110.なきごえが聞こえる

「イッテテテテ……っ」

 ぎなれた香気が、自宅の扉を開けたとたん、リッカを迎えてきた。

 ミントの芳香剤の匂いである。

 普段であれば、この匂いだけでリッカは身も心も弛緩しかんするのだが、今の気持ちは毛羽立けばだちきったままだった。

 体調が重症患者そのものだったから……ではない。

 たしかに今のリッカには、二の腕と左目に、痛々しいほどの、ブ厚い包帯が巻きついている。

 セントデルタ病院から隠れながら抜け出すため、前屈みを保ったり小走りをしたりと、あたかも逃亡者や野盗のような姿勢を続けたせいで、傷口から血が漏れて、包帯はじっとりと赤く染まっていた。

 だがリッカを打ちのめしているのは、そんなことではない。

 きのう、親友と弟が、闇へ帰命きみょうした。

 ――きのう、クリルとノトが、死んだのだ。

 しかも、そのきっかけを作ったのは、自分なのだ。

 リッカはズタズタの心と身体を引きずりながら、ときおり襲う立ちくらみにわずらわされつつ、壁に身体を預けたりしながら、なんとか自室へ向かう。

 普段の5倍は時間をかけて、やっと自室の扉を開けると、まず見えたのは、部屋の尺度しゃくども踏まえずに買った、大きなソファとヒノキの四脚テーブル。

 そのほか、窓に沿うようにベッドが置かれているが、シーツやカーテンなど、目につく家財の多くはピンク色で統一されていた。

 リッカは普段着でピンクをまとうことはないが、部屋の中だけは、このレイアウトにすることを好んだ。

 自警団長の身分をあずかる前は、そういう色をあしらった服装で出掛けたりしていたのだが、やはりセントデルタの戦士となったからには、格好かっこうも改めなくてはならない……という、真面目なリッカらしい理由で、普段着については茶やウグイス色などのアースカラーを用いるようになっていた。

 が、自室というプライベートな場所だけは、自警団長の論理を締め出しているようだった。

 この部屋は、リッカの公私の考え方を如実にょじつに表していたわけである。

「…………っ」

 リッカはしばらくこの部屋を眺めていたが、やがてまた、よろよろと歩き出し、ヒノキのベッドサイドテーブルに近づくと、そこの引き出しを抜き出した。

 その引き出しの一番上には、刃渡り20センチはあろうかという、長大な刃物が寝そべっていた。

 エメラルドのサバイバルナイフである。

 そこでまた、少しリッカは動作を止めたが、やがて、そのナイフを握ると、おそるおそる、切っ先をみずからののどへと向けていった。

 そのままブルブルと小刻みに片手を震わせながら、ナイフを、喉へと近づけていく。

 その鋭利なナイフが、リッカの頚動脈けいどうみゃくに触れたところで――いきなり、リッカの手首を、横から誰かが、強い握力でつかんだ。

 それは、モンモのものだった。

「なにやってんのよ、リッカ」

 モンモが息を乱れさせながら、リッカを問い詰めてきた。

 どうやらモンモは先ほどまで往来を走り回っていたらしく、その肩は、せわしなく、上下に動いていた。

「家宅侵入罪だよ、モンモ。それにあたし、今は人と話したい気分じゃないの。わかるでしょ?」

「自殺するのに忙しいって? 家の鍵を開けっぱなしにしてたのは、自分の死体を発見させるためね?」

「……」

「クリルとノトのこと、包み隠さず公開したんだね、リッカ」

「あれを真実だと思うの?」

「あなたに不利なことまでおおっぴらにしてるじゃない。あなたの権限なら、いくらでも真実をねじ曲げられたはずなのに」

 森で起こった出来事を、リッカは『ファノンの殺害未遂と、右腕と眼球の喪失の理由』以外のすべてを公表していた。

 クリルとの決闘、ノトに暗殺されたクリル、私裁をおこなった実弟じっていノトの聖絶、そして緑の太陽……。

 いずれも、リッカにとって外聞がいぶんの悪すぎる話だった。

 人望あるクリルとの決別、そのクリルを守れなかった自警団長としての才覚のなさ、緑の太陽を防げなかった無能さ、それに……弟殺し。

 リッカはファノンの力による『緑の太陽』の真相も、人々に知らしめた。

 太陽からの熱がすべて『ファノンの悲しみ』に置き換わったことで、地球の環境は、このまま行けば、おそろしく冷却化される……はずだったが、そこにすぐに気づいたファノンは、すぐに『太陽以外のすべての恒星』にのみ、『緑の太陽』をほどこしたのである。

 おそらく、ファノンはこれを今も続けているはずだ。

 恒星光のホタルルシフェラーゼ化。

 数千億の太陽を、力も温度もなき緑光に変えているのである(宇宙には銀河が1000億個内包されていて、その銀河ひとつには恒星がやはり約1000億あるといわれている。マルチバース理論を信じるなら、宇宙も大小あわせて10の500乗個あるというから、もしかしたらファノンはそれにも干渉しているのかもしれない)。

 クリルを殺された悲しみ、その不条理に怒るために生み出される憎しみ。

 ファノンは何とか、そのエネルギーを抑え込んでいるのである。

 これにより、地球にどのような影響が出るか、誰も想像がつかないが……少なくとも、ファノンの『やつあたり』のおかげで、宇宙は速やかなる消滅をすることだけは、防げているのである。

 リッカは今でも、髪の先端までファノン排斥はいせき者である。

 ただし、ふたたび民意がファノンの殺害や追放を願うときには、リッカはもう動けないだろう。

 意見は違えど、生死にへだたれど、今でも大好きなクリル。

 それにただ1人の身内ノト。

 この2人を失ったいま、リッカに生きる希望はなかった。

 弟とクリルは、自分が殺した。

 精算をしなくてはならない……。

 ――それなのに。

 ――それなのに……モンモがここに来てくれたことに、すごく安心してる自分がいるのは……どういうことなの?

「そんなことをしゃべるために、ウチに上がり込んできたの? モンモ。邪魔しないでよ。聖絶すんよ」

「今のヨレヨレのあなたじゃ、子猫にも負けるでしょうね」

 モンモがそう喋ったところで、リッカのナイフを、もう一つの手で引ったくった。

 もとより戦意も害意もなかったリッカは、たやすくそれをされるに任せた。

「どうすればよかったんよ……あたしは間違ってない……なのに、なんでこんなに苦しいの……」

 リッカはそこで脱力し、床にへたりこんだ。

 心の内を言葉にしたとたん、急激に目から涙があふれてきた。

 身体が震えだし、寒気もやってくる。

 ――やだよ、何なのよ、この感覚……この気持ち……。

「生きてるからに決まってるでしょ……それって、死んだクリルやノトには、もうできないことだよ」

 モンモは奪ったナイフを部屋の隅にポイと投げると、一緒になってしゃがみこみ、リッカの身体を優しく抱きとめた。

 それでもリッカから喪失感と孤独感は拭えなかったが……寒気だけは、これでやわらいだ気がした。

「バカなこと、しないでよ」

 かすれるような声で、モンモは抱きしめるリッカの耳元へささやいた。

 抱き合っているから顔は見えなかったが、モンモもまた、泣いていたのかもしれない。

「モンモ……モンモぉ……うう、あたし………」

 抱きすくめられる中で、何かの見栄みえが崩れたのか、リッカの喉をいきなり嗚咽おえつが襲った。

 モンモの耳元でむせびながら、リッカは一つだけ、わかったことがあった。

 ――あたしは、誰かに止めて欲しかったんだ。

 ――誰か、止めてくれる人が来てくれるって、信じたかったんだ。

 ――友達を殺しても、弟を殺しても、顔も身体もボロボロになっても…………それでも、生きてて良いんだよって言ってくれるのを、待ってたんだ……。

「……次にまた死にたくなったら、まずは私に相談しなさい。ぶん殴ってでも、槍で刺し殺してでも止めるから」

「槍で刺し殺して、自殺を防ぐの……? 防げてないじゃん」

 リッカは泣きじゃくるまま、小さく笑い声をだした。

「……たぶん、どっちもしない。おそらく、泣きついて止めようとするからね。でも泣くまで追い詰められるのは疲れるから……私のためにも、強く生きてよね」

「モンモ……」

「飲むよ、リッカ」

 そこでモンモは少しばかりリッカから身体を離し、正面から見つめてきた。

 やはりモンモの瞳も真っ赤に充血していた。

「大嫌いだったゴミクズのクリルのためじゃない。あんたの弟のためでもない。あんたの生存祝いに。お酒、あるんでしょ」

「へへ…………いま切らしてて、水しかない」

「あー……あんたってバカ。ホントにバカ」

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