115.命の果て

「行って欲しい場所があるんだ」

 モエクはひとり、ルビー・ガーネット通りの奥まった場所に建つ、リッカの家を訪問していた。

 そして、玄関口でリッカと顔をあわせて最初に切り出したのが、モエクのこの文句だった。

「お前さんでないと入れない場所なんだ。可能であれば、今日中に入ってほしい……最低でも必ず3日以内に」

「何なんよ、モエク……」

 リッカが半開きのドアから顔を出し、めんどくさそうに返事した。

 今は昼飯時のため、リッカにとっては、モエクのこの訳のわからない頼み事よりも、かまどに入れたたきぎのことが気にかかっていた。

「あたし、いちおう病人なんだけど」

「理解してるよ、それは……お前さんの体力を思いやっていない頼みだということも。だけど、今でないと、ダメなんだ。それも、お前さんでないと」

「えーヤダ……何で、あたしなんよ。それに、さっきからあんた、顔が赤いよ。風邪?」

「あー……それは、お前さんがその……とても可愛いからだ」

「はぁ?」

 リッカがうんざりした表情で聞き返した。

「そう言ったら交渉がスムーズに進むと考えたわけ? あんた、クリルやメイにも結婚結婚とうるさかったそうじゃない」

「うっ……メイはともかく……クリルの『あれ』を知っているのか? 僕の渾身の告白を。あれは……僕の中じゃあデリケートな話だったんだぞ。話したのはファノンか?」

「クリル本人だよ」

「クリルが……」

 モエクがさらに顔を紅潮させた。

「クリルの奴……なんて無神経なんだ」

 そう言って悪態をつくモエクだったが、実のところ、そこまで憤慨はしていなかった。

 その一番の理由は、クリルが『死んでいる』からだろう。

 彼女がもしも生きていれば、その無神経を責めるために、クリルの家まで行ったかもしれないが、もはや当人は数億光年走っても、会えない場所にいる。

 そう考えたら、クリルの生前の暴露などは、可愛い悪行にすぎない……と、モエクも割り切れるのである。

「……で、本当は何をしてほしいわけ?」

 黙り込んだモエクの様子をいぶかって、リッカが本音を問いただしてきた。

「ああ、すまない……アレキサンドライトの塔へ、行ってもらいたい」

「アレキサンドライトの塔? 毎日行ってるよ。エノハ様への業務報告もあるし」

「いや……そこじゃないんだ。僕が行ってほしいのは、アレキサンドライト最上階の、エノハの所じゃあない」

「じゃあどこよ。入り口でいい?」

「用があるのは書庫だ。そこの新聞に用事がある。なるべく古い記事が」

「新聞んんんんん? そんなもん、何で今日じゃないといけないんよ。だいたい、書庫の閲覧はエノハ様の許可が必要な案件じゃん。自警団長でも、よっぽどのことがない限り了承が出たことがないのに」

「僕の予想なら……いや、願望かな。たぶん、今なら大丈夫なはずだ。逆に行けなければ、僕の予想が間違っていたことになるから、それはそれで構わない。いずれにしても、今日でないと駄目なんだ」

「んんん……今日か……今日ねぇ…………」

「不都合があるのか?」

「イヤ、ないけど……うん、ないけど……」

 リッカは渋りながら、一瞬だけ自らの隻腕を見たが、モエクはそのしぐさの意味に気づかないフリをした。

 顔に深刻な傷を負い、腕まで失ったリッカは、まだ大衆の歩き回る往来に出ることが、本心では恥ずかしいのである……ということは、モエクにも推し量ることができた。

 だが、この時のモエクには、そういう心の機微を思いやるほどの余裕が、なかったのだ。

 ――その理由は、まもなく、わかるはずだ。

「たのむ。きっと、お前さんにとっても、意外なものが発掘できるかもしれない」

「ん…………わかった……」

 いささか眉を下げて、不承不承なままリッカがうなずいた。

「ありがとう、助かるよ。じゃあ、頼んだよ」

 モエクはいきなり、さっと背を返した。

「えっ? ナニよ、あんた。用が済んだらサヨナラって……そんなんだから、モテないんよ」

「そうさ、僕は一生モテることはないだろうさ……そんな暇もなさそうだ」

 モエクはリッカの追撃にも態度を変えずに、そのまま通りへと歩き出していった。

 そうしてリッカ宅から離れ、角をいくつか曲がって歩いたところで……モエクはにわかに、深刻な顔になった。

 しばらく歩いておいて、大通りのルビー窓を鏡がわりに見つめてみる。

 こけた頬と、力なき全身は……いつもと変わらない。

「…………」

 ルビー窓に姿を反射させたまま、モエクはみずからの首筋をなぞった。

 そこには、あたかも軽石でも撫でるような、ザラザラした触感があった。

 首筋を覆う服をめくり、そのザラザラした場所を、ルビーの窓ガラスで眺めてみると、うっすらと白いアザのようなものができていた。

「なぜだ……半年も早い」

 モエクは苦々しくつぶやいた。

 モエクがこの白化したアザに心当たりがないわけがなかった。

 ――アポトーシス。

 死出の迎えの始まりである。

「はは…………ははは……リッカには、気づかれなかったぞ……タクマスには見破られたがね」

 モエクは空笑いしたが、その頬肉はまったく上にあがっていなかった。

 ――なあリッカ……僕はアポトーシスで死ぬから、エノハの塔に行ってくれ……死ぬ前の僕の頼みだ……。

 ――と、諭すのが一番、理にかなっていたことなんだが、クリルとノトを失った彼女にそれを話せば、優しいあの子だ……きっと悲しむだろう。

「この説明が、一番だったんだ。大丈夫……彼女はあれでも、絶対に動いてくれる……」

 命の果て。

 すでにモエクの身体には、腕や首などに、わずかながら『ふやけ』が始まりつつあった。

 それから、強烈な『性欲』も。

 実際、リッカと話し合うときも、劣情がすさまじかった。

 ――セントデルタ人は、二十歳で死ぬよう、鮭の遺伝子を施された。鮭は産卵期になり、故郷の河にもどるとき、しばらく汽水域……つまり海水と淡水の混ざり合う、川と海のぶつかる場所にとどまる。その時にはすでに、鮭の体にはアポトーシスによる、カビの斑点が現れていると聞く。僕にできているのはカビではないが……それと同じようなものだろう。

 と、普段の冷静なモエクなら、淡々とそう語るはずだが、この時は無理だった。

「二十歳の誕生日まで、まだ1年以上あるはずなのに。やっぱり、この寝ない生活が、体内時計を狂わせたのか……?

 嘘だろう? 冗談だろう? 僕はゴンゲンやモンモより生年が遅れてるんだ。なんでだ。

 ――くそっ、僕は……僕は悲嘆しないぞ。

 この悲しみも、この恐れも、この焦りも…………ぜんぶエノハへぶつけてやる……泣いて……泣いてたまるか…………」

 だが強がる口とは裏腹に、モエクは両脚の力を失い、よろよろと身体をあずけ、頼りなくひざまずいた。

「う……う……うぅ…………ッウウウ…………」

 道ゆく人間が、いきなり泣き出すこの風景は――セントデルタでは、よく見かけられるものだった……。

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