66.次元逃避

 ホログラフィックとは、空気中に立体映像を投影することで、情報を閲覧えつらんおよび制御する技術のことであるが、そもそもの提唱は古く、1948年、ガボールという人物から始まる。

 ホログラフィックの前身であるホログラムは、ギリシャ語で「完全な」を意味するホロスと、メッセージを意味する「グラム」が重なって生まれた。

 そこから写真技術「フォトグラフィック」とつなげられ、ホログラフィックという単語が誕生したのである。

 1960年代にはミシガン大学、続いてマサチューセッツ工科大学などで研究がおこなわれていたのが、映画などに登場したことで、一躍メジャーな存在となる。

 フォーハードの左手首には、その技術をもちいた『リスト・ディシプリン』なる、最大14インチのホログラフィックを発生させる腕時計が巻かれていた。

 フォーハードはこれまで、そこから露光するホログラフィ型キーボードを叩くことで、ツチグモやアジンに命令を下していたのだが……そのディスプレイに映る、ツチグモの泥まみれの視界が、にわかにノイズに支配されたのである。

 かわりに、フォーハードの腕時計から、赤い糸のような光の直線が現れた。

 その『運命の赤い糸』は、まっすぐダイヤモンド中央広場に伸びていた。

 そう、ツチグモの後頭部に向けて、である。

 そして当然、そのかたわらには、ファノンがフォーハードのほうをにらんで立っていた。

「……!」

 フォーハードは息を詰まらせながらも、すぐにその現象の意味を悟っていた。

 リスト・ディシプリンが用いる電波の波長は、通信衛星が使うものと同じ、2.5センチ。3万キロ上空からでも情報の伝達が可能な波長である。

 その2.5センチの波長を、ファノンは人間が視認できる700ナノメートルの光へ変えたのである。

 700ナノメートルと言えば、可視光でいえば、赤い光だ。

「ロナリオ」

 フォーハードは、身体の弛緩しかんしたまま藍色のサファイア屋根に寝そべるロナリオを見つめた。

「フォーハード……あなたは」

 ロナリオはゆいいつ関節の生きている首をもたげて、フォーハードを見つめ返した。

「すまんなロナリオ。ずっと、お前を拉致らちし続けたかったんだが、予定変更だ」

 フォーハードはそう言い残すと、意識を短く集中させた。

 フォーハードの見る景色に、ダイヤモンド中央広場と、緑に覆われた遺跡のふたつが重なる。

 だがその遺跡はフォーハードからは俯瞰ふかん的、つまり、見下ろすような景色として写っていた。

 地面から、かなり離れた位置ということだ。

 そこへそのまま飛べば、かなり派手に地面に身体を叩きつけることになるだろう。

 とはいえ、強大な何かが迫っていると直感しているフォーハードに、その位置ずれを修正する余裕はなかった。

 ここに残れば確実に死ぬが、行けばもしかしたら死なないかもしれないのだ。

 この選択を悩むフォーハードではなかった。

 フォーハードが力をこめた瞬間、フォーハードの五体は瞬時にして、その木々に侵食された遺跡のほうへ移動していた。

 どっちつかずだった景色が、木々に絡みつかれた廃墟のほうに収まった。

 だが、そこへ着いたとたん、フォーハードは強い無重力感に引かれた。

 もう一度、瞬間移動を試みようとしたフォーハードだったが、それは間に合わなかった。

 フォーハードの身体は少しの間ののち、接地したが……ただしそこは、海面だった。

 着水した瞬間、視界満面の泡と、ゴボゴボとやかましい水音が、フォーハードの鼓膜こまくを揺する。

「……っ」

 フォーハードはなかば混乱しながら、手足をばたつかせ、落ちる前に見えていた、目の前にあるはずの、こけとノリだらけの宝石塔へ向かった。

 フォーハードは泳げないのである。

 だが必死になれば、とりあえず不恰好ぶかっこうではあるものの、前に進む。

 かなり時間を使って、そして無用に海水を肺に飲み込んで、フォーハードは数メートルしか離れていない宝石塔に、指を触れることができた。

 フォーハードにとって幸運だったのは、そして世界にとって不運だったのは、宝石塔のはりがちょうど、海面の高さだったことだった。

 おかげでフォーハードは、魔王とさげすまれる人物とは思えないほど無様にもがきながらも、その宝石塔を抱きしめることができたのである。

「ぶはっ! げほっ、ゲほぉっ!」

 フォーハードはその五体を宝石塔の上にもちあげると、茶色く変色した支柱に背中をあずけ、ひとしきりせきを繰り返して、肺を浸した海水を吐き出した。

「くッ、くっそ……ファノンのやつ……」

 悪態をつきながらも、フォーハードはしばらく、肺の中身を裏返したような痛みに苦しみながら、咳を続けた。

「ハァっ……はぁ……っ」

 やがて咳はやみ、やっとフォーハードは冷静さを取り戻していった。

 数刻ぶりに吸い込む酸素を、なんども身体の中にありがたく飲み込んでから、顔をあげる。

 その瞬間、フォーハードはここがどこなのか、すぐにわかった。

 まず、おのれがへばりつく宝石塔。

 あたかも地面からつねりあげたかのように、四つ足を踏ん張った、おそらくダイヤモンドでできた塔(おそらく、というのは、ほぼ全体を苔とノリが覆っていて、ほんらいの塔の肌が見えないからだ)。

 北西のほうには、整列するように建築物の高さを統一した、種々の宝石で作られた放射街路と、ごつい凱旋がいせん門。

 フォーハードがいるのは(水没しかけてはいるが)、シャン・ド・マルス公園――フランスの首都パリだった。

 そしてフォーハードに助け舟を出したダイヤモンドの塔は……エッフェル塔。

 海からかなり離れた位置にあるパリだが、ここがみごとに海辺の遺跡になっている理由のひとつは、旧代の人々が幾度となく歌詞にしたため、恋文に混ぜ、たたえてきた悠久の川、セーヌ川のためである。

 かつてフォーハードが南極を水爆で破砕したあの日、世界を巨大洪水が襲い、かつ、水位の上昇によって、文明に破滅と混乱が巻き起こった。

 地球の海岸……つまり砂浜はこの一撃ですべて海へ溶けだしたわけだが、ほかに水位の上昇をはげしく味わった場所があった。

 河川である。

 川はそもそも、水が低いところへ集おうとして形成された場所。

 その低いところを、海の水がかけのぼり、周囲の都市や街を襲ったのである。

 パリもまた、美しくたゆたうセーヌのほとりの建築物が、みな海水にこそぎとられていったわけだ。

 皮肉なことに、ほぼすべてが宝石になっているからこそ、パリの街はパリの街をとどめたまま、こうして判別できているわけだ。

 世界中のあらゆる建築物は、ほとんどがこうして宝石化しているのである……。

「……」

 フォーハードはそこで、わずかな違和感をおぼえて、みずからの左手首に巻かれている、リスト・ディシプリンを見た。

 そのリスト・ディシプリンは、まるでヨーグルトをスプーンでほじくったように、丸くえぐれて内部の基盤をさらしていた。

 おそらく、ファノンのヘリウム化攻撃によるものだろう。

 もう一息、タイミングを遅れさせれば、フォーハードの身体がこのようになっていたはずだ。

「……あいつ、すでに何倍も俺より強くなってるな」

 フォーハードはそこで、パリの跡形あとかたを見据えつつ、あごに手を添えた。

 ――もはや、ファノンに近づいて挑発することは諦めたほうがよさそうだ。

 ――今回は運良く逃げられただけだからな。

 ――だが、こうなることは予測していたから、しっかり種まきはしておいた。

 ――たしか、名前はノトだったか。

 そこでフォーハードは、すっと顔をあげて空を眺めた。

「あとのことは頼んだぞ。俺だけの英雄さま」

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