

 だがアズマがタクトの嘘を確認しようと、顔をのぞけさせようとしたとたん、タクトはアズマの頭を両手でつかみ、力任せに、逆方向へひねった。

 ボキリ、といやな音を鳴らして、アズマの首は真うしろに曲がり、アズマは白目をむいてくずおれていった。

「よし! 酒でも飲みに行こう酒でも。仲良しの酒だ、オレがおごるぜ」

 タクトは脱力(だつりょく)するアズマを抱くようにして、雑踏(ざっとう)へもぐりこんでいった。

「……む」

 タクトがうまく逃げおおせた後、それに気づかぬ池上が、眉をしかめながら空から目を戻して、うしろを振り返った。

「…………飛んでこないぞ? それに、また私のことをお姉さんと言ったな?」

 池上はそこまで言ってから、かんじんのタクトタクトと、顔の見えなかったその友人らしい男は、その場から消えていたことに気づいた。

「何なのだ、いったい……」

 池上は怪訝(けげん)な顔で、いなくなったタクト達のほうを見たが、気を取り直して横の町人を呼び止め、人相(にんそう)書きを突きつけた。

「おい、お前、この男なんだがな、見なかったか? 十瀬(とおせ)願十郎(がんじゅうろう)と名乗っていたが、たぶん今は名前が違うはずだ」

「んあ? その人ならさっきまで、お侍さまのそばにいたじゃぁないですか」

「何だと? どういうことだ」

「何ですかい……いたじゃないですか、白い袴姿(はかますがた)の人でしょう?」

「確かに今まで、豆腐(とうふ)売りのうしろに男がいたが、顔だけ見えなかった……まさか、そいつとはな。いま思えば、たしかに、豆腐売りも必死に奴の顔を隠していたふうに思う。おい、そいつはどこに行ったか、わからんか」

「あの人は有名ですよ。白袴のアズマさんとか(かげ)で言われてますが、悪い人をとっちめたりで、人気者ですよ。そのうち、(かわら)版にでも出てくるんじゃないですかね? 旅籠(はたご)のえながやで起居(ききょ)してるとか何とか」

「そう、か……えながや、か……今はアズマという偽名(ぎめい)を使っているのだな」

 そこで初めて、池上はぶきみに微笑んだ。

「ついに、足取りを(つか)めた……待っていろ、十瀬願十郎」

 池上は町人から目をそらすと、おそろしいほど眉間(みけん)にシワを寄せながら、その場を後にしていった。

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