7.デバイド・アンド・ルール

 1842年7月15日。和暦なら天保(てんぽう)十三年六月八日。

 天保(てんぽう)時代の有名な出来事のひとつといえば、天保の飢饉(ききん)

 それが荒れ狂い、人命を()り取ったのは1837年である。

 ひとたび飢饉の起こった地域は2年かけて影響を残す、と言われる(飢饉が起こった年は飯を食えずに()え、その翌年は飢饉のために種籾(たねもみ)……種籾とはつまり『田畑に植えて増やすための種』で、それを食い尽くすことで、耕作(こうさく)ができずに飢える)から、1842年のこの頃は比較的、収穫(しゅうかく)は持ち直していたのである。

 だが、それでも、ときおり飢饉は起こっていた。

「……お侍さま、お恵みを……少しでも」

 それは、寺山士門が死村(しそん)となりかけた集落(しゅうらく)に入ったときだった。

 (くちびる)まで干上(ひあ)がり、眼球が大きく()き出しになった、4、5歳ほどの()せ細った少年が、士門に向けて、(あわ)れな声を(しぼ)り出しながら近づいてきたのである。

「何でもかまいません……食べられるものなら、何でも……お慈悲(じひ)を……」

 カサカサの声で、子供は親から教わったのか、それとも自分で考えたのか、物乞(ものご)いの言葉を()えず()き続ける。

 それに対して、士門はいっさいの同情ものぞかせないまま、しばらく(だま)って子供を見下ろしていた。

 ちなみに、この時の士門は、棒手振(ぼてふり)がやるように、肩にニワトリの入ったカゴを天秤棒(てんびんぼう)(かつ)いでいた。

「お前」

 士門は、5秒か10秒か、日常会話ではありえないほど長く沈黙(ちんもく)したのち、やっと口を開いた。

「親はどこだ」

「え……はい、ウチで寝ています」

「案内しろ」

 極限(きょくげん)まで社交辞令(しゃこうじれい)をはぶいた、用件だけをまとめた質問だが、子供のほうも、士門の持つ異様な雰囲気(ふんいき)に飲まれ、言われるがまま、先んじて家へ歩き出した。

 少年の引率(いんそつ)でやってきた、その茅葺(かやぶ)きの家は、雨漏りを直す者がいないのだろう、泥臭さのただよう、カビと土煙の匂いに満ちた室内だった。

 士門が少年に連れられるままに進むと、二間(ふたま)のうちの一部屋に案内された。

 そこには、6人の男女が、何もやることがないのか、それとも何もする気力もないのか、うずくまるようにしてしゃがんでおり、そうでない3人は、枯葉(かれは)のように薄くなった身体を、硬い布団(ふとん)に寝かせていた。

 外と同じく、そこにいる全員はガリガリに肉を()がれ、全員が生きながらにして、目元にたくさんのハエにたかられていたが、それを振り払う元気もないようだった。

 その7人は、士門に気付くと、小さく一瞥(いちべつ)したが、すぐに目をそらした。

 士門の見る限り、ここにいる6人のうち、4人はまだ子供だった。

「父親は、あの寝ている奴か」

「はい……」

 少年がうなずくと、士門は部屋の中でも手(ばな)さなかった天秤棒を、室内に下ろして、そこにぶら下がった籠から、十羽のニワトリを放った。

 いきなり、ニワトリのけたたましい鳴き声が部屋にあふれたものだから、そこにいる6人だけでなく、士門を案内した少年も、くずれた漆喰(しっくい)の壁に背をあずけ、おびえた様子を見せた(父親ともう一人の女は、もう布団から出る気力もないらしく、小さくうめくのみで、布団から()い出るそぶりもなかった)。

「これで、こいつを含めた5人の子を買う」

 士門は例によって、あいさつも礼儀(れいぎ)もすべて省略(しょうりゃく)した、用事だけをならべた言葉を、命の火の()()えな、この家の家長(かちょう)()げた。

「……にんげんの、いのちを買うには……少々安すぎると存じます……」

 矜持(きょうじ)なのか、それとも、より良い条件を引き出すための交渉なのか、父親らしい男が、布団(ふとん)にくるまったまま、()れた声で反駁(はんばく)した。

「そうか、それは失礼した。隣の家にこのニワトリを持っていくとしよう」

 士門は(たたみ)を歩くニワトリの首根っこを無造作(むぞうさ)につかまえ、1羽ずつカゴに()し込め始めた。

 そして、手早(てばや)く全てのニワトリを()らえて元通りのカゴに入れると、最初のように、まったく無駄(むだ)なやりとりを入れないまま、さっさと天秤棒を肩にかついで、背をひるがえした。

「お、お待ちを!」

 あわてた父親は、プルプルとよたつきながら、布団から上体を起こした。

「もう五羽、お持ちでしたら、そちらのお話、お(うけたま)りしようと考えていたところでございます……」

(となり)(はん)まで(もど)れば5羽のニワトリは調達(ちょうたつ)できるが、それまで、お前たちの命は()つのか?」

「……わかりました。そちらの十羽で手を打ちましょう……お前たち、よく、その方の言うことを聞くのだぞ」

 こうして士門は、5人の年端(としは)もいかぬ子供を連れ()つことになった。

「あの……寺山さま、ありがとうございます。食べ物をいただいて」

 6日後、一番初めに士門に物乞(ものご)いをしていた少年が、街道を歩く士門を見上げて礼を言った。

 その士門のうしろを、アヒルの子のようにつながって歩く5人の子供はみな、両手に柏餅(かしわもち)を持って、ほとんど飲み込むような勢いで、それを(むさぼ)っていた。

 この数日で、子供たちは毎日の食事によって元気を取り戻し、土気(つちけ)色にヒビ割れていた肌も、ようやく子供らしい弾力を取り戻しつつあった。

「ぼ、僕の名は……」

 そう言いかけた少年の言葉を、士門は片手でさえぎった。

「お前の名など、聞く意味がない。これから、お前たちの父親にやったように、腹をすかせて死にかけの武士の家に行く。今度はそいつから家の名前を頂戴(ちょうだい)する。お前たちは、これから会う貧乏(びんぼう)ザムライの養子(ようし)となるのだ。当然、名も変わる」

 士門はそう言うと、道のむこうの木陰を指さした。

 そこでは、猫背になって天秤棒をかつぐ、足を引きずった小男が立ちすくむように士門のほうを見ていた。

 士門はそれに近づくと、今子供たちに渡した物と同じ柏餅(かしわもち)を渡して、その天秤棒(てんびんぼう)(あず)かった。

 そこにぶら下がるカゴの中からはやはり、ニワトリの声が聞こえた……。

 そして、翌日(よくじつ)には、物乞(ものご)いで士門に近づいたこの少年の名は──亀井関規(せきのり)という名となったのである。

(ひん)すれば貧するほど、人間の立場は弱くなる。命も安くなる。それは国も同じだ。

 お前たちがニワトリと等価なのも、この領地(りょうち)が弱いからだ。

 だが──今はニワトリに(ひと)しいおまえたちの命だが、私のために働くとき、その命は100人の将軍(しょうぐん)に勝るようになる」

 まだこの領内でやることがある士門は、土手を歩きながら、うしろを追随する子供たちに語った。

 それから、士門は同じ手口で、あわせて45人の子を弟子(でし)として(やしな)った。

 その子供には、宿へ泊まっているときや畑を耕している際、折を見ては教育(きょういく)(さず)け、筆記(ひっき)、計算を教えた。

 そして、その弟子を全国に置いて、いざという時のために備えたのである。

「先生……なぜ、ほかの者を各地に配したのですか。ひとつの場所に集めたほうが、やりやすいものかと」

 士門が手元に残した5人の弟子のうちの1人、亀井が、ある時たずねた。

「ユダヤと華僑(かきょう)の成功のひとつは……失敗したあとのことを、真剣(しんけん)に考えたためだと言われている。彼らは、世界各地に親族を(はい)した。自分の事業が失敗すれば、余裕(よゆう)のある親族のところへ転がり込むことができるように。

 日本人は、失敗した後のことを考えるのが、(すく)いがたいほど苦手な民族だ。当然だな、失敗した場合、どうすればいいかわからんし、教えられたこともない。太平洋戦争でも、捕虜(ほりょ)になるなら死ねと教育されたものだが、死ねなかったものは途方(とほう)にくれたそうだ。

 日本社会で他人と話していれば、やたらと聞かされる言い回しがある──『この方法しかない』。

 このやり方しかないのではなく、やり方を1つ考えたら、それ以外のことを考えないのだ。議論させても、その考えがどれほど支離滅裂(しりめつれつ)でも、無理に通そうとする。当然ながら、それが失敗した時のことなどシミュレートもしない。議論とは自分や他人の奇論(きろん)怪論(かいろん)を取り(のぞ)くためにおこなうものだが、その考えは日本人にはない。日本人にとって、議論することと、論破(ろんぱ)することは同じなのだ。ユダヤなら、方法を最低でも30個は考える。

 お前もつねに、成功したときのことを考えたあとは、失敗した後の動作(どうさ)も想像しておくべきだ」

「はい!」

 若いがゆえに、亀井は士門の思想を、(かわ)いた布で水を吸うごとく受け入れていった。

 士門の悪い部分を学んだ亀井だが、士門よりは少しだけまともな人格になった。

 こののち、彼の人生に大きく影響(えいきょう)を与えたことが起きたからだ。

 ──(こい)である。

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