「イッテテテテ……っ」
ミントの芳香剤の匂いである。
普段であれば、この匂いだけでリッカは身も心も
体調が重症患者そのものだったから……ではない。
たしかに今のリッカには、二の腕と左目に、痛々しいほどの、ブ厚い包帯が巻きついている。
セントデルタ病院から隠れながら抜け出すため、前屈みを保ったり小走りをしたりと、あたかも逃亡者や野盗のような姿勢を続けたせいで、傷口から血が漏れて、包帯はじっとりと赤く染まっていた。
だがリッカを打ちのめしているのは、そんなことではない。
きのう、親友と弟が、闇へ
――きのう、クリルとノトが、死んだのだ。
しかも、そのきっかけを作ったのは、自分なのだ。
リッカはズタズタの心と身体を引きずりながら、ときおり襲う立ちくらみに
普段の5倍は時間をかけて、やっと自室の扉を開けると、まず見えたのは、部屋の
そのほか、窓に沿うようにベッドが置かれているが、シーツやカーテンなど、目につく家財の多くはピンク色で統一されていた。
リッカは普段着でピンクをまとうことはないが、部屋の中だけは、このレイアウトにすることを好んだ。
自警団長の身分をあずかる前は、そういう色をあしらった服装で出掛けたりしていたのだが、やはりセントデルタの戦士となったからには、
が、自室というプライベートな場所だけは、自警団長の論理を締め出しているようだった。
この部屋は、リッカの公私の考え方を
「…………っ」
リッカはしばらくこの部屋を眺めていたが、やがてまた、よろよろと歩き出し、ヒノキのベッドサイドテーブルに近づくと、そこの引き出しを抜き出した。
その引き出しの一番上には、刃渡り20センチはあろうかという、長大な刃物が寝そべっていた。
エメラルドのサバイバルナイフである。
そこでまた、少しリッカは動作を止めたが、やがて、そのナイフを握ると、おそるおそる、切っ先をみずからの
そのままブルブルと小刻みに片手を震わせながら、ナイフを、喉へと近づけていく。
その鋭利なナイフが、リッカの
それは、モンモのものだった。
「なにやってんのよ、リッカ」
モンモが息を乱れさせながら、リッカを問い詰めてきた。
どうやらモンモは先ほどまで往来を走り回っていたらしく、その肩は、せわしなく、上下に動いていた。
「家宅侵入罪だよ、モンモ。それにあたし、今は人と話したい気分じゃないの。わかるでしょ?」
「自殺するのに忙しいって? 家の鍵を開けっぱなしにしてたのは、自分の死体を発見させるためね?」
「……」
「クリルとノトのこと、包み隠さず公開したんだね、リッカ」
「あれを真実だと思うの?」
「あなたに不利なことまでおおっぴらにしてるじゃない。あなたの権限なら、いくらでも真実をねじ曲げられたはずなのに」
森で起こった出来事を、リッカは『ファノンの殺害未遂と、右腕と眼球の喪失の理由』以外のすべてを公表していた。
クリルとの決闘、ノトに暗殺されたクリル、私裁をおこなった
いずれも、リッカにとって
人望あるクリルとの決別、そのクリルを守れなかった自警団長としての才覚のなさ、緑の太陽を防げなかった無能さ、それに……弟殺し。
リッカはファノンの力による『緑の太陽』の真相も、人々に知らしめた。
太陽からの熱がすべて『ファノンの悲しみ』に置き換わったことで、地球の環境は、このまま行けば、おそろしく冷却化される……はずだったが、そこにすぐに気づいたファノンは、すぐに『太陽以外のすべての恒星』にのみ、『緑の太陽』をほどこしたのである。
おそらく、ファノンはこれを今も続けているはずだ。
恒星光のホタルルシフェラーゼ化。
数千億の太陽を、力も温度もなき緑光に変えているのである(宇宙には銀河が1000億個内包されていて、その銀河ひとつには恒星がやはり約1000億あるといわれている。マルチバース理論を信じるなら、宇宙も大小あわせて10の500乗個あるというから、もしかしたらファノンはそれにも干渉しているのかもしれない)。
クリルを殺された悲しみ、その不条理に怒るために生み出される憎しみ。
ファノンは何とか、そのエネルギーを抑え込んでいるのである。
これにより、地球にどのような影響が出るか、誰も想像がつかないが……少なくとも、ファノンの『やつあたり』のおかげで、宇宙は速やかなる消滅をすることだけは、防げているのである。
リッカは今でも、髪の先端までファノン
ただし、ふたたび民意がファノンの殺害や追放を願うときには、リッカはもう動けないだろう。
意見は違えど、生死に
それにただ1人の身内ノト。
この2人を失ったいま、リッカに生きる希望はなかった。
弟とクリルは、自分が殺した。
精算をしなくてはならない……。
――それなのに。
――それなのに……モンモがここに来てくれたことに、すごく安心してる自分がいるのは……どういうことなの?
「そんなことを
「今のヨレヨレのあなたじゃ、子猫にも負けるでしょうね」
モンモがそう喋ったところで、リッカのナイフを、もう一つの手で引ったくった。
もとより戦意も害意もなかったリッカは、たやすくそれをされるに任せた。
「どうすればよかったんよ……あたしは間違ってない……なのに、なんでこんなに苦しいの……」
リッカはそこで脱力し、床にへたりこんだ。
心の内を言葉にしたとたん、急激に目から涙が
身体が震えだし、寒気もやってくる。
――やだよ、何なのよ、この感覚……この気持ち……。
「生きてるからに決まってるでしょ……それって、死んだクリルやノトには、もうできないことだよ」
モンモは奪ったナイフを部屋の隅にポイと投げると、一緒になってしゃがみこみ、リッカの身体を優しく抱きとめた。
それでもリッカから喪失感と孤独感は拭えなかったが……寒気だけは、これでやわらいだ気がした。
「バカなこと、しないでよ」
かすれるような声で、モンモは抱きしめるリッカの耳元へささやいた。
抱き合っているから顔は見えなかったが、モンモもまた、泣いていたのかもしれない。
「モンモ……モンモぉ……うう、あたし………」
抱きすくめられる中で、何かの
モンモの耳元でむせびながら、リッカは一つだけ、わかったことがあった。
――あたしは、誰かに止めて欲しかったんだ。
――誰か、止めてくれる人が来てくれるって、信じたかったんだ。
――友達を殺しても、弟を殺しても、顔も身体もボロボロになっても…………それでも、生きてて良いんだよって言ってくれるのを、待ってたんだ……。
「……次にまた死にたくなったら、まずは私に相談しなさい。ぶん殴ってでも、槍で刺し殺してでも止めるから」
「槍で刺し殺して、自殺を防ぐの……? 防げてないじゃん」
リッカは泣きじゃくるまま、小さく笑い声をだした。
「……たぶん、どっちもしない。おそらく、泣きついて止めようとするからね。でも泣くまで追い詰められるのは疲れるから……私のためにも、強く生きてよね」
「モンモ……」
「飲むよ、リッカ」
そこでモンモは少しばかりリッカから身体を離し、正面から見つめてきた。
やはりモンモの瞳も真っ赤に充血していた。
「大嫌いだったゴミクズのクリルのためじゃない。あんたの弟のためでもない。あんたの生存祝いに。お酒、あるんでしょ」
「へへ…………いま切らしてて、水しかない」
「あー……あんたってバカ。ホントにバカ」