「おいアズマ。夕立が始まるぜ」
旅籠『えながや』を出てまもなく、
遠くの雲の中に、あきらかに灰色の深みの強い雲が、ときおり発光しながらこちらへゆっくりと、にじり寄るのが見えた。
「ん……ホントだ。こっちに流れてきますね。梅雨とはいっても、この時期には珍しい」
アズマが見上げると、そこには重たそうな、黒ずんだ雨雲が腕を広げ始めているところだった。
「世七郎さんが言ってた、人気の甘味処はあそこだろ? 雨宿りがてら、さっさと入ろうぜ」
タクトは空に向けていた人差し指を、こんどは少し先にある甘味処『たけやぶや』へと曲げた。
「雨がちらついてきましたよ。走りませんか? 僕、雨が好きじゃないんですよ」
「そうなのか? まあオレも、耳のこいつが濡れると困るんだけどな」
タクトは左耳にぶらさがる、三角のものを軽く指で叩くと、先んじて小走りに駆け始めたので、アズマもそれに合わせて駆け出した。
「いらっしゃいませー」
アズマとタクトが入ると、すぐに若い娘の、明るい声が出迎えてきた。
その娘は、タクト同様、天候の変化に気づいていたらしく、ちょうど店主とおぼしき壮年男とともに、
「あんみつ
アズマは中の座敷のへりに
タクトのほうはアズマに習わず、立ったままボンヤリと、売り子の娘に見入っていたのだ。
「なあアズマ。100数える間に、あの子とめちゃくちゃ仲良くなる方法とか、わからないかな」
「知りませんよ。言ってませんでしたけど、僕って記憶喪失なんですよ。そういう知識とか、蓄積してるものは何にもないんです」
「え? お前、記憶喪失なの?」
「そうです。二年より前のことを、何も覚えてないんです……つまり僕は二
「そりゃ難儀だな。その小澄アズマって名前、本名なのか? さっき名乗ってるとき、なんか自信なさげだったぞ」
「何だか頭に浮かんだ名前を名乗ってるだけですしね、それも」
「ふーん。まあ、そんなことはどうでもいいんだよ」
タクトはびっくりするぐらい、バッサリとアズマの暗い告白を断ち切った。
「オレはあそこの子と仲良くなりたい気持ちで、今は頭がいっぱいだ」
タクトは本当にアズマのプロフィールに興味がないらしく、じっと接客の娘を見つめていたが、それに娘のほうが気付いて、にこりと微笑んだ。
「私と仲良くなるなら、百を数えるほど通われるといいんじゃないですか?」
紺色の
「お姉ちゃん、商売うまいね」
タクトは
「その
「じゃあ名前教えてよ。これも、良く聞かれてるんじゃないか? オレは霧乃森タクト。横のはアズマってんだが、名前と顔を覚えるのはオレのほうだけでいいぜ」
「おしづ、と申します。以後よろしくお願いしますね」
と、おしづが頭を下げかけたところで、雷鳴とともに、土をえぐるような勢いの土砂降りが始まった。
往来を歩いていた者から、小さなうめき声と笑い声がもれてくる。
その声の中に、やかましい喚き声があり、その声の集団が、こちらへ近づいてきた。
「ちょうど良いところに甘味処があった」
それは五人組の男だったが、そのうちの、いちばん派手な格好をした人物が胸をなでおろしながら息を付いた。
「とんでもない目にあいましたね、さっきは。伊織のカスのせいで」
「まったくだ、でもあんな最低な目にあったから、たぶん次はサイコーに良いことがあるはずだよ」
「団子くいたい」
「饅頭こわい」
取り巻きが口々に、派手な男をもてはやす。
「ぜんぜん雨宿りにお使い頂いて構いませんよ」
おしづは視界の横から、店へ入った五人組の男たちに
男たちは一人をのぞいて、全員がフンドシ一丁だったのだ。
その五人組は、アズマにもタクトにも、覚えのある人物だった。
そして、その見覚えのある男どもの先頭にいる金羽織の男は、喉を鳴らすと、取り巻きの男たちへ目配せをした。
それに反応して、取り巻きたちは、こんどはおしづを囲みだし、大声でこう告げたのである。
「我々を誰だと思っている」
「ここにいるお方は、日の本のために
「そうだコラ、
「饅頭こわい」
取り巻きがあらんかぎりの
「そういうことだ、娘、食い物を出してもらおうか」
もっとも
「と、申されましても……
飛脚とは、日本の
だがフンドシ
「
「お前たち、怖がらせるだけでは芸がないぞ……娘……まずは俺の名を言おう。俺の名は土井伊織。
こうみえて、こいつらは変態ではない。
「フンドシ推進委員会」
「違う! だれだ! 勝手に党名をつけおったのは!」
伊織さまが振り向くと、そこにいるはずの四人の部下たちは、すでに頭から地面に突き立っていた。
「なあアズマ、今度は何を書こうか」
タクトが慣れた手つきで、あたかも砂浜であそぶ子がやるように、
「き、き、
さすがに伊織さまも、今度は顔が真っ赤だった。
「許さんぞ……そこに直れ!」
伊織さまは手早く、腰にささった刀を抜き払った。
その場に、一気に
「抜くんですか……だったら僕も使いますね」
世の中はおよそ売り言葉に買い言葉……アズマもまた、ジャッと音を鳴らして刀を抜く。
アズマの持つ刀は、まるでサメの歯のようにギザギザに刃こぼれしており、とても
とはいえ、切れはしなくとも、相手の刀を
「ひどい刀だな、アズマ」
タクトが
「
「
「その後の面倒事なんて、もう慣れました。まあ、今回はできるだけ長くかからないことを祈りますよ」
「お前……」
タクトはその告白に声を失ったが、アズマのほうはそんなものにかまける気はなかった。
「えーと……伊織さま、でしたっけ。ひとつ良いですか?」
「なんだ、
「いえ、あなたのその刀ですけど……一度も血に
「な、なななななぜ、そう思う!」
真っ
「
「こここ、これは昨日、イヤ、おととい買った刀だ! 俺は
「
「きききき貴様!! これ以上、俺を
「あとお前、ドーテーだろ」
タクトまでがダメ押しに加わる。
「どどどどど
怒りで我を忘れた伊織さまが、刀を大上段に構えたまま、アズマへと走った。
一方、アズマのほうは落ち着いたまま、握っている
「……?」
タクトはそれに
まず『二歳児に等しい』アズマが、刀をなでらかに
構えや動きで、ある程度の流派がしぼれるのだが(剣技の流派でも、
この段階ではタクトも、
もしもアズマが負けそうになれば、足元にころがっている石でも伊織さまに投げつけてやる
が……すぐに、その心配をする必要がない、とタクトは思い知ることになった。
「うおっ!?」
刀のぶつかり合いになったとたん、伊織さまの顔色から
アズマの剣閃が、伊織さまの死角から飛び込み続けるのである。
上を防御すれば下から刀が
攻撃の導線すべてが、
この
実力の差が伊織さまの
アズマは、刀を伊織さまの
「!」
伊織さまは、声にならない
その伊織さまのアゴに向けて、
伊織さまはゆっくり、ふわっと浮いたかと思うと、そのまま地面に倒れていった (すかさず、それにタクトが近づき、地面に伊織さまの頭を埋めて身ぐるみを