時は文久元年(1861年)にもどる。
芝新銭座、今で言う、東京都港区浜松町1-3か1-4。
このころの新銭座は、武家屋敷にはさまれるように、町人の家がひしめいている場所である。
「CCE七十に関する話を探れ、とはいうものの……手がかりが何も見当たらんというのも、困ったものだ」
亀井関規は往来を、気難しい表情で歩いていた。
──だいたい、奴を探すために、俺にできることが少なすぎるのだ。
──士門先生の人相書きを持って、この百万人の江戸を聞き歩くだけ、などと……あと何年かかることやら。
──俺は二年間、時間さえ許せばこれをやってきたのに、何も掴めたものはなかったんだぞ?
──士門先生に異をとなえる気などないが……あと何年かかるのだ。
そんなふうに、亀井が埒もあかない事を考えていると。
「オイ、亀井じゃないか」
突然、亀井を背後から呼び止める、低い声がかかった。
亀井が振り向くと、そこには長身にして骨太の大男が立っていた。
「……! 福沢さん」
亀井はその男の名前を呼び返した。
福沢諭吉。
身長173センチ、体重70キロ(当時としては身長も体重も、大男の部類だ)。
大坂・適塾時代の先輩で、何かと世話になった人物である。
「しばらく顔を見んかったものだから、キット攘夷の連中に斬り殺されたと決めつけていた。生きていたのは大変めでたい」
「あまり外にも出ませんからね……アメリカに渡ったと聞いていましたが、帰ってきていたなら迎えに行けば良かったです」
亀井はそこで嘘をついた。
そもそも亀井は(というより、亀井の師である士門が)、福沢がアメリカから帰る日のことを知っていたから、出迎えることもできたが……それはしなかった。
会えば、福沢に近況を話さなくてはならないことは避けられないからだ。
本当はいますぐにでも、目の前の福沢に、自分達が発明した脳移植の話をしたいのだが、それは士門に固く禁じられている。
何より、なぜ話してはならないかを、亀井が承知していた。
──脳移植を成功させるまでに、人体実験の果てに何人も、『失敗』させてきた人間がいるのだ。
──俺は、後ろ暗いことをやっている自覚はある……。
「俺より、福沢さんのほうが心配です」
亀井は話をそらした。
「乃公のドノあたりを案ずることがある。夜には人斬りが徘徊することは心得ているから、チャンと日が沈めば家に立派に引っ込んでいる。ソレよりお前だ。町医にすぎぬ身の上なら、大した金も貰えまい」
「そちらはマア……何とかやっております。それより福沢さん……アメリカはどうでしたか」
「西洋の文物はアメリカにわたる前から書物でいくらも学んでいたから、電信やメッキ、真空沸騰を見せられようと驚くことはなかった。乃公が驚いたのは、アメリカの暮らしさ。
アチラは身分や立場で人の重さを図りはしない。ソノ人物が何をやったか何をやらないかだけを評する。父がどれほど高尚な身で、母がドコの生まれだとかいう理屈でソノ子の上下高低を決めるなど考えない。アメリカの人なら大統領ワシントンは敬うが、その子孫がどこで何をしているか聞いてみると、ドウとも思っておらぬようで、大した話を聞けなかった。日本ならコウはいかぬ。
日本ならば、子が底抜けのバカでも、上士族に生まれたとあらば、周りも持ち上げ心労を尽くし、そのバカの愚挙に命を賭して助力する。幕府が赤いものを青と言えば、愚民は赤いものを見て青だ青だと有り難がるわけさ。
アメリカで同じ筆法をすれば、それは気狂いの沙汰として笑われるのみ。赤いものが青く見える乃公達の未開さで、攘夷などできられるはずもない」
「だから、政府は開国をする流れなのでは?」
「実のところを申せば、政府もまた攘夷の巣窟さ。この際だから、醜態ばかりの悪政府はサッサと潰してしまうがよろしい」
福沢が往来で、そんな転覆論を堂々と語るものだから、周囲をゆく人々がぎょっとした表情になって、亀井たちを横目にしつつ、通り過ぎていった。
「福沢さん……さすがに、それは声が大きいです」
亀井があわてていさめる。
福沢諭吉は若い頃から、思ったことはハッキリととなえる性分だった。
彼の自伝『福翁自伝』にも書いてあることだが、蔭で言えることは当人の前でも言えなくてはならない、それができないのは士君子(教養を持ち、行動することもでき、人格も優れている人間のこと)とは言えない……という信念を持っているようだ。
それのできない民衆や公人に対しては、とことん辛口で、愚民、ゴム人形、ハエ、賊民、サル、臭い物、下等人種……さまざまな呼び方をしている。
おかげで敵を作ることも多く、何度も命を狙われることになる。
そして、この性格がきっかけだったかは不明だが、のちのち福沢は、自分の甥にまで暗殺されかけるのである。
「ソレより、おしづさんの所には顔を見せたか」
福沢がふと、話題を変える。
「いえ、まだ……」
「ソレはいけない、チャンと無事をしらせてやんなさい」
「はい……そういえば福沢さん。前の話ですが」
そう言って亀井は、塀の向こうを見やった。
その方向には、福沢の塾がある。
のちの慶応義塾と呼ばれるものの前身だが、この時、まだ塾に名前はなかった。
「この新銭座の塾で塾生たちに教えてやる話ですが……お断りさせていただきます」
「ソリャもったいない。ドウしてだ、何も悪い話ではない。お前もその気だったじゃないか」
「最近から、にわかに忙しくなりまして……」
「にわかに忙しいとは不明な話だ。まさか、まだアノ男と交際をしているのか」
福沢はあからさまに顔をゆがめたりはしなかったが、確かにその口調には不快さがにじみ出ていた。
「ええ……まあ」
福沢の内心を読み取れた亀井が、弱った様子で相づちを打った。
実は以前、亀井は師の寺山士門にたのまれて、福沢と士門を面会させたことがある。
士門が言うには何でも『奴はのちのち、歴史の、かなり重大な位置にいることになる人物。ぜひ会っておきたい。可能なら、味方につけておきたいからな』という理由で、だった(ちなみにこの時の士門は、今のように若い少年アズマと同じ顔ではなく、老人の姿だった)。
とはいえ、会席の場を取り持ってみたら、ほとんど時を待たずに、お互いがお互いの意見を否定しあったのである。
「乃公にアノ凶手が延びぬなら苦しからず。とはいえ、お前のことは何でも捨て置けない。お前のためにも、ゼヒともあの男との交際はやめてしまいなさい」
「しかし、あの方は俺の命の恩人です」
「それ程ツキアイをして、親切に奴の世話を尽くしたなら、もう恩も返しきっただろう。今度は奴のほうがお前に恩義をおぼえて親切を始めるのが道理というものなのに、今も変わらず威張っていると見える。恩義論などやめておけ、バカバカしい。底のない財布に金を投ずるに同じだ」
福沢はうんざりしたように返した。
「福沢さんに何と言われようと、俺はここを改める気はありません」
亀井関規は善人である。
頭もよく、医者としての腕も確かである(マイクロマニピュレータにも精通して、士門の脳移植を成功させるほどだ)。
だが、彼の目は曇りきっていた。
孝悌忠信。
亀井が、人格破綻している士門に付き従うのは、この考えに支配されていたからだ。
要するに、上の者に良く仕えよ、間違っていようが狂っていようが、崖下に落ちるその時までお供せよ、上の者に切り捨てられて死ぬことがあっても喜んで従え、というメッセージなのだが、これを幼少の頃から叩き込まれていた亀井は、それに異を唱えるなど、あってはならないことだった。
19年前、1842年。
亀井は4歳だった。
天保の飢饉という未曾有の食糧不足は過ぎ去ったが、この年、とある東北の支藩において、局所的ながら飢饉が発生した。
その藩で食料が不足するなら、よその藩から米を買うなり借りるなりして、飢えをしのげばいい……と普通なら思うものだろうが、それはできないように制限されていた。
分割支配。デバイド・アンド・ルール。
明治維新を迎えるまでの日本と、1930年までのイギリス統治下のインドも、このシステムで運営されていた。
分割支配とは、どれほど困ったことがあろうと、すべて領内で片付けよ、というものである。当然ながら、その領で解決できない物事が生じた場合は、すべて『自己責任』。
失敗した時は、そのまま死ね、という意味だ。
諸侯が力を付けられずに消耗していくシステムで(つまり、反乱をさせないための方策だ)、インドを支配していたイギリスの場合は、わざと他領同士でいさかいが生じるようにもしていた。
そういう次第で、その年、その領に住む亀井は、すぐ隣の領地での豊作を知りながら、みずからの藩では食べるものもない暮らしを強いられていた。
そんな領地で始まることといえば……打ちこわし、一揆もあるが、失踪や疫病の広がりと、物乞いの増加である。
そんな環境のなかで──亀井は、寺山士門と出会い、そこから連れ出されたのである。
まだ判断のつかない幼少の時に、そんな場所から救い出した人物を、崇めないほうが無理と言えるであろう……。
「……おい、亀井」
何やら長い思案に入った亀井を心配して、福沢が名を強めに呼んだ。
「あ、いえ、すみません、福沢さん」
二、三回首を横に振ってから、亀井は返した。
「福沢さんといえど、この件にはこれ以上、踏み込んでほしくありません。ですが、おしづに会うという話はありがたく拝聴します。じゃあ、俺はこれで」
福沢はまだ何か言おうとしたが、亀井のほうはそそくさと、あたかも論破されることから逃げるようにして、その場を離れていった。