106.クリル

 リッカは浮かびそうになる身体を、月面を歩くアポロ13号の宇宙飛行士のように、慎重に跳ねるようにして、なんとか大地にいつけながら、ファノンのそばまでやってきた。

「ファノン……ファノン……聞いて」

 リッカは片膝をついて、もはや顔の見えなくなったファノンに語りかけた。

「リッカ……!」

 ファノンからとは思えない、怒り狂った低い怒声が闇の中から聞こえたと思うと、つぎにはファノンの手が、リッカの傷ついた右腕をつかんでいた。

 もともとクリルに切り刻まれていたリッカの右腕は、それにより激しい痛みをリッカの脳髄の中にほとばしらせた。

 筆舌に尽くしがたい激痛がリッカの五体を走り回るが、リッカはそれをなんとか悲鳴を押し殺しながら、ファノンのいるであろう闇の中を見つめ返した。

「なぜクリルを殺した! お前だけは殺す! 八つ裂きにする! ノトもだ!」

 今までリッカが浴びたことのない、憎悪の視線が、得体の知れない闇のモヤの向こうから浴びせられていることに、内心リッカは萎縮いしゅくしきっていた。

 だがそれでも、ひとつのちっぽけな使命感だけが、かろうじてリッカに威厳いげんを保たせていた。

「ノトはいま、あたしが殺したよ……あとはあたしだけよ。ファノン……苦しいのなら、それはあたしがここにあんたを呼んだせい。悲しいのなら、この事態をまねいたあたしのせい。

 あんた……クリルのこと、好きだったもんね」

「! ……そこまでわかりながら、俺の目の前でクリルを殺したのか! 許さん……許さん!!」

 そうファノンが叫ぶや、リッカの右腕が、音もなく、消滅した。

「ウァ…………っ!」

 吐きそうになるほどの痛みが、リッカの身体を駆けずり回ってくる。

 失った腕に血液を送ろうとするように、ボタボタと、骨や神経ののぞける右腕の中から、血がこぼれ落ちてくる。

 意識も……いや、生命さえ飛びそうになるが、それでもリッカは踏ん張るしかなかった。

 脂汗を顔から噴き出し、青ざめながらも、リッカは、ファノンのこもる闇を見つめることをやめなかったのである。

 次にはファノンの手のひらが、リッカの首にかかってきた。

「お前だけは、謝っても許さない」

「……そう、あたしは死ぬべき人間。あんたの怒りも悲しみも、あたしだけにぶつけるもの……でも」

 そこでリッカは、残った左手をファノンの腕に添えてから、続けた。

「でも、この世界は無実。あんたの力がどうなりつつあるのか、あたしにはわからない。だけど、あたしに怒りをぶつければ、たぶんセントデルタが無事じゃなさそうだってのは、想像がつく。

 ――あんたは、それでいいの?

 クリルが守ろうとしたこの世界を……エノハ様がはぐくんできたこの世界を……あんたが壊そうとしてるんだよ?

 メイとか、モンモとか、ゴンゲンとか……あんたの味方も、ここに一杯いるんだよ? それでもいいの?」

 まるで、人質の命を保証しないかのような、一種の卑怯ひきょうな論法だというのは、リッカにも重々わかっていた。

 クリルなら、もっと良い言葉を選べたかもしれない。

 クリルなら、もっとうまくまとめられたかもしれない。

 だがリッカには、この言葉しか、思いつかなかった。

 いくらすがりたくとも、クリルはもはや、この世にいないのである。

「クリルを殺しておいて何を言う……!」

「死ぬのはあたしだけ。メイやモンモじゃない」

「……っ!!」

「自分でもわかってるんでしょう? あんたは……悲しむことも……怒りのままに生きることも許されない人間だと。クリルのために……」

「その名前を、お前がほざくな! お前がっ! ――お前がっ!!」

 発狂しそうな勢いで、ファノンは叫び散らした。

 激怒に荒れるファノンを、リッカは静かな瞳で見つめ返した。

 すでに左眼を失い、右腕も止血さえせずに放置しているため、リッカの唇は紫色になりつつあったが、それでも、リッカはファノンとの会話をあきらめている姿勢は感じさせなかった。

 そのリッカの態度が、ファノンにわずかばかりの理性を取り戻させた。

 ファノンは少しずつではあったが、ゆっくりとリッカの首にかけていた手のひらを離し始めた。

 それとともに、わずかばりだが、ファノンを覆う闇は晴れ、両手でクリルの身体を抱きすくめ、顔をクリルの首すじに当てるファノンが、リッカから見て取れた。

 ファノンの眼は涙で充血し、その身体も、氷水を浴びせられた動物のように、震えていた。

「くっ……く……くそっ……うおおおおおおっ」

 ファノンは咆哮ほうこうをあげながら、さらにクリルの身体を腕の中につつんでいった。

 小さく丸めたファノンの身体からあふれる闇のモヤが、さらに少しずつ薄まってゆく。

 かわりに、こんどはファノンの身体を黄緑色の光が包むようになった。

 いや、包んでいるのではなく、光はどうやら雲間からそそぎこんでいるようだった。

 見たことのない、黄緑の柔らかい光が、ファノンを照らしていたのである。

 どうやら、太陽光自体が、その光を発するようになっていたようだった。

 ――悲しみが抑えられないとき? 怒りが止まらないとき? いい方法があるよ。

 数日前、ファノンがダイニングキッチンで食器を洗いながら、ソファで紅茶を飲んでいるクリルに質問したときのことだった。

 クリルはお気に入りの、アクアマリンのワイングラスに入れたアールグレイ・ティーを飲みながら、そう返したのである。

 ――ホタルの光には熱がないそうだよ。あなたの力が暴走しそうになって、どうしようもなくなったら……太陽の光とかも、全部それにしちゃえばいいんだよ。力が溢れてるのに……拳を振り上げたのに、振り下ろせないってのは、辛いことだもんね。

 ――人間は善人であり続けることはできない。八つ当たりしたいときだってある。

 ――生きていれば、殴りたいときも、壊したいときも、離れたいときもやってくる。

 ――あなただけが、それをやったらいけないのかもしれないけど……そんなの、少なくともあたしには関係ないよ。

 ――だって、家族なんだから。

 ――前にも進めない、うしろにも下がれないとき。

 ――そんな時は、これを思い出して。

 ――少しは、やわらぐはずだからさ……。

 生物発光。

 酸化還元酵素・ホタルルシフェラーゼによって発生する光である。

 ファノンはいま、悲しみのたけのすべてを、無害な光へと変えていた。

 だが、それをする最中にも、次から次へとクリルの思い出がファノンの中に、あたかも秋の枯れ葉のように積み重なっていく。

 無理矢理ファノンに酒を飲ませようとするクリル、木登りを失敗して尻餅をついて、半べそをかくクリル、ファノンが友達とケンカしたときに、一緒に謝りについていくクリル――

 それら無数のできごとが、ファノンの身体じゅうを駆け巡っていた。

「クリル……俺、受け入れられないよ、こんなの……」

 雲間の光の下で、ファノンは涙を飲みながら、眼をつぶるクリルの頬をそっとで続けていた。

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