3.闇の球

 少し前、といっても二分ほど前のこと。

 ファノンはダイヤモンドの槍を固く握りしめ、意気揚々ようようと、森の獣道をひとりで進軍していた。

 だが、その意気揚々ぶりは、すぐに意気消沈にとって代わることになった。

 細く踏み固められた獣道の向こうにいた、数人の知り合いと目があってしまったのである。

「あ、ファノン……ファノン・パケプケモンテン」

 ファノンと同じように、宝石の槍で武装した男のひとりが、大声をあげた。

「おいこらファノン! 外出許可はとったのか!」

 筋肉質な男がかなり遠いところから叫んだ。

 建築屋のボワニ。

 趣味はダンベル上げ、三度の飯のオカズにはかならず肉を食べるほどの肉体派であるが、20秒もあれば子供と仲良くなれる人物としてのほうが有名だ。

「パケプケモンテン……? ここにいるのはファノン・ウォリシス・フォレスターだが……」

 ファノンは困ったように首を回し、パケプケモンテンさんを探した。

「うるさい、お前のことだよバカ! ここに来るなら、クリルみたいに外出手続きしろよ。遭難した時、わからないだろ」

 めんどくさげにうなったのち、ボワニがもう一度ほえた。

「ボワニさん、クリルを見たんだな?」

 ファノンは相手の話にはまったく耳を貸さず、たずねた。

「クリルを見たかだと? 今は違う話をしてんだろ。エノハ様に言われてるだろ、ここに来たけりゃ、役所で許可を取ってこい」

 ボワニの横にいた細身の15歳、ベチが重ねる。

 前時代に絶滅したブドウ業を試行錯誤の末、14歳のときに復活させ、人々にその味を教えた男である。

 かなり真面目で、冗談を言うこともなく、見ても聞いても笑わない。

 もちろんファノンのしょぼくれた話題そらしなど、効くはずがない。

「まあまあ、話をきいてやりましょうよ」

 なだめたのは、眉のさがった顔貌がんぼうのおかげで、いつも泣きそうな顔だと誤解される男モーテン。

 これでもセントデルタに三人しかいない税務官のひとりである。

「ファノンくん、クリルさんからの手続きがあったのは知ってる。それで、君は何をしにここへ?」

「ああ、じつは俺、クリルの随伴ずいはんだよ。エロほ……文化遺産を探す手伝いを」

「はぁ……お前ってやつは。2分くらいで終わる手続きを、どうしてそうも面倒くさがるかね。とにかく帰れ。このことは自警団長リッカと、エノハ様に報告する」

 ベチがファノンの肋骨を指で押さえながら、追撃した。

「おい、チクんのかよ」

「チクるなどと、小学生レベルな話にするなよ。お前はエノハ様の禁をやぶったんだ。お前のために言ってんだぞ」

「いや、俺の話も……」

 ファノンがそう申し開きかけたとき、だった。

 脈絡も予告もなく、あたかも水上に燃える木炭を放ったような、ジュッという音とともに、目の前で怒っていたベチのこめかみと、そのうしろで腕を組んで見ていたボワニの首に、いきなり大きな穴がひらいたのである。

 そのまま穴は横へとスライド式に広がり、まるでホースの水で、土に穴をうがつように、ベチの後頭部と、ボワニの延髄えんずいを切断し、ふたりは一様に目をいて、地面にくずおれていった。

 少しのタイムラグののち、一緒に立ち割られたうしろの大木が炎を上げて、めりめりと音を立てて巨体を地面に沈めていった。

「え……ベチ、ボワニ……?」

 ファノンは呆然ぼうぜんと、にわかに死体へと変わった二人の知人を見下ろし、固まってしまった。

 ファノンには、何が起こったのかわからなかった。

 ファノンの肉眼からは、ベチとボワニの体に、とつぜん致命的な穴が開いたふうにしか見えなかったが、じっさいはこうだった。

 正体はフッ化重水素を由来とする、不可視の化学レーザー。

 これのエネルギー量は50キロワット。つまり射出口付近は19200度という、超大出量の赤外線エネルギーである。

 とてつもない高熱源ではあるが、波長としては3.8マイクロメートルの赤外線なので、380ナノメートル以上の光しか見えない人間には、判別不可能な光なのである。

 ゆえにファノンにはレーザーをとらえることはできなかったが、その動線だけはくっきりと認めることができた。

 岩石も気化させるほどのエネルギー。それの通る道には、黒い焦げ目をさらした小さなトンネルができるからだ。

「ファノンくん!」

 モーテンが飛びかかるようにして、立ち尽くすファノンを押し倒し、ともに茂みの中に飛びこんだ。

「あ……あの二人を助けないと」

「あれで助かるわけ、ないだろう」

 抱きすくめるようにファノンの両肩を掴み、モーテンがきつく諭したが、モーテン自身、顔から血の気が引いていた。

「今は僕たちが生き延びることだけ考えよう」

 モーテンは茂みのヤマツツジを手でかきわけ、向こうを監視しながらつぶやいた。

 ファノンからも、そこから外部がうかがえたが、熱線を放った相手はまったく見える様子はなかった。

「今死んだベチとは、長年ケンカしあってたんだ。僕はあいつが嫌い。あいつも僕を嫌い。さっきも言い合ってたところで、君と出くわした。死ねばいいと思ってた矢先が、これだ」

「モーテン……」

「でも、あいつはブドウの復活に、かなりの年月をついやしたのは知ってる。そこは正直、すごいと思ってた。これから何十年、セントデルタの人々はブドウのない暮らしをするんだろうな」

「そうだな……それにボワニのこと、あいつの奥さんになんて報告すりゃ、いいんだ」

「とりあえず逃げるよファノンくん。僕たちだけでも生き延び、エノハ様にしらせないと。何かが街に侵入し…………ウグ」

 そこまで言ったモーテンの腹に、円形状に、コブシ大の穴が開いた。

 その穴もまた、あたかも木登りするトカゲのような動線をなぞって、モーテンの頭頂部までのぼって、その顔を両断していった。

 ボゾボゾっと、血と肉を蒸発させる音を立て、肉の焦げる醜怪しゅうかいな臭いを放ちながら、膝立ちするモーテンは仰向けに倒れていった。

「モ、モーテン!」

 そう叫ぶファノンの肩と脇、腰を、レーザーがすり抜けて、そのうしろにある木々をなぎ倒していった。

 もちろん、そのレーザーも目視できたわけではないが、鬱蒼うっそうとした木々に穴が開くから、軌道だけはわかるのである。

 一瞬にして火を起こす大木や葉が、黒い炭の粉になってファノンの頬を撫でる。

 ファノンでも、理解できた。

 今のレーザーは、あきらかに、わざと外されたものだと。

 レーザーはその特性のために、前から来たのか、うしろからきたのかもわからない。

 どちらに逃げればいいかもわからない中、ファノンの『前』から声が起こった。

「ファノン、やっと会えたな」

 肉感のある、人間の男の声だったが、それはファノンの知らない人物のものだった。

「何者だ」

 ファノンは精一杯の強がりとともに、厳しくたずねるつもりだったが、それと裏腹に声はすっかり震えていた。

 一瞬で知人を三人も殺した相手なのだから、自分の生殺与奪せいさいよだつは思うがまま。

 こんな声音だと、相手に付け込まれるのが目に見えているのに、どうしても声帯の制御ができなかった。

「まずは出てこい、お前も横の男のように死にたいか」

 声の主はファノンと雑談を楽しむつもりはないようで、要求だけを告げてきた。

 とつぜんの脅迫そのものの命令に、ファノンは無策を強いられたまま、武器を持ったまま立ち上がり、茂みから一歩進んだ。

 数発のレーザーのせいで、森は完全に森林火災のありさまで、木は炎にただれ、熱風をあたりに吹きさらしていた。

 立ちあがっているにもかかわらず、相手の姿は、まだファノンからは観察できなかった。

 だが、それは短時間だった。

 炎と黒煙の踊る木々の中から、ファノンの部屋より少し小さいほどの、クモ型のマシンが現れたのである。

 セントデルタ人なら、これのことを知らないわけがない。

 ホロコースター・ツチグモ型。

 かつて、人類の虐殺に使われた、無人の軍用兵器である。

 そう、ツチグモは人間が操縦するものではない。

 にもかかわらず、いまツチグモが人の言葉を話しているのは、おそらくどこかで誰かが、ツチグモの目を通して、遠方から見ているからなのだろう。

「な、なんなんだよ、お前は」

「お前と、話がしたいと思っていたのさ。俺と同じ……いや、それ以上のことのできる、今の所、この世でただ一人の、超弦の子ファノン。

 お前の力は、ただ太陽の力をあつめるだけの、しょぼくれたものじゃあない。俺と一緒に来い。お前には、宇宙の不条理を断つことができる力がある」

「俺を、知ってるのか」

「知ったのは最近だよ。もしも赤子の時からお前を知っていれば、そのときに引ったくって洗脳していた。それが成功していれば、お前は今ごろ、脳内に妙な汁を出しながら、笑顔で爆弾を抱えつつ、集会の真ん中に走るような男になっていただろうさ」

 ツチグモが含みを持たせながら、強硬さをこめてファノンに近づこうとしたときだった。

 にわかに、そのツチグモの背後から、アクロバティックな動きで、細身の人物がツチグモの脚を伝って駆け登り、手にしていた泥の塊を、ツチグモの八つのカメラ・アイに叩きつけ、さらにその周りにも土を塗りたくった。

 ファノンには、その殺人マシーンに密着して工作するという離れわざを、たやすくやってのける人物の名前が、すぐに浮かんだ。

「クリル!」

 ファノンが叫ぶのと同時に、クリルはツチグモを蹴って、地面に飛び降りていた。

「何やってんのよ、あなた」

 クリルは不審者を尋問するように、顔をしかめてたずねた。

「お前が心配で、ついてきたんだ」

「あーもー……とにかく隠れて。とてもじゃないけど、ツチグモに無手でいどむのはマヌケすぎる」

 クリルがそう決めたところで、だった。

 動きを止めていたツチグモが、八本のうちの一本の脚を、背中を向けているクリルの腰にからめてきた。

「うっ」

「甘いんだよ、ツチグモは耳もいい」

 ツチグモが得意げに、みずからの機能の説明をする。

「クリル!」

 ファノンがクリルに駆け寄ろうとしたとたん、その眼前に、爪のように尖ったツチグモの脚が飛んできた。

 それはファノンの鼻先に突き刺さろうかという、数ミリ直前で寸止めされた。

「さてファノン。お前にふたつの選択権をやる。俺とともに来るか、それとも、ここでこの女の拷問死を目の当たりにしてから俺と来るか、だ」

「ファノン、こんなの聴いちゃダメ。逃げて!」

 クリルがツチグモの爪に腰をつかまれ、空中にぶら下げられたまま、さけぶ。

「まずは、こいつの脚をつぶす。つぎは太ももから骨を抜きとる。続いて手をちぎって捨て、二の腕も折る。傷からこぼれる血はレーザーで焼き止めるから、しばらくは安心だ」

「やめろ……」

「四肢をもいだら、つぎは腹だ。腸、子宮、脾臓ひぞう、肝臓を、ひとつひとつえぐり出し、森に捨てて行く。まだ死なないぜ、これだとな」

「やめろ……」

 つぎにこの句を口にしたファノンは、あきらかに最初に『やめろ』と発したときと、声音が違っていた。

 ファノンの制止の語気には、恐怖ではなく、怒りが宿っていた。

 ツチグモがあまりに残虐すぎる宣告をしてきたために、恐怖が消え、かわりに憎悪をおぼえたのである。

 ――俺にそんなことをするのなら、まだいい。

 ――だけど、クリルにそれは許さない。

 ファノンの五体を、闘争を司る、アドレナリンとノルアドレナリンが支配していた。

 冷静な判断は消え去っていたが、すれ違うように、恐れも怯えも、まるで冬の虫のように息をひそめはじめた。

「いいや、これはお前の決断が招くことだ。この女の死体は全裸にしてセントデルタに放り捨てる。街の連中にとっての、いい思い出になるだろうさ」

「やめろ……!」

 ファノンがもう一度、それを言ったときだった。

 あきらかに、周囲の景色が変わっていった。

 クリルの視界が、少しずつ暗くなってきたのである。

「……!」

 クリルとツチグモが、ともに空をあおぐ。

 クリルは不審に思ってそうしたのだったが……ツチグモは違った。

「予想通りだ……」

 クリルを束縛するツチグモのスピーカーから、羨望せんぼうともとれる声音がもれた。

 そこに隙が生まれているのを、見逃すクリルではない。

「リッカ! お願い!」

 クリルが片手を挙げた瞬間。

 上空のほうから、駿馬しゅんめのように、矢が一本飛んできた。

 それはクリルをつかむツチグモの爪の、関節からわずかにのぞける、老朽化したアクチュエーターを切断した。

 これだけでツチグモの脚が使えなくなることはないが、それでもツチグモはクリルの体を握りしめるための握力を、再計算するのにわずかな時間を要することになった。

 そして、その時間をこそ、クリルが期待していたものだった。

 クリルはとっさに腰にからみつく爪から身を引っこ抜くと、その脚を蹴って土に降りた。

 ファノンは我を忘れているのか、その間、ずっと手のひらをツチグモに向けたままだった。

 クリルはそこから、やっと悟った。

 ファノンがふだん、人の髪の毛を焦がすときと、同じ格好をとっていることを。

「これは……ツチグモの周りを暗い球体が、とりかこんでる。まさかこれは」

 クリルは再びファノンを見返した。

「ねえファノン……ファノン!」

 何か怖くなって、クリルは敵をにらむファノンの名前を呼び止めた。

 ファノンは少しの間まで、クリルの声が耳に入らないようだったが、にわかに眉をあげて、信じられなさそうにクリルを見返した。

「ああクリル……無事だったか……」

 クリルの言葉に反応をしめすファノンだが、その眉間には深いシワが走っていた。

「ファノン……大丈夫なの?」

「クリル……俺のうしろへ。今なら、できる気がする」

「なにを?」

「わかるんだ……今までとは比較にならない力が俺に集まってる」

 ファノンが自信をこめて、そう言った瞬間、だった。

 ツチグモの周囲が、さらに暗くなり、そこだけがまるで新月の夜の景色のように闇に覆われた。

「はは、いいぞファノン。思ったとおりだ。お前こそ超弦の子……俺の夢を叶える者だ……」

 意味深なことを吐きながら、そこでツチグモは黒い巨大な玉に飲みこまれていった。

「光が集中しすぎて、まわりが黒くなってる……ファノン、これは」

「わからないけど、太陽光をあいつに集めて倒したいって思ったら、できたんだ……待っててくれ、いまこいつを焼き殺す」

 両手を前にかざしていたファノンが、その手のひらを握りしめると、さらに光がツチグモに収束していった。

 光も通れない、暗い球状の闇の中からは、なんの音も聞こえてこない。

 光と同じく音も波長ゆえに、球体から逃げられず、ファノンの力によって、一箇所に集められているのだ。

 ツチグモは光からのがれるべく移動を繰り返すが、そのつどファノンの操作で闇の球に追われ、かくじつに焼かれ続けた。

 太陽光のエネルギーは、思った以上に大きい。

 セントデルタの人々も、学生のころには虫メガネをつかって黒い紙を燃やす遊びをしたものだが、ファノンが今やっているのは、それを巨大にしたものである。

 直径1メートルほどの巨大レンズを用いれば、夏なら1100度以上の熱を瞬時に発生させることができる。

 1100度といえば金も銀も溶かす温度。

 それをファノンは、数メートル級の大きさでやっているのである。

 みるみるツチグモの動きは鈍くなり、やがて闇の球体は動かなくなった。

 ファノンはそれでも、念のため力をこめてツチグモを焼き続けていたが、闇の球の周囲の土が赤く輝くマグマになりだしたのを認めると、さすがに力を弱めていった。

 それとともに、すぐに景色が晴れて、球の中のようすが取り戻された。

 そこでは、身体の左半分を溶かされたツチグモが、地べたに腹をつけて絶命、いや、機能停止していた。

 その有様を確認して、ファノンはクリルへ振り向いた。

「……無事か? クリル」

「おかげで……でも、その力。どうしたの。いままで虫メガネと同レベルのことしかできなかったのに」

「わからない。クリルをひどい目にあわせられない、と思ったらできたんだ」

 ファノンがそう告げるが、それは嘘だった。

 『太陽を集める力』は、激しい怒り……もっと言えば、憎しみに反応することを、何年もこの力と付き合ってきた当人であるファノンが、わからないはずがなかった。

 だがそれは、あまり胸を張って話せるようなことでもない気がしたので、わからない、で済ませたのである。

「ん……そうなの」

 クリルは顎に手を添えて、少し思案をめぐらせてから、ファノンを改めて見た。

「ねえファノン……あたしのために、あんなことができたのは喜ぶべきところかもしれないけど、もうあの力は使わないで。あの力はあなたを孤独にする。孤立させる力」

 ファノンより2センチ小さなクリルが、ファノンを戒めるように、強く見つめた。

「なんでだよ」

「そのうちわかる……いや、わかってからじゃ遅い。約束して」

 クリルがあまりにも真摯しんしにまなざしを向けるため、ファノンも飲まれる形で、うなずかざるを得なくなった。

「わかった……約束する。このことは、誰にも言わないよ」

 とはいえファノンにも、クリルのほのめかす言葉の意味は、伝わっていた。

 この力は、指のつけられた銃のトリガーと同じだ。

 その発砲前の銃を目にしながら、人は平常通りに、いままでと同じようにファノンと接することができるだろうか。

 それがわかるからこそ、ファノンは約束を結んだのである。

「うん、ありがと」

 クリルはうしろに束ねた髪を揺らし、にこりと微笑んだ。

「さあ、帰ろうよファノン。エノハにバレる前に」

「いいや、そうもいかんな」

 ファノンのうしろで、にわかに否定の声があがった。

 ツチグモからの声だった。

「!?」

 ファノンは振り返ろうとしたが……すでにツチグモの攻撃は完了していた。

 ツチグモは、よろめきながらもファノンに近づき、腕を振るっていたのである。

 運動不足ぎみのファノンには、それに対処することなど、できるはずがなかった。

 ファノンは、横ぎにされた爪を腹にもらい、ゴムまりのように吹っ飛ばされて、背中を強く大木に叩きつけられて土に落ち、そのまま動かなくなった。

「ファノン!」

 クリルは己の背後に追いやられてしまったファノンの元に駆け寄りたかったが、それはできなかった。

 それをすれば、目の前のツチグモが、クリルにも爪を食らわせるからだ。

「光量子をあやつる技とは、なかなか恐れ入ったが、派手な見た目ほど強大な力じゃないな……誰かが、わざとこの力しか授けなかったとしか思えん」

「くっ……」

 クリルには、このピンチを切り抜ける閃きも湧かず、ほぞを噛むしかできなかった。

 それでも、ファノンを守るためには、せめて相打ちに持ちこまないと……。

 クリルがそう決意した瞬間。

 クリルの運動スピードを越える速度で、クリルにもツチグモの爪が薙ぎ払われてきた。

 そもそもツチグモには、敵の運動神経まで計算した上で攻撃する目と知能があるため、人の身たるクリルにこれをかわすなど、できようはずもなかった。

 そのことを知り及んでいるクリルは、初めから無傷で済むことはあきらめていた。

 その代わりにクリルは、爪から離れるように、力の限り、逆の方向へ飛んだ。

 来る方向から逃げるので、これで威力を軽減させたようというわけだ。

 理想的なタイミングで飛んだクリルに向けて、重い一撃が、両腕でかばう腹にのしかかる。

 内臓すべてが揺さぶられるほどの振動と衝撃に、クリルの身体は、あたかも小石かボールのように、軽々と吹き飛ばされ、ファノンとは反対側の、苔と雑草と、飛び出た石の上を、さんざん滑ることになった。

 クリルはあまりの強撃に意識もゆらぎ、起きあがろうとするものの、その力をひねり出さずに、改めて地面へ突っ伏した。

「ファ……ノン」

 クリルは息ができないながらも、精一杯、顔を上げ、動かぬファノンへ声をしぼった。

 そこではすでに、ツチグモが倒れるファノンを担ぎ上げていた。

「では、こいつをもらってゆく。超弦の魔王になってもらうためにな」

 よろよろしながらも、ツチグモは残った三本の脚で立ち去ろうとする。

「ま、待ちなさ……い……」

 クリルが腹ばいのまま、片手をあげてツチグモをとどめた時、だった。

 とつじょ、クリルの視界の隅にそびえていたアレキサンドライト宝石の塔から、一条の赤い光線が伸び出てきた。

 その光はツチグモの数メートル離れたところに着弾したのち、地走りのように地面をうねるようにして、ツチグモへ向かっていった。

「――ちっ……」

 ツチグモから舌打ちがもれる。

 そのままツチグモは身じろぎする暇もゆるされず、光線によって体を刻まれて、メラメラと炎を上げながら、地面に抱きついていった。

 そのさいに、ツチグモの両足によって、お盆でも持つように抱えられていたファノンも、土の上に放られた。

「ファノン……」

 クリルはまだ痛む体を起こし、よろよろと千鳥足で歩き出すと、火球になったツチグモから、ファノンの両脇をつかんで引きずり離した。

「……」

 安全だと思えるところまでファノンを運んだクリルは、そこでファノンをやさしく下ろして、レーザーの飛んできた、緑色に輝く塔のほうへ首を向けた。

 目のいいクリルには、はっきり見えた。

 そこから小さく張り出たテラスから、一人の女性がこちらを見下ろしていた。

 その女性の前腕からは、刀の柄ほどの太さの砲塔がついており、それがこちらに向いていた。

 ツチグモのものとは違い、可視色のついたレーザーを放つ武器。

 クリルも、気絶しているファノンも、この武器を腕に内蔵した女性を知っていた。

 500年前の第三次世界大戦をただ一人で渡り切り、永遠の命を手にして、この地上で神を自称するようになった女。

 エノハである。

「あいつの力は、借りたくなかったんだけどな……」

 クリルはファノンを、膝の上に抱きあげた。

 小さくうなだれて瞳を閉じるファノンは、その前髪の陰から、赤い幕をおろすように、大量の血をこぼしていた。

「ファノン……あなたは死なせない。守ってみせるからね」

 山火事の様相となった森の中でクリルは、気絶したファノンをしばらく見つめてから、つぶやいた。

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