10.AURA

「エノハを……セントデルタの旧習を、終わらせたい」

 無人家屋でまだ討議を続けていたクリルが、リッカに決意を込めて伝えた。

「……またその話?」

 リッカは自分の指定席である、放棄されたダイヤモンドのテーブルに腰をついたまま、顔をしかめた。

「何度でも話す。人々からの信頼と、決断力。あなたなら、エノハを越えることができる」

「あたしに、セントデルタの神になれって? あたしゃー大好きなエノハ様にクーデターなんてゴメンだよ」

「あなたなら、絶対に理想の世界を築けるよ」

 腰かけるリッカに向かって、クリルは立ったまま話した。

「あのさぁ、クリル。いちおうこれ、不敬罪もしくは転覆罪だよ?」

 この話をされるたびにリッカは困った。

 この場合、自警団長としてのリッカには、やるべきことは明らかだ。

 その場でクリルを斬り捨てることは、自警団長に許された特権である。

 だがリッカ自身は、まだ話を聞く姿勢をくずすつもりはなかった。

「エノハ様はそりゃもう、立派にこのセントデルタを取り仕切ってらっしゃる。公平さ、公正さ、柔軟さ、寛大さ、どれをとっても、歴代の為政者なんて比肩することはできんじゃん。なんで……」

「人工的に制限された二十年の寿命と、エノハ独自の世界観でこしらえた闇宗教。科学技術開発の禁止。これだけ押さえつけられた世界を、他のみんなのように、エノハの言葉に誘われるまま、理想の世界だ、素晴らしいユートピアだ、とは、あたしには唱えられない」

 エノハは白人・黒人・黄色人種の統合によって人種差別を消滅させたほか、もうひとつ世界中からなくしたものがある。

 宗教である。

 エノハにとって、文明の保護がゆきとどいてしまえば、セントデルタ人に数多あまたの宗教を学ぶ自由を与えるメリットはなかった。

 それがまた人をへだてる可能性があると、エノハは決めつけたからだ。

 だが、死んだ人間がどこへ向かうかという、かつての全ての宗教がカバーしていたことは、エノハも説明できる必要があった。

 とはいえエノハ自身は完全な無神論者。

 自分が何も信じていないのに、戦前の特定の宗教をピックアップして、他人にこれはいいものだと勧めることはできなかった。

 そこでエノハが注目したのが、当時研究されていた、ダークマター
ダークエネルギーだった。

 ダークマターもダークエネルギーも、見ることも、さわることも、感じることもできない物質だが、確実に存在する、と理論で予言されているものだ。

 その理論によると、この世にある、鉄や土や人、空気など、見たり触ったりできる物質は4パーセントに過ぎないという。

 残りの96パーセントは、このダークマター、ダークエネルギーだというのだ。

 神も闇も、不可知のものというくくりでは同じではないか、ということで、エノハは人間にこれを信奉させようと決めたらしい。

 他にも理由はあるが、エノハはこの闇こそが、万物の根源だと主張したのである。

「だいたい、宗教が生まれる理由を考えたら、とてもじゃないけど闇宗教ひとつだけで足りるとは思えない。過去の宗教はみな、その土地や気候にあう必要があって生まれたんだもの。厳しい気候の土地にはきびしい神を奉る宗教が。

 たとえばユダヤ教の神だけど、それはきびしい雷の神選ばれていた。その神は自分のえらんだ民に、仕打ちに近いほどの試練を与えた。四季折々の環境からは、
八百万やおよろずの神の信仰が生まれ、いろんなものに神が宿るという考えの宗教があらわれた。
豊かな環境には豊かな神が。きびしい環境にはきびしい神が現れるの。

 イスラムも道徳規範を宗教を通して教えるだけじゃなく、民衆が食あたりを起こさないようにする生活への配慮まであった。豚を食べてはいけないってのは、食あたり防止にじっさい役立っていた」

「あたしにゃー闇宗教がいいか悪いか、考えてもよーわからん。だってエノハ様好きだし。それじゃ、いけないの?」

「あたしだって別に、エノハが憎くて、あなたに神になれとそそのかしてるわけじゃないよ。あいつのやってることが問題だって言ってるわけ」

「だったら言えばいいじゃん。エノハ様、あたし二十歳で死ぬのはイヤです、宗教も自由に学びたい、人種もたくさんいたほうが、違いを楽しめますって」

「人種の話は、さっきあたしが面と向かってエノハと話してたでしょ。聞く耳持たなかったじゃない」

「だからエノハ様を引きずり下ろすって、なんか暗くない?」

 リッカのハッキリとした指摘に、クリルはつい笑ってしまった。

 ここまで直接的に忠告してくれる人間とは、ありがたいものだ。

 友人とは、自分のやることに何でもかんでもイエスと答える人間のことではない、とつくづく思う。

 いい友人だと、クリルはうれしく感じていた。

 エノハは人々の統治者にしかなれないが、リッカならば、人々の友人になれる。

 だからこそ、リッカには味方でいて欲しいし、エノハ以上の統治者になれると信じているのだ。

「お願いだよ。あなたが一言、エノハに言えばいいの。人間の統治は人間にしかできない、と。そうすれば、聞く耳は持たないけど、意見はちゃんと覚えておくエノハのこと。やがて少しずつ権利を人間たちにゆずりながら、最後には退位して、あなたを次の神にしてくれる。あの塔には、人の寿命を無限にする装置が眠ってるはずだし」

「そんなん、わかんないよ……あたし、神様なんてやりたくない」

 リッカは磨いた黒曜石のような綺麗な黒目を、涙でうるませた。

 それはクリルと、弟のノトにしか見せない表情だ。

 リッカは自警団長という堅苦しいポジションではあるが、ほんとうは暴力が嫌いで、人前で話すのも苦手で、服を選ぶのにも迷い、食後のデザートを何にするかも即決できない女性なのだ。

 なぜ自分が自警団長になったのか、本心では、いまでも呪わしく思っているはずだ。

 ほんらい彼女がなりたかったのは、看護師だったのだから。

「あたし、なりたいこと、やりたいことも満足にできずに死んでいく、いまの世の中は間違いだと思う」

 クリルはめそめそしているリッカにむけ、話し始めた。

「エノハがいなければ、少なくとも、あなたを戸惑わせることもなかったから。でも、そうして苦しむことを知るあなただから、あたしはあなたに神になってほしい」

 そうクリルは自分の信念を、涙で喉が詰まるリッカにむけ、正面から伝えた。

 リッカは答えない。

 クリルはそれでも、ひとかけらの満足を抱いて、リッカの前から立ち去ろうとした、そのときだった。

 後ろから、誰かが全速力で近づく足音がした。

 振り返ると、ノトが鬼神の形相ぎょうそうで走るのが見えた。

「クリルゥゥ!」

 ノトの手には、アメジストの果物ナイフ。

 それを逆手さかてにもって、ノトはクリルに振りかぶったが――ノトにできたのは、そこまでだった。

 背後でぐずついていたリッカが、自警団長としての才能を振るったのだ。

 リッカはノトの果物ナイフをもっていた手を掴み、そのまま一本背負いにかけ、ノトを土間に叩きつけていた。

 柔道に心得のないノトは、受け身も取れずに、もろに内臓をいため、体を丸めて悶えることになった。

「う……お……あ……」

 ナイフをほうって、ノトはあたかも土中の幼虫のように、背中を丸めて腹をかかえた。

「ノト! なんてことを! あんた、いつも自警団を気取って私闘はしないって言ってたじゃん!」

「お、俺は自警団員じゃあない、だからその理屈には、当てはまらないのです……」

 ノトは苦しまぎれに、眼上のリッカに吐いた。

「私刑は重罪よ。あたしにゃ、これをエノハ様に報せる義務があるし、その場で罰を独断で決定したり……執行する権利もある。あ、あんたを殺すことだって、できるんだから……」

 そこでまたリッカは口を覆い、涙にむせた。

「そ、その女は危険です。エノハ様に意見するなど、しもべたるセントデルタ人にあるまじき行為。死人に口無しを実行して、何が悪い……」

「ふうん……」

 ノトにまるで重罪人のような誹謗(ひぼう)をぶつけられるクリルだが、クリルのほうに、とくに意に介した顔色はなく、ノトのそばに寝そべるアメジストのナイフを拾って、まじまじ眺めていた。

「それに、触るな……この悪党め」

「いいナイフだね、刺されちゃ困るから、もらっていい? リッカ」

「うん、そっちで確保しといて。あたしの家に置いとくとまた取られるだろうし」

「ねえさままで……なぜ、その悪党に甘いのです。そいつはセントデルタに破滅の思想をばらまく。生かすべきではありません」

 少し内臓の痛みが和らいだのだろう、ノトは横たわったまま、饒舌じょうぜつに抗議する。

 どうやら、この言葉の内容から、ノトはいまのクリルたちの会話を聞いて、飛びかかってきたわけではないと、クリルもリッカも心の中で、安堵あんどのため息をついた。

 だが次にノトが語る内容には、さすがのクリルも耳を向けざるを得なかった。

「ファノンともども、死ぬべきだ……あんな化け物を育てたその女にはこの世からの帰命きみょうで責任をとってもらうべきです」

「化け物って?」

 それまでノトの讒言ざんげんを、流水をながめるように軽く聞き流していたクリルが、初めて反応した。

「あの男、俺を焼き殺そうとした。奴には人を殺す力などないと、お前は人々にそう確約しはずなのに、だ」

「ナニ、夢みたいなこと言ってんのよ。それに殺人未遂なら、あんたもいまクリルにやろうとしてた。申し開きをエノハ様の前でやってもらうからね」

 リッカは自分の弟が殺人未遂を働いたことがショックだったが、なんとか自警団としての職分を口に表した。

「望むところです……エノハ様に会えれば、あの危険な男を殺してもらえるよう、掛け合える」

 姉リッカに二の腕を抱えられて、ノトはよろよろ起き上がった。

「クリル、あたし、この子をエノハ様のところに引っ立てるから、後はよろしく。ファノンこと……また話そう」

「うん……」

 クリルもやはり、今の話が信じられずに生返事を返すのみで、視線はリッカを見ていなかった。

 ファノンの力がセントデルタで顕現けんげんしないよう尽力じんりょくする。

 それなのに、さっそくセントデルタの中で、よりにもよって『ファノンに暴走させない』と誓ったばかりのリッカの弟に、その力が振るわれたのである。

 ──ファノン……約束したじゃない。あの力は使わないって……一体、何があったの。

 クリルは、止めがたい波乱を予感していた。

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