8.成敗(せいばい)

「おいアズマ。夕立が始まるぜ」

 旅籠『えながや』を出てまもなく、甘味処(かんみどころ)への道すがら、タクトが雑談をさえぎって空を指差した。

 遠くの雲の中に、あきらかに灰色の深みの強い雲が、ときおり発光しながらこちらへゆっくりと、にじり寄るのが見えた。

「ん……ホントだ。こっちに流れてきますね。梅雨とはいっても、この時期には珍しい」

 アズマが見上げると、そこには重たそうな、黒ずんだ雨雲が腕を広げ始めているところだった。

「世七郎さんが言ってた、人気の甘味処はあそこだろ? 雨宿りがてら、さっさと入ろうぜ」

 タクトは空に向けていた人差し指を、こんどは少し先にある甘味処『たけやぶや』へと曲げた。

「雨がちらついてきましたよ。走りませんか? 僕、雨が好きじゃないんですよ」

「そうなのか? まあオレも、耳のこいつが濡れると困るんだけどな」

 タクトは左耳にぶらさがる、三角のものを軽く指で叩くと、先んじて小走りに駆け始めたので、アズマもそれに合わせて駆け出した。

「いらっしゃいませー」

 アズマとタクトが入ると、すぐに若い娘の、明るい声が出迎えてきた。

 その娘は、タクト同様、天候の変化に気づいていたらしく、ちょうど店主とおぼしき壮年男とともに、縁台(えんだい)(細長いイス。(たたみ)ばりでイグサの心地(ここち)よい(かお)りがする)の端を相互にかかえて、座敷の奥へ運び終わっていたところだった。

「あんみつ一杯(いっぱい)を……タクトさんも、それで良いんでしたっけ? タクトさん……?」

 アズマは中の座敷のへりに腰掛(こしか)けながらたずねるが、すぐに怪訝(けげん)な表情になった。

 タクトのほうはアズマに習わず、立ったままボンヤリと、売り子の娘に見入っていたのだ。

「なあアズマ。100数える間に、あの子とめちゃくちゃ仲良くなる方法とか、わからないかな」

「知りませんよ。言ってませんでしたけど、僕って記憶喪失なんですよ。そういう知識とか、蓄積してるものは何にもないんです」

「え? お前、記憶喪失なの?」

「そうです。二年より前のことを、何も覚えてないんです……つまり僕は二歳児(さいじ)みたいなものなんだから、人生経験を積んだ、かっこいい助言なんて、期待しないでもらいたいです」

「そりゃ難儀だな。その小澄アズマって名前、本名なのか? さっき名乗ってるとき、なんか自信なさげだったぞ」

「何だか頭に浮かんだ名前を名乗ってるだけですしね、それも」

「ふーん。まあ、そんなことはどうでもいいんだよ」

 タクトはびっくりするぐらい、バッサリとアズマの暗い告白を断ち切った。

「オレはあそこの子と仲良くなりたい気持ちで、今は頭がいっぱいだ」

 タクトは本当にアズマのプロフィールに興味がないらしく、じっと接客の娘を見つめていたが、それに娘のほうが気付いて、にこりと微笑んだ。

「私と仲良くなるなら、百を数えるほど通われるといいんじゃないですか?」

 紺色の小袖(こそで)の娘が、タクトの悩みを明確に受け答えた。

「お姉ちゃん、商売うまいね」

 タクトは破顔(はがん)とともに、接客(せっきゃく)の少女をほめた。

「その(たぐい)の話はよく頂きますので」

「じゃあ名前教えてよ。これも、良く聞かれてるんじゃないか? オレは霧乃森タクト。横のはアズマってんだが、名前と顔を覚えるのはオレのほうだけでいいぜ」

「おしづ、と申します。以後よろしくお願いしますね」

 と、おしづが頭を下げかけたところで、雷鳴とともに、土をえぐるような勢いの土砂降りが始まった。

 往来を歩いていた者から、小さなうめき声と笑い声がもれてくる。

 その声の中に、やかましい喚き声があり、その声の集団が、こちらへ近づいてきた。

「ちょうど良いところに甘味処があった」

 それは五人組の男だったが、そのうちの、いちばん派手な格好をした人物が胸をなでおろしながら息を付いた。

「とんでもない目にあいましたね、さっきは。伊織のカスのせいで」

「まったくだ、でもあんな最低な目にあったから、たぶん次はサイコーに良いことがあるはずだよ」

「団子くいたい」

「饅頭こわい」

 取り巻きが口々に、派手な男をもてはやす。

「ぜんぜん雨宿りにお使い頂いて構いませんよ」

 おしづは視界の横から、店へ入った五人組の男たちに笑顔(えがお)を向け、歩み寄ろうとしたが……その男のいでたちを見るや、少しばかり物怖(ものお)じした素振(そぶ)りを見せた。

 男たちは一人をのぞいて、全員がフンドシ一丁だったのだ。

 その五人組は、アズマにもタクトにも、覚えのある人物だった。

 そして、その見覚えのある男どもの先頭にいる金羽織の男は、喉を鳴らすと、取り巻きの男たちへ目配せをした。

 それに反応して、取り巻きたちは、こんどはおしづを囲みだし、大声でこう告げたのである。

「我々を誰だと思っている」

「ここにいるお方は、日の本のために忠義(ちゅうぎ)()くすことでサイコーに名のある御仁(ごじん)だぞ」

「そうだコラ、饅頭(まんじゅう)ぐらい差し出せ! 無料無料!」

「饅頭こわい」

 取り巻きがあらんかぎりの賛辞(さんじ)とともに、ひとりの金羽織(はおり)を押し出してくる。

「そういうことだ、娘、食い物を出してもらおうか」

 もっとも威張(いば)った、金羽織の男が、最後に取り巻きと似たような主張を放った。

「と、申されましても……飛脚(ひきゃく)の方かと思っておりました。明らかにお(さむらい)さまとお見受けしかねる格好(かっこう)でしたので……」

 飛脚とは、日本の(すみ)まで手紙を届ける職の人間だが、この時代、飛脚と限らず、フンドシ姿で往来を出歩く者は多かった。

 だがフンドシ一丁(いっちょう)でサムライだと言われれば、さすがのおしづも、(うたが)いの表情を出さずにはいられなかったのだ。

粗衣粗食(そいそしょく)なれど、心は(にしき)! 恰好(かっこう)がどうした! 伊織さま、何とか言ってやって下さい、あんただけ服着てるし」

「お前たち、怖がらせるだけでは芸がないぞ……娘……まずは俺の名を言おう。俺の名は土井伊織。

 こうみえて、こいつらは変態ではない。()(もと)を一新するために日夜、あちこちを走り回っている……そう、つまり我々は」

「フンドシ推進委員会」

「違う! だれだ! 勝手に党名をつけおったのは!」

 伊織さまが振り向くと、そこにいるはずの四人の部下たちは、すでに頭から地面に突き立っていた。

「なあアズマ、今度は何を書こうか」

 タクトが慣れた手つきで、あたかも砂浜であそぶ子がやるように、()まっている男の首まわりの土を手で固めていた。

「き、き、貴様(きさま)ら、また……」

 さすがに伊織さまも、今度は顔が真っ赤だった。

「許さんぞ……そこに直れ!」

 伊織さまは手早く、腰にささった刀を抜き払った。

 その場に、一気に緊張(きんちょう)が走る。

「抜くんですか……だったら僕も使いますね」

 世の中はおよそ売り言葉に買い言葉……アズマもまた、ジャッと音を鳴らして刀を抜く。

 アズマの持つ刀は、まるでサメの歯のようにギザギザに刃こぼれしており、とても殺傷(さっしょう)道具として使えるシロモノではなかった。

 とはいえ、切れはしなくとも、相手の刀を(ふせ)ぐことはできるし……まだ突き刺すことも、撲殺(ぼくさつ)も可能だ。

「ひどい刀だな、アズマ」

 タクトが(まゆ)をひそめながら意見をのべた。

(ひろ)った物ですからね。仕方ありませんよ」

刃傷(にんじょう)はあとあと面倒(めんどう)くさいぞ」

「その後の面倒事なんて、もう慣れました。まあ、今回はできるだけ長くかからないことを祈りますよ」

「お前……」

 タクトはその告白に声を失ったが、アズマのほうはそんなものにかまける気はなかった。

「えーと……伊織さま、でしたっけ。ひとつ良いですか?」

「なんだ、辞世(じせい)の句でも()げたいか」

「いえ、あなたのその刀ですけど……一度も血に()れたことがないように見受けられたので」

「な、なななななぜ、そう思う!」

 真っ()だった伊織さまの顔が、アズマの一言によって、一気に青ざめた。

(にお)いですよ。僕、鼻がとても良いんです。その刀で()っていたら、斬られたのは男か女か、年齢(ねんれい)もわかるし、何年前に殺したとか、人数もわかります──血ってのは洗うくらいじゃ、色くらいしかとれませんからね」

「こここ、これは昨日、イヤ、おととい買った刀だ! 俺は攘夷(じょうい)のために毎日、異人(いじん)を斬っているから、刃こぼれと買い換えは日常茶飯事(さはんじ)なのだ! 今宵(こよい)も血に()えておるわー、ウチの刀は」

(うそ)ですねそれも。それ愛刀(あいとう)なんでしょう? その手で握ってる刀の……柄糸(つかいと)ににじむ汗の量。長年の物なのもわかりますし、あなたの汗の匂いってこともわかります。つまりあなたは、その刀と十年以上つきあいながら、それで人を斬ったことはない。あ、大根とか人参(にんじん)なら、たまに斬ってるみたいですね」

「きききき貴様!! これ以上、俺を愚弄(ぐろう)したら(ゆる)さんぞ!」

「あとお前、ドーテーだろ」

 タクトまでがダメ押しに加わる。

「どどどどど童貞(どうてい)ちゃうわ! もう許さん!」

 怒りで我を忘れた伊織さまが、刀を大上段に構えたまま、アズマへと走った。

 一方、アズマのほうは落ち着いたまま、握っている得物(えもの)のみねを、自らの鎖骨(さこつ)()えるようにして構えた。

「……?」

 タクトはそれに違和感(いわかん)を覚えていた。

 まず『二歳児に等しい』アズマが、刀をなでらかに(あつか)うことにも不思議(ふしぎ)さを感じたのだが、アズマのその構えにも、タクトは合点(がてん)がいかない所があった。

 構えや動きで、ある程度の流派がしぼれるのだが(剣技の流派でも、厳格(げんかく)上士族(じょうしぞく)下士族(かしぞく)かがわかるようになっていた)、アズマのものは、あまり見慣れないもの。

 この段階ではタクトも、素人(しろうと)がとりあえず刀を構えているフリをしている、と結論づけていた。

 もしもアズマが負けそうになれば、足元にころがっている石でも伊織さまに投げつけてやる腹積(はらづ)もりでいたのである。

 が……すぐに、その心配をする必要がない、とタクトは思い知ることになった。

「うおっ!?」

 刀のぶつかり合いになったとたん、伊織さまの顔色から(あせ)りがにじんだ。

 アズマの剣閃が、伊織さまの死角から飛び込み続けるのである。

 上を防御すれば下から刀が()ね上がり、下に構えれば横から()ぎ打ち、伊織さまが大事にする金の羽織が(きざ)まれていく。

 攻撃の導線すべてが、流麗(りゅうれい)に尽きたのである。

 この一瞬(いっしゅん)の間に何度、伊織さまは命を失う攻撃を浴びせられたか、わかったものではない。

 実力の差が伊織さまの脳髄(のうずい)にまで()み込んだ──そのあたりで。

 アズマは、刀を伊織さまの(また)の間の(はかま)に突き刺し、袴を土とつなぎ合わせた。

「!」

 伊織さまは、声にならない(うめ)き声を()らす。

 その伊織さまのアゴに向けて、無手(むて)となったアズマは、いったん深く身体を(しず)み込ませてから、立ち上がるとともに、強烈(きょうれつ)(こぶし)を食らわせた。

 伊織さまはゆっくり、ふわっと浮いたかと思うと、そのまま地面に倒れていった (すかさず、それにタクトが近づき、地面に伊織さまの頭を埋めて身ぐるみを()いだ)。

次話