103.帰れぬ者

 地底から、まるで大量の車輪を引き回すような地鳴りが聞こえるとともに、大地がせわしなく痙攣けいれんを始めた。

 その地震により木々がざわめくが、興奮しきっているノトは、そんなものに注意を向けはしなかった。

 いや、ここにいる4人はみな、地震には気がついていたが、それどころではなかったのだ。

「ク、クリル……?」

 ファノンは、何か様子の違うクリルに、よたよたと歩み寄っていった。

「ファ、ファノン……無事……?」

 クリルは笑おうとしたつもりのようだが、じっさいは青ざめた顔をファノンに向けるだけだった。

 それもすぐに耐えられなくなって、クリルはファノンに向けて寄れかかってきた。

「ど、どうしたんだ、クリル……おい……おいっ」

 ファノンはクリルを抱きしめるが、みずからの顔のそばにあるクリルの表情から、みるみる力と生気が失われているのに気づいた。

「毒……毒を塗ってたのか。なんてことを……なぜ……なぜ、こんなことを……」

 ファノンはたまらず、クリルを抱きすくめたまま、脱力したように地面にへたりこんだ。

「くそっ! 同居人め!! 邪魔をするな!」

 後戻りできないと踏んだのだろう、ノトはおぼつかない手で、絡む茂みを引きちぎりながら、ファノンたちに近づき、ふたたび弓に矢をあてがった。

 だがそのとき、不感症なノトにさえ、一目にわかる異変が、ファノンの五体を取り囲んでいることに気づいた。

 ファノンの周囲から、黒い霧かモヤのようなものが、まるで景色を塗りつぶすようにあふれ出していたのである。

「……ば、化け物っ!! この、ば、化け物ォォーっ!」

 ノトは発狂したように、狙いもろくに定めず、弓を引いては矢を放った。

 矢はほとんどファノンとクリルに当たらなかったが、当たったものも、すぐにその黒いモヤに包まれ、消滅していった。

 しかしファノンのほうは、そんなノトの攻撃も迫害も、まったく頭にも入らず、ひたすらクリルだけに意識をあてがっていた。

「クリル……ウソだろ……? クリル…………」

「ファ……ノ……」

 クリルの呼吸はみるみる荒れ、そして、みるみる不規則になっていく。

 トリカブトを致死量に盛られた人間の余命は、1分。

 トリカブト毒を受けた者は、速やかにその傷をえぐりとれば、まだ生きる目はあったかもしれないが、日常的に毒矢を用いる文化で生きていないファノンはもちろん、毒矢を放ったノトでさえ、そんな処置をとっさに思いつくことなど、できるはずがなかった。

 命のリズムが失われる過程が、始まっていた。

 息のできない苦しみが、クリルの思考をむしばんでいた。

 ――ファノンに言い残したいことは山ほどある。

 それなのに、伝えたかったことも、見せたかったものも、クリルにはもう、語る気力も時間も……考える余力もない。

 クリルの心を支配するのは、苦しみと、恐怖だけ。

「ファノ…………やだ……」

 結局、クリルから出た言葉は、命いに似たものだった。

 クリルとしても、セントデルタの人間として、死ぬ覚悟はしていたつもりだった。

 死の間際まぎわには、何か立派な辞世の句のひとつやふたつ、読めるものと思っていたが……じっさいは、毒による呼吸不全。

 これでは、何か言葉を残せるはずはなかった。

 クリルは血まみれの右手を、震えさせながらファノンに伸ばした。

「クリル……うそだ、うそだ、なあ、ダメだ、死ぬな」

 ファノンはクリルの手を強くつかみ返した。

「死なないでくれ……死んじゃダメだ、俺、まだお前に話してないことがいっぱい……」

 目の前に起こるできごとを否定するように、ファノンは泣きながら首を振る。

「ファ……ノン……」

「なんだ、クリル、なんだ」

「強く…………い……」

 クリルは震える唇で、最後に、やっとのことでそれを口に出した。

 ファノンは小さくうなずいて、クリルの瞳をのぞきこんだ。

 そして、気づいた。

 ――クリルがもう、ファノンを見つめていない、ということに。

「……っ」

 クリルの横顔に、ファノンは、あたかもその体温を分け与えるかのように、自らの頬をあてた。

 その次の瞬間だった。

 そばで見ていたリッカとノトは……いや、この二人だけでなく、離れていたメイやアエフ、モエクたちのような、セントデルタにいる人々や、森の鳥獣ちょうじゅうや海の魚介ぎょかいのみならず、宇宙に浮かぶ1000億の銀河すべての生命が同時に、あきらかな変化を感じ取っていた。

 まず、星から、光が失われ始めたのだ――

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