101.未開の森で

 クリルの持つアメジストナイフの刀身が、いっさいの手加減もなく、渾身こんしんの力でリッカの目玉に叩き込まれたあとのこと。

「アァァーーっ!!!」

 リッカはもだえ声を上げながら、そのままフラフラとうしろずさった。

「あたしの……目が……腕が……ク、クリル…………あんた……!!」

 リッカは大量の血涙をこぼす左目を抑えながら、憎しみにあふれた片目で、クリルをにらんだ。

 ――本来は致死の一撃。

 じっさいクリルも、脳に刺さる突きかたをしたはずだった。

 だが、天性の反応速度で、リッカは目に刺さるナイフをかろうじて、身をよじることで、脳に向かう角度から反らしたのだった。

「…………っ」

 クリルは黙したまま、地面に落ちた槍をひろい、ふたたび下段に構えた。

 勝敗は明らかだった。

 クリルのほうは、右手に穴を開けられはしたものの、それでも槍を握り続けることができるのに対して、リッカのほうは右腕を激しい裂傷にさいなまれ、なおかつ左目も潰されている。

 リッカにはもはや、満足に戦える戦法は残っていない。

 このまま戦えば、よほどのことがない限り、クリルが負けることはないだろう。

 それにもかかわらず、クリルもリッカも、戦いをやめる素振りを見せない。

 それに危機感をおぼえたのは、傍観ぼうかんしていたファノンだった。

「クリル! リッカも!」

 ファノンは声を限りにさけんだ。

「勝負は終わった、もう、ここからは話し合いでいいだろ。お互い、武器をおろすんだ」

「勝負……?」

 クリルはリッカをにらむまま、ファノンに返した。

「これは勝負じゃないわ。殺し合いだよ。リッカには、ここで失踪しっそうをしてもらわないと、あなたを守れない」

 リッカはかなりの出血のためか、それとも、親友からの冷たい言葉のためか、青ざめた表情で、状況を見守っていた。

「なあ、クリル」

「なに、ファノン」

 クリルは氷のように固い表情で返事をする。

「俺……やっぱり村を出るよ」

「何を言ってるの、ファノン?!」

 クリルはにわかに、眉をひそめながらファノンに振り向いた。

「あたしが何のために、こんなことをやってると……」

「決めたんだ。たとえここでリッカを殺して、全部の証拠を隠滅してセントデルタで安心を得たとしても、俺は嬉しくないんだ。善人の死の上でしか、安全が得られないなんて、間違ってる」

「あなたを本気で殺そうとしてる人間よ? それをつかまえて、善人などと呼ぶの?」

「善人なら人を殺さないって理由を、逆に聞きたいよ。フォーハードが生まれるはるか以前から、人間世界は破壊と殺戮と、そしてそれに負けないくらいの生産と調和が繰り返されてきた。

 殺せば笑い、盗めば誇り、だませば喜ぶ人間のことを悪人と呼ぶが、そんな奴は一握りだ。この世は悪人よりも、はるかに善人のほうが多いんだよ。ふとしたきっかけで、それまでは生産と調和に一生懸命だった奴が、破壊と殺戮を始めて、たくさんの人に不幸をばらまいたんだ。それはだいたい、何か大きなひと押しか、小さなひと押しの連続があったからだ」

「あっそう。それで……そのひと押しのために暴れだしたに過ぎない善人って生き物のために、あなたは人権を放棄して、セントデルタを出るって言うの?」

「俺のために、好きな人たちが殺し合いをするなんて、耐えられないんだ」

「……」

「………っ」

 ファノンの説明に、クリルとリッカは黙りこくった。

 この言葉で、あきらかに、クリルとリッカの熱は下がったのである。

 これはいままで、ファノンにはできなかったことだった。

 この二人の頑固者の意見をくじくだけの精神を、ファノンはすでに、心に根ざしていたのである。

「長いこと、放射線だらけの村の外で暮らした奴もいる。だから、俺は大丈夫さ……」

「あなた……本気なの? そんなところで、死ぬまで一人で過ごすって言ってるのよ?」

「覚悟なんかできてない。それでも、これが一番、俺の生き方にちなんだやりかたなんだ。自分の心の核から目をそらしてしまえば、いくら金をもうけても、いくら安全に包まれようとも、いくら友達がそばにいても、クリルやメイや……ゴンゲン親方やモンモさんがいつも通りに接してくれても……俺の心は少しずつ朽ちていく。俺は俺の生き方にだけは、背を向けたくはないんだ。俺は、選んだんだよ」

「ファノン……」

 クリルは黙ったまま、ファノンの決意のほどを見極めようとするかのように、じっとファノンを見つめていた。

 だが少しして、クリルはフゥっとため息をついてから、続ける。

 その時のクリルの表情はもう、いつも家で見る、間延まのびしたものに戻っていた。

「そこまで言うなら……でも、ひとつ、条件があるわ」

 クリルはリッカと戦っていたことなど、忘れてしまったかのように、槍を下ろし、ファノンに差し向かった。

「何だよ」

「――あたしも、そこに行くわ」

「な……正気か、クリル」

「当たり前でしょ。あたし、あなたのお姉ちゃんなんだから。あなたが一人で誰とも話さずに暮らして、うつ病にでもなられたら困るしね。

 あなたが心を病めば、セントデルタはいつ壊れてもおかしくないの。これは、あなたのためだよ」

「クリル……」

「決まりだね、じゃ、あたしたちはこのまま出てくから。あとはよろしくね、リッカ」

 クリルが、呆然ぼうぜんとするリッカに話しかけたところで、だった。

 茂みの中から、バサっと、大きな音がしたのである。

「! ――誰かいるの!?」

 クリルがそちらに注意を向けたところの、茂みが大きく盛り上がり始めた。

 そこからは背の小さな男――ノトが、弓の弦を引きながら、立ち上がったのである。

 弓の弦には、いつでも放てる一本の矢。

 それが、まっすぐ、ファノンに向けられていた。

 だが、ノトの表情は、焦りに満ちていた。

 まるで、今自分の存在が明るみになったことが、心底信じられないように。

「くそっ、なぜだっ、くそっ……くそっ……! くそォォーーーっ!」

 ノトは醜くわめきながら、引きしぼった矢を、ファノンに向けて射った。

 ファノンは目まぐるしく始まったこの状況に耐えられず、完全に五体を固めてしまっていた。

「! ファノン!!」

 そのファノンを守るため、クリルが射線に割り込む。

 動体視力のすぐれたクリルは、左腕を捧げるようにして、その矢を受け止めた……。

 その瞬間、すぐにクリルは、自身の体に異常が始まったことをさとるのだった――

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