ファノンには昔から、ふしぎな能力があった。
それは怒りを覚えたときにしか使えない物だったが、その条件さえ満たせば、ファノンは思う存分にその力を暴れさせることができた。
どんな力かというと――
「見える、見えるぞ――女の裸が、見える!」
場所は集団浴場。竹で組んだ仕切り板に開いた穴に、みずからの目玉を密着させながら、ファノンはあたかもプレパラート上に新細胞を見つけた学者のように、興奮ぎみに述べた。
「だけど、いまいち見えないな……湯気とか、謎の光が邪魔をして、俺の少年心をいたずらにモヤモヤさせるだけだ。穴を開けた場所を間違えたか……」
ファノンがそうしゃべった次の瞬間、見えている穴が、闇に染まった。
「ドラぁぁぁっ!」
さらに次の間には、仕切りをかち割りながら、長い、小麦色をした脚がファノンの顔面に食い込んでいた。
「うぉろふっ!」
ファノンは温泉にぬめる石の床に、投げられた手裏剣のように、五体を回転させながら滑り込んだ。
「おいファノン。ずいぶん大胆じゃないか」
穴の開いた仕切りから脚を引っこめると、そこから能面のように無表情をした少女が、顔をのぞかせた。
「きゃーん」
「いやーん」
「メイが穴から
「変態よー! すけべよー!」
上記にて黄色い声をキャーキャーさせているのは、すべて男湯の若い連中である。
「……」
女湯のほうからの脚の主、メイは男どもには目もくれず、いま自分が足の裏でぶち抜いた穴から、鼻の骨格整形をされて昏睡するファノンをにらんだ。
メイの顔は脚と同様、小麦色。
その顔立ちは整っていて、小顔に均整のとれた位置に目鼻が座り、その瞳も大きく黒目がちで、(今は入浴中なのでうしろに束ねているが)トレードマークの亜麻色の長髪のおかげで、誰でも遠くからでも彼女と判別できる。
ファノンはまだ一度もおがんだことはないが、身体のラインもすらりと整い、まるで海魚のようなバランスの良さだった。
「つまり胸がない」
ファノンが寝そべったまま目を力強くひらいたかと思うと、得意げに付言した。
その瞬間、ファノンの両目に石鹸が突き刺さった。
「目ェェェェっ! なんか目が痛い! 二重に痛い!」
ファノンは引きまわる麺棒のように、床を転げまくった。
「キャー、ファノンの目玉に石鹸が生えたわー」
「キャーすてきー、かっこいいー」
「キャー」
またも男湯の男どもがさわぐが、メイはまったく意に介さず、ファノンを殺意のこもった瞳で見下ろした。
「またつまらん超能力を使ったのか、このカス」
「ひどいことをする……石鹸は目に刺すものじゃあないぞ」
「アアそうだったな、食べるものだった、お前にとっては」
メイがふたたび石鹸をかかげ、ファノンの口に狙いを定めた。
「あ、いや……もう腹一杯だよ、おかげで。たっぷり両目で石鹸、食べられたからな」
ファノンは目と鼻から大量の血を、軒先からこぼれる雨水のように垂らしながら、ゆっくり起き上がり、開いた穴から不機嫌な顔をのぞかせるメイに近寄った。
「ファノン。その力、悪いことに使わないってクリルさんに約束してたろ。その力は……」
メイは感情の
と。
しゃべりかけるメイの額が、にわかに、チリチリと熱を帯び始めた。
それはすぐに、耐えきれないほどの熱さとなって、メイの脳にヤケドを伝えた。
「あっぢぃぃぃぃ!」
メイはのけぞって、女湯に首を引っこめた。
「フッ、アホめ」
ファノンは仕切りの陰に消えたメイに向けてほくそ笑んだ。
その手には、黒く渦を巻く、異形の球体を持っていた。
だがその球体は、
これこそ、ファノンが生まれながらに持つ力だった。
この力は強力で、できることといえば……
「ドラぁぁぁっ!」
幼馴染のキックを、顔面に買う程度の現象を引き起こせる。
「ぺらりおんっ」
ファノンの顔は空豆状から、さらにへこんで、赤血球のようになった。
「この変態。お前のために言ってるんだろーが。聞こえなかったのか、その力を使うなと。この壁の覗き穴も、お前が今の力で作ったんだろう」
「……小さい穴だったはずだが、よく俺が覗いてるの、気づいたな」
ファノンは膝を折りながら、気丈に語った。
「えーと……その黒い球体を出す技、日の光を一点に集めて物を燃やす技だろ。焦げ臭かったんだよ、さっきから」
「湯気に隠れて煙も見えないと考えたんだが……甘かったか」
「イヤ甘いとかどうとかじゃなくて、やめろよ」
「メイ……一つだけ言っておきたいことが」
ファノンは指を立てて不敵に笑った。
「さっき変態と言ったな。この
「るせー変態。親からもらった名前を
メイが吐き捨てる。
ちなみにこの変態の本名は、ガネーシャでもレクサスでもないし、ましてやガルーシャレグナスでもない。
彼にはファノン・パケプケモンテンという、ちゃんとした名前があった。
ただ当人は、自分以外の全員が、自分の名前を覚え間違えている、と信じているだけである。
「それより、クリルを出せ。朝風呂は休日をかみしめる俺たちの日課だろ」
「クリルさんはもういねぇよ」
「なんでだよ、いつもお前と来てるのに」
「今日はリッカさんと先に行って、もう出て行ったよ。だいたい何の用だよ」
「昨日の風呂覗きを撃退してくれたからな、その仕返しを。俺の収束レンズ攻撃に恐れをなしたな」
「いまやってた、虫メガネに太陽光を集中させるのと同じ原理の技か。地味すぎだろ」
「そんなことより、クリルはどこに?」
「知らん」
「ウソつけ」
「本当だよハゲ……いや待てよ……そう言えば、風呂を出る二人とすれ違いざま、ゴドラハンの森に行くとかいう話が聞こえたような」
押し問答を中座して、メイがひとりごちた。
「ゴドラハンの森か! よし、俺も行く! たまにエロ本見つかるんだよな、あそこ」
「あそこはここと違って、水爆津波の放射線が飛びまくってる。あまり長居できる場所じゃあない。なんでそんな所に、命をかけてエロ本探しに行ってんだよ。しかも日常的に入ってんのかよ」
「なあメイ。俺たちの寿命は、短いんだよ……」
にわかに、ファノンの表情が鋭く冴えた。
「む、なんだよ……」
「何かやったら死ぬかもしれない。でも、何もやらなくても死ぬんだ。だったら、一度きりの人生なら、捨て身でかかるべきだ。それを、子供達に見せてやるべきだ」
「うん……まあ、そう、だけどな……」
「俺は子供達に呼ばれたいんだ。
「けっきょくエロ本かよ」
メイが顔に手を当てて、あきれた。
「ともかく俺はいくぜ……あそこには自警団も歩き回ってるはずだから、隠れるのも
「なんの話だ?」
「俺の心のボスの話だよ」
ファノンは、首だけ男湯にのぞかせるメイから顔を逃し、森のある東を見つめた。
「おいファノン、行くのかよ」
「冒険が俺を呼んでる」
「お呼びじゃねぇよ、お前みたいなの」
「止めるなよ」
「止めないよ、アホらしい……おいファノン、行くのなら槍を忘れるなよ」
メイはあきれ加減に息をついたが、ちゃんと忠告も添えた。
ファノンは片手を上げてメイの視界から消えると、男湯の扉を出て、松の木の床の張られた更衣室ですこし体を冷ましてから、適当に体を持ち込みのタオルで拭いて、この国の民族衣装に手を通した。
それを終えると、ファノンはやや足早に更衣室を抜け、銭湯出入り口の引き戸をスライドさせた。
ファノンの足元には赤い光沢を放つ宝石、ルビーの敷石が迎えた。
続いて見える、なだらかな坂の下には、幅の広い、浅い川が寝そべってせせらぎを奏で、その水面にのぞく小石群にも、七色の宝石がきらめくのが見えた。
この世界の五分の一を占めるのは、種々の宝石。
それがファノンたち人類がよりどころとする、セントデルタの街だった。