一週間後。
カーネリアン・ファイアオパール通りに面するタクマスの自宅は(旧代の多くの個人商店などがそうだったように)仕事場と兼用である。
4階建ての建築物のうち、最上階のみがタクマスの家で、残りは社員の仕事場となっている。
セントデルタ新聞社。
12人の従業員をともなう、セントデルタとしては大きな会社で、したがって大きな
「タクマス、お帰りなさい」
「社長、お疲れ様です」
「ごくろうだね」
一階オフィスで、記事を
この家は100年前、ラストマンの襲撃を受けた直後に建築されたもの。
ラストマンと戦い、
今は篭城戦など出番はないから、この地下室はただの倉庫として用いられている……と、タクマス以外の社員はそう認識していた。
「どうだ、アイリッド」
「あっっ、タクマスさん~」
細身の男が、桐の地下室扉の
アイリッドと呼ばれた男は、高音な声のために、優しそうではあったが、何となく頼りなげな印象もただよっていた。
猫背であることも、そのマイナス印象を助長していた。
アイリッドは、ふだんは農夫として生活しているが、たまにここで地下室の倉庫整理を手伝っている……ということになっている。
「進展はありません……今もヨタンさんが『仕事』してる最中です」
「俺も会いに行ってみるよ」
「でもタクマスさん、あそこは、え~とその……」
「なんだ、ハッキリ言え」
「臭いですから……タクマスさんは来られないほうが良いんじゃ……」
アイリッドが心細げにたしなめる。
「匂いなんぞどうでもいい。お前も来い、アイリッド」
タクマスはアイリッドの返事など待ちもせず、
「タクマスさんん~~っ」
アイリッドは
その地下室への階段は長く、しばらく降りてから突き当たりに行くと、二手に道が分かれていた。
暗いはずの道のりには、壁掛けのオーソクレース(黄色の宝石)の
元々、この地下通路もラストマンとの決戦を想定したものだからか、空調はないに等しく、空気はねっとりと湿気に満ちて、カビ臭かった。
タクマスは突き当たりを迷いもせずに右に折れると、その先に現れたオレンジダイヤの扉と向かい合った。
タクマスがその目の前の重い扉を押して中へ入ると、そこでまず、ひどい血の匂いが
それから、人間が身体から出す、さまざまな汚物の刺激臭も。
部屋は燭台の光によってわずかに照らされており、なんとか部屋全体の状況が読み取れた。
明かりの下には、二人の人物が写っていた。
一人はタクマスの部下ヨタンという、筋肉質な男。
そして、そのヨタンがうろうろする中心に、一人の男が
その男は顔(おもに口)が血まみれで、全裸にされた
そばの四脚テーブルには、黒ずんだ血のついたエメラルドのペンチと、黒曜石の包丁にダイヤモンドのノコギリ。おそらくその男のものだろう、切り取られた指が二本、置かれていた。
――人権
その拷問の
セントデルタ人にはない――白肌だったのである。
「おお、タクマス……来たか」
男を
「うまくいっていないようだな、ヨタン」
「なかなか口を割らないんだわ、こいつ」
そう語ったヨタンが、くるりとダンスでも刻むように身体を一回転させた。
と、思ったのもつかの間、次には回し蹴りを、この白肌の男の頬に叩き込んでいた。
「グゥっ!」
男はうめきながら、くくりつけられた椅子ごと、ぬめった石床に横倒しになっていった。
「……話す気にならないのか? 旧代の生き残りよ」
ヨタンに転がされた白肌男のもとへ、タクマスが近寄って、その耳元に話しかける。
「は、な、す……?」
男は寝そべったまま、ぶるぶると震えながら、見下ろすタクマスを睨んだ。
「しらばっくれるな。薄弱なる旧代人が、群れずに生きられるはずがない。お前の、他の、仲間はどこだ」
印を踏みながら、当てつける口調でタクマスが語った。
「だから、それは……言いがかりだ……俺は肌が白いだけの、セントデルタの住民だよ」
「嘘をつけ。こんな肌のセントデルタ人がいれば、すぐに噂になる」
「旧代に、生きていたという……マイケル・ジャクソンという人物を……ゴホッッ……知らないのか? ギネス記録を打ち立てた歌手だが…………
「マイケル・ジャクソンなら知ってるよ。彼はその病気を、生きている間はほとんど誰にも信じてもらえなかったな。君も同じだというわけか…………なるほどなるほど……なるほどね」
タクマスはニコニコと
「ウガッ」
白人のほうは、
「悲しいな。俺が例えば君にケンカに負けたあとで、その言葉を聞かされたら信じたかもしれないが、残念ながらそうではない。
いくら
タクマスは傷をえぐりながら、白人男のそばへ顔を近づけた。
「お前の名は? 住所は? 年齢は? 経歴は? 近所の友人の名は? 何ひとつ答えられまい。それが証拠なんだよ」
タクマスは白人男から千枚通しを抜き放し、立ち上がると、その器具を横に立つ木製の四脚テーブルに置いた。
「セントデルタの外に、水爆の男フォーハードを産んだ
「エ……エノハ様に進言すれば、いいだろう。なぜ、そんな空想論を……地下室でぶちまけている」
白人男は、震える首をもたげてタクマスを見上げながら、ゆっくり語った。
「奴は専制君主だ、人の意見なぞに耳を貸しはしない」
「エノハ様が…………専制……君主? 彼女がそうなら……お前は5歳になる前に、殺されているよ」
息も
そのとたん、横たわるその白肌男の頭が、激しく、何度も踏みつけられた。
ただし、踏みつけているのは、タクマスではなかった。
先ほどまで扉のそばで泣きそうにしていた、アイリッドだった。
「この蛮族め! ばんぞく! ばんぞくぅっ! キィーヒャアーーっ!」
アイリッドは発狂したように、細身の身体をじたばたとさせながら、白肌男の顔面に、なんども蹴りを加えていた。
この気弱なアイリッドだけでなく、ヨタンや……いや、理知的なはずのタクマスまでが、みな、異様な
タクマスもそれを止めるばかりか、脚をうしろに振りかぶって、白肌男のみぞおちを蹴った。
「ゲフッ!」
白人男はさすがにそれには
そのさなかに、調子に乗りながら男の頭を踏みつけるアイリッドを、タクマスが少し乱暴にどかせて、再び男のそばにしゃがみこんだ。
そしてタクマスは、白人男の血まみれの、
「お前の名前を知りたい。まずは、そこから仲良くしようじゃないか」
「……お…………俺は……名もなきセント……デルタのじゅうに……グブッ」
最後まで言い切ることもできず、そこでまた男はタクマスの空いた手に殴られ、身体を地面に落とされた。
「明日は、お前のどれか一本の指が、お前の身体から離れていくことになる。愛おしんでおくことだな……行くぞ、ヨタン、アイリッド」
タクマスは立ち上がると、椅子に
その足音が響かなくなってから、白肌男は大きく咳き込んだ。
「ゲフッ……かはっ……失敗した……本当にこれは……潜入失敗だ…………」
白肌男は、心底、自分の軽挙を後悔していた。
――男の名は、ゴドラハン。
500年前、フォーハードが破滅させた世界で、再建方法をめぐってエノハと争い、破れ、そして
ただし、ここに今、
この数週間、セントデルタはかなり乱れていた(ゴドラハンはいくつも隠れ家を用意しており、その全てに望遠鏡でセントデルタを監視できるようにしてあるから、こういう情報は、すぐに見つけ出せるのである)。
500年間にわたるエノハの支配で、これほどの混乱は一度もなかった。
2年前のラストマン襲撃でさえ、まだ秩序は保っていたが、今回はその時以上に
セントデルタにとって大いなる
しかもゴドラハンは、長い時間をかけて、いくつもの準備もしていた。
その内で今回、ゴドラハンが選んだ方法は、地下に穴を掘って、セントデルタおよびアレキサンドライトの塔に肉薄し、エノハの首を取る、という作戦だった。
穴はかねてから、セントデルタの地表ギリギリまで掘っていたから、すぐに侵入することができた(ちなみにゴドラハン自身はこれを『ボストークの光作戦』と呼んでいた。南極氷床の約3600メートル下にある氷底湖ボストークの調査方法にちなんだものだ。この湖は1998年に発見されたものだが、調査にあたっては、慎重を期しておこなわれた。掘削機によって氷のトンネルを開通させる直前のところで、2012年まで、わざと穴を開けきらずに止めていたのだ。こちらの理由は、掘削ドリルや空気中に漂う地上の微生物が、50万年にわたって地表からも海からも完全に隔絶された、謎の生態系に満ちているであろうボストーク湖に、どんな影響を与えるか、判明しなかったからだ)。
「何十年とかけた……この作戦が…………まさかこんな簡単に
ゴドラハンは椅子にくくりつけられた身体を、立ち上がらせようとしたが、それがかなわず、再び石床に倒れこんだ。
ゴドラハンがこんな目にあっている理由は、しごく単純だ。
深夜3時に、満を
ロナリオがいれば、赤外線カメラやソナーなどで、あらかじめ穴の向こうの気配を察知できたはずなのだが、そのロナリオはセントデルタに侵入を果たして以降、なんの
チャンスを活かすには、ゴドラハンは『開通させた穴のそばに誰がいるかわからないが、運だけを頼りに断行する』という、普段はやらない
かくしてゴドラハンは、穴から侵入を果たしたところで、ヨタンによって、うしろからいきなり椅子で殴りつけられ、気絶させられた後は、どうもこのタクマス家の地下に縛り付けられたらしい。
きっかけはタクマスが『何が何でもそいつから情報を聞き出せ』と、ヨタンとアイリッドに命じたことだった。
それからは、タクマスから少しでも栄誉を受けるためなのか、金のためなのか、自らの
細身でどもり声のアイリッドのほうは、この初日はまだ、自分のおこないを恥じているところがあったが、タクマスが旧代にあった民族
――スタンフォード監獄実験。
西暦1970年、スタンフォード大学の地下に設けられた手作り牢獄で起こった、
実験期間2週間、一日15ドルという触れ込みで、学生を集めて行われた実験だが、いざ始めてみれば、あまりにも残酷な状況が生み出されたために、1週間で中止されることになった事件である。
その内容はというと、学生を無作為に看守と囚人に分けてみるとどうなるか(当初、実験参加者の全員が『囚人』をやりたがった)、といったものだったが、なんと、初日から無意味な虐待が呈された。トップによって『暴力は厳禁』と戒められていたから、暴行だけはおこなわれなかったが、それ以外のハラスメントは時間を問わず繰り返された。
日を追うごとに看守は横暴に、囚人は従順に、無気力に、無思考になり、これらに携わるものさえ、その異常さに取り込まれていったのである。
スタンフォード監獄実験を発案し、実行に移した大学教授フィリップ・ジンバルドーは、2003年のアブグレイブ刑務所での
まさにタクマスたちの精神状態は、これにそっくりだ……と、ゴドラハンは
「たしかに他人とは不気味なものだ……何を考えているかわからない……それに加えて、俺たち旧代人間は、戦争と
そんな悪党には、何をしても良いという結論になるのは必定だ…………。
ここはピラニアの住処だ……仲間は食わないが、形が違えば食い殺す……そんな場所に入り込んで、こうならないわけが……なかったんだ…………」
ゴドラハンはそこでまた
「誰だったか……人間から凶暴な精神を取り去ることは、不可能だと言ったのは……」
ゴドラハンはさらにつぶやいた。
「ロナリオ……お前は無事なのか…………」