105.弟殺し

 目の前にいるファノンから、憎しみと悲しみと……おそらく祈りによるむせび声が上がっていた。

 力なくうなだれるクリルを抱きしめて、空を仰ぎながら叫ぶファノンの姿は、みずからの身体からあふれる、黒くかすんだモヤによって、ほとんど視認できなくなっていた。

 地震は、さらに激しさを増していた。

 空に掲げられている太陽も、薄雲でもかかったかのように、少しずつ明度を落としていく。

「時空も歪んでるの……? これは……ファノン!」

 我に返ったリッカが、黒いモヤをみるみる極大化させていくファノンを見つめて言った。

「ヒッ……ヒィっ! 逃げっ……逃げなくてはっ……くそっ、くそっ…………何なのだ、これは。これは一体……これは……」

 冷静に現状を観察する姉とは裏腹に、弟はかんぜんにパニックになって、地震のために小刻みに浮かびかける身体を潅木かんぼくにしがみつかせていた。

 ――いま、すべての生命は、直感していた。

 まもなく宇宙が終わる、ということを。

「……」

 リッカは少しばかり思案をめぐらせていたが、それがまとまったのか、自分がつかんでいたケヤキの木の枝を離し、ファノンのもとへ、大地のうめきに五体を弾かれそうになりながらも、何とか這い寄っていった。

「姉さま、何を! その黒いモヤに近づけば死にます! そいつには矢も効かなかった!」

「クリルの身体を見てごらん。何ともなってなさそう。きっと大丈夫」

「し、しかし……」

「あたしは行くよ。たぶん、ここらへんに安全な場所はないんだから、やってみる価値はあるよ」

「ちっ、知らんぞ……勝手にしろ……!」

 ノトはさっさと、危機に身を投じる姉に見切りをつけて、背を返した。

「……ねえ、ノト、協力してくれないの? これはあたしたちが招いたことなんよ?」

「知らんよ、たしかに引き金は俺のものだが、力はそいつ自身のものだ。俺は関係ない」

「あんたは……このにおよんで自分本位なんだね」

「当たり前だろう、俺は自警団員でも自警団長でもない。この場の鎮圧は、あんたの仕事だろうが。命をかける義務は、あんたにはあるが、俺にはない」

「……っ!」

 あまりにも無責任な保身論。

 ノトのその言動が、今までノトを見逃してきたリッカへの、最後のひと押しとなった。

 リッカは何かを決意したように、強い視線を弟に放ったのである。

 それは、いままで一度たりとも、ノトに向けたことのない、殺意のこもったまなざしだった。

「それが、あんたの本心? やっと、その言葉を聞けた気がするよ」

 リッカは左手で、胸元の牛皮シースに残るアメジストの投げナイフを指につまむと、ノトに向けて構えた。

「な、なんだ……おい……何のつもりだ……」

「ノト、あんたを聖絶する」

「お、おい……冗談だろう、おい……!」

 ノトはこの場から走り去ろうと背を向けようとしたが……それはできなかった。

 どうやら重力もファノンの力によって死に始めているらしく、ノトもリッカも、その身体を浮遊させ始めていた。

 つまり、ノトはいま、逃げるどころか、地面に足さえついていなかったのである。

「もとより、私刑を犯したあんたを、捨て置くわけにはいかない。ファノンの心のためにも、あんたが生きてるわけにもいかないんよ……わかるでしょ? あんたが生きていれば、ファノンはあんたを憎む。そうなればいつ地球が壊れてもおかしくないんだから……」

「くそ、だからどうした! 死ぬべきは奴とクリルだ! 俺が死んでたまるか!!」

 ノトは自分が背負う矢筒から、最後の矢を引っ張り出すと、リッカに狙いを定めた。

 だが、相手が悪すぎた。

 満身創痍まんしんそういとはいえ、リッカは歴代最強の自警団長。

 とっくにナイフを投げられる準備を終えていたリッカは、わずかな精神統一ののち、ナイフをノトに向けて、飛ばしていた。

 ナイフは空気をかち割りながら、ノトの首にトンっ、と音を立ててめり込んでいった。

「かっ…………ごぽっ………………」

 ノトは浮き上がりながら、両足でぶざまに宙空をばたつかせ、あたかも石鹸の泡を浴びたゴキブリのように、びくびくと痙攣けいれんしてから、動きを止めた。

「許して、ノト……すぐにあたしも、そっちに行くから……」

 リッカは厳しい表情のまま、きびすを返し、ファノンのほうへ進みだした――

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