翌日。
「早起き君のあとの飯って、うまいんだよな」
路上の
──やたらと米がうまいのは、やっぱり農薬が使われてないからかな。
──オレのいた時代の食べ物は、大量生産のしすぎで、
──たとえばホウレンソウには本来含まれているはずの鉄分などは、ほとんど含まれなくなっている。
──アメリカやインドは食品の鉄分をおぎなうために、工場生産する日用食に、別途で鉄分を加えなくてはならないと法を定めたくらいだ。
──このへんのことが、味にも出てるのかもな。
──ほかには、青空がめちゃくちゃキレイだとか、夜には星空がメチャクチャきれいだとか……これを見たあとは、六本木ヒルズのプラネタリウムとか、ただの小さい蛍光灯にしか見えなくなるぜ。
──でも、やっぱ
──水洗トイレはないから、長屋からはいつもウンコの匂いがするし、洗濯はぜんぶ手
──何よりも、えっちな本はみんなオカメ顔だし。
──人は紀元前以上の昔から……森におびえ、暗闇におびえ、食べ物の不足におびえ、命の危険をすぐそばに感じながら生きてきた。
──だからこそ、人は森を開き、闇に電気を通し、田畑を耕し羊やニワトリを育て、医療を発達させて、命の危険が遠ざかるように苦慮してきたんだ。
──その太古の人が願ってやまなかったものを果たした未来人は、こんどは自然に帰りたいとか言い始めているのは、なんとも
──オレもその時代から来た。
──でも、それがわがままだったと知った今でも、やっぱり帰れるものなら帰りたいな……。
タクトはそんなことを考えながらも、最後のおにぎりの一切れをほおばった。
「おい」
それを見計らってかどうか、横からひとりの、細身の
その侍は、
その体つきは
ただし、その表情は暗く、よどんでいるふうにタクトには見えた。
──それにこの人……もしかしたら。
タクトはすぐに、目の前の人物が隠そうとしているものを、見抜いていた。
「
侍は少しばかり高い
「あ……あーい!」
タクトは即座に営業
「ところで、聞きたいことがあるのだが」
布の財布から4文を取り出しながら、侍は切り出した。
「何でしょ、おね……お侍さん」
タクトなりに、へりくだって聞き返す。
「この男を探しているのだが、知らんか」
侍は
そこには、アズマと同じ顔が写っていたのである。
「ん……、んん………? こいつは何をやったんだ?」
「わが
「ああ……おしづが言ってたのは、あんたか」
「さんざん
「……そいつを見つけたら、どうするつもりだ?」
タクトはしらばっくれながら、相手から話を引き出すことを
「どうする、だと? 決まったこと、たたっ斬るのみ」
「たたっ斬るのか……少しは話してみたらどうだ?
「そんな余地なぞ、あるものか。確かに、間違いなく、どう見ても、奴が我らから財を、信を、そして命を奪ったのだ。会えば斬る。見れば斬る。探して斬る……で、知っているのか、どうなのだ」
「知らんな」
タクトは背をそらして腕を組み、
「そうか……仕方ないな、ところで貴様、先ほど私のことをお姉さん、と言いかけていなかったか? 私の名前は池上リン……太郎。リン太郎という名前だ、お姉さん呼ばわりされる言われはない」
「ん? あ、ああー……おね……
タクトは遠くにそびえる、白粉のような雪をかぶる富士山を指差した。
「オイ、また言いかけたな?」
「そんなことより、ほら、見ろよ、あの……尾根を。ほら、なんかこう……いいだろ?」
「……まあ、たしかに富士山は良いものだ。あの大いなる山を前にすると、私のやっていることなど小さく感じる。いわんや、人間のことなど、すべて細事なのかもしれん……」
池上リンは、タクトにうながされるまま、富士山を
「そ、そうか……まあ、オレ
タクトはそんな池上をほうって、その場を去ろうとしたが、そこで信じられないものを見つけて、呼吸と身体を止めた。
──向かいから、アズマが歩いてきたのである。
いま、アズマと池上の
池上リンの顔はおがむことができたし、名前も覚えた。あとは戦うにせよ逃げるにせよ、こちらも準備をする時間がほしい。
正式に果たし合いをするなら、この
前にも言ったが、アズマも、タクトも、
噂が広がりすぎれば、確実に政府の目にも止まる(今でも結構な認知度になってしまっているが)。
そうなれば、アズマはもちろんだが、そのアズマにくっついていたタクトにも、聞き取り調査が行われるだろう。
それを防ぐため、できるだけ他人の
たとえば、人通りのない路地や、どこかの街道の
タクトは戦地の選択を、
「ど、どうした? こんな所で、
タクトはわざとらしく池上とアズマの間に立って死角を作りながら、アズマに片手で追い払う
「ん? 呼んでるんですか? なんです?」
だが、アズマは逆に近付いてきた。
「違う、違うんだ。呼んだわけじゃない。あー、どっかに行くのか?」
「宿でのあんまも、ひと段落ついたから、おしづさんの所に行くんです。タクトさんはまだ、仕事中みたいですね」
「お、おしづ? おしづの
タクトは見事に池上とアズマの間を動いて、視線切りを
「何で、そんなもんを見るために遠回りしなきゃなんないんですか。そこ通してくださいよ。ビミョーに
「あ、いや、今日は甘味処は休みらしいぜ。おしづはホラその……野糞してるオッサンを見るのに忙しいんだ」
「イヤ、タクトさん……僕はこれでも、おしづさんを
「ともかく、おしづは来るなって言ってるんだ。だからあの子のために、宿に帰ってやんな」
「おい、今またお姉さん、と言いかけたな? せっかく私がご
池上が
「見ろよお姉さん。ホラ……富士山の左側のあたり、見てみろよ。あんたの探してる奴が
「何!? ……って、いないではないか。あとオイ、やはり、お姉さんと言ったな?」
池上が不快そうな顔を浮かべてタクトへ
二人のやりとりに、
──こいつら、
──オレはほんらい、ウンコウンコと子供みたいな下ネタを言ってるキャラじゃない……メガネをクイってやってるキャラクターでいたいんだ。
タクトは内心、
「タクトさん、ちゃんと説明してくださいよ。なぜ僕がここを離れなければいけないかを」
アズマもまた、背後からタクトを問い詰める。
「む、むむむ……! う、うわああああああああ!!」
いよいよ追い詰められたタクトは、とっさに背後を指差した。
「み、みんな! 野糞が回転しながら飛んで来る! よけろ!」
「えええええ?!」
池上のみならず、その場でタクトと池上のやりとりを
こんな
この何人か、が現れるだけで充分だった。
人々は、周囲の空気に反応して、タクトの示したほうへ振り返った。
当然、池上も。
──これぞ、昭和トイレットペーパー作戦。
タクトはこの誘導を、ひとまずそう名づけた。
1973年、オイルショックによって、ひとつのデマが流れた。
石油が輸入できなくなった日本は、トイレットペーパーが生産できず、品切れになる、というもの。
この情報のかんじんなところは、トイレットペーパーの不足という誤情報に
信じていない人間さえ、自分の都合の良い方向へ歩かせる。
これがその作戦の
つまり、この日からタクトは『野糞のタクト』という二つ名を与えられることになったのだ。
「? 何の話ですか……」
そして、タクトの子供じみた嘘を信じなかった人物のひとりは、アズマだった。
だがアズマがタクトの嘘を確認しようと、顔をのぞけさせようとしたとたん、タクトはアズマの頭を両手でつかみ、力任せに、逆方向へひねった。
ボキリ、といやな音を鳴らして、アズマの首は真うしろに曲がり、アズマは白目をむいてくずおれていった。
「よし! 酒でも飲みに行こう酒でも。仲良しの酒だ、オレがおごるぜ」
タクトは
「……む」
タクトがうまく逃げおおせた後、それに気づかぬ池上が、眉をしかめながら空から目を戻して、うしろを振り返った。
「…………飛んでこないぞ? それに、また私のことをお姉さんと言ったな?」
池上はそこまで言ってから、かんじんのタクトタクトと、顔の見えなかったその友人らしい男は、その場から消えていたことに気づいた。
「何なのだ、いったい……」
池上は
「おい、お前、この男なんだがな、見なかったか?
「んあ? その人ならさっきまで、お侍さまのそばにいたじゃぁないですか」
「何だと? どういうことだ」
「何ですかい……いたじゃないですか、白い
「確かに今まで、
「あの人は有名ですよ。白袴のアズマさんとか
「そう、か……えながや、か……今はアズマという
そこで初めて、池上はぶきみに微笑んだ。
「ついに、足取りを
池上は町人から目をそらすと、おそろしいほど