12.水爆の男

「……」

 セントデルタの舗装路は街路ごとに違う宝石が用いられており、ファノンたちのいる地区はルビーやガーネット、スピネルなど、赤を主成分とする宝石でできていた。

 家から2キロほど南東に歩くと、街の境界ポワワワンの川が現れる。

 この川の全長は193キロ。川幅は200~300メートルもある遠大な川で、その懐にはヤマメやアユ、ドジョウなどの食べられる魚のほか、ウグイやボラ、フナなど、その生物種はきわめて豊穣ほうじょう

 天気のいい日には、王者のようにゆったりと濃緑の水を静かに流しているが、じつはその川底は5メートルから10メートルと深い上に、雨天時にはさらに激しい濁流をむき出す、まさに怒竜のような川である。

 11月に入ると、産卵のためにサケ(シロザケ)とマス(サクラマスやカラフトマス)がのぼってきて、さらにそれを狙って熊やキツネ、ワシなども集まり、人間以外の声や存在感にあふれた、活気の満ちた景色になる。

 ポワワワンの川は、どうも旧名はキソガワと言ったそうだ。

 それにもかかわらず、ここをポワワワンと呼称するのは、人間の歴史にそれほど興味のなかった女神エノハが、人類復活のさい、その民に川のことを聞かれて、思いつきでつけた名前だからである。

 ファノンはそのポワワワンの川原に、一人でしゃがみこんでいた。

 メイから逃げるようにしてここへ来て20分、自分の心の中を吹き荒れている波乱を、どうにか抑えようとしていたが、考えがまとまらないまま時間がすぎていた。

「古代のマンガとか嘘だよな……いつもこういう昔のイヤな思い出話は、寝てる時に蘇ってたりするけど……」

 ファノンは髪の毛をもんだ。

「起きてるときに……一人でいるときに……弱ったときに限って襲ってくるんだ」

 化け物。

 ひとしきり昔日せきじつのエピソードが頭の中で一巡したあと、こんどは先ほどノトに叩きこまれた言葉が衛星のように、ファノンから付かず離れず、ぐるぐる頭の中で回りはじめた。

 同じことを考えているうちに、初めて化け物として扱われたあの日のことを、思い出してしまったのである。

 ――痛い目にあわせてやる。

 ――ぶっ殺してやる。

 セントデルタは楽園ではないから、こういう感情は、あの日の7歳の時にも感じたものである。

 だがノトのような独りよがりな、断罪的な人間に会ったのは、初めてだった。

 怒りをおぼえた。

 痛めつけてやりたい。

 その口から、いや、頭の片隅にさえ、二度と生意気な言葉が生まれないほど、ノトを矯正してやりたい。

 恥ずべきことだが、たしかにそうファノンは思ったのである。

 そして同時に、ファノンは願った。

 ツチグモと対したときに発現した、あの力を。

 そう思ったら、ノトにもあんなことをしでかした。

 あの力を実際に、自由に振りかざすことができれば、永遠にストレスと関わりのない生活がおとずれる、と確かに思っていたことは否定できない。

 ──だけど、あんなことは望んじゃいなかった。

 ──なぜ、あの力は止まらなかったんだ。あれは完全に、俺の制御からはずれていた。

 化け物。

 こんなことをできる自分が、これまでと変わらずセントデルタの街で生きることが、できるのか。

 これまでになく体験したことのない不安と疎外感にファノンが襲われていると。

「どうしたんだ、そんなところで」

 背後から、低音だが涼しげな声がかかった。

 振り返ると、そこには亜麻色の髪の男が、川原の土手からファノンを見下ろしていた。

 セントデルタの人口は1万人ほどだが、ファノンの交友関係はとにかく狭い。

 だから、ファノンはその人物を見ても、自分が覚えていない人間なのだ、くらいにしか思わなかった。

 その顔は二十歳前なのかもしれないが、いささかその予想年齢より、男は老けて見えた。

 セントデルタに生きる人々はみな、エノハに寿命を統一され、二十歳で死ぬのだから、二十歳に見えなくとも、二十歳以上であるはずがない。

 男は植物のアクから染め出したような色彩の、セントデルタの民族服を着てはいたが、シャツは羽織らずに上裸身をそのまま見せていた。

 目を引いたのは、心臓の数センチ下あたりには、包帯がまかれており、そこから血をにじませていることだった。

 それに、男の肌。

 黒みがちなセントデルタ人にあって、その男は、鍾乳石のような、かなり白い肌の持ち主だったのである。

 だがそれ以上に、ファノンには、この男に興味をそそられる、ふしぎな感覚をおぼえていた。

 例えようがないが、運命の友人にあったような気持ちに近かった。

「嫌いなやつだったけど、傷つけるところだったんだ」

 だから、ファノンは初対面の男に、幼馴染おさななじみのメイにも打ち明けられない内心を吐いた。

「ああ……たまたま見ていたよ。ノトというんだったかな? あの男、びびっていたな」

 男は吹き出すように笑った。

「見ていたのか? 俺がノトに力を使うところを? 人影はなかったと思うが」

「遠くから見ていたからな。たしか君は、虫メガネのように、光を思った場所に集める能力があったんじゃあ、なかったかな。それなのに、ノトにはそれとは違う、まったく異なった力を見せた気がしたんだが?」

「3日前にツチグモと戦ったけど……俺の戦法じゃ効果が薄かった。あれから、ほかに何かできないかとおもってたんだ」

「ほお……この3日、考える時間はあったろうしな。で、次にツチグモに会ったとき、どうやって戦えば良いと思ったんだ?」

「マンガで見たことがあるんだよ。昔は電子レンジっていう、食べ物を温める機械があったらしい。もしまたツチグモに会えば、その電子レンジ技なら早く倒せるかもしれない、と思ったんだ。でもまさか、俺が怒っただけで、まさか勝手にあの力が出てくるなんて……」

「電子レンジのことは知ってる。マイクロ波という電波で水分子を揺らして温める道具だな」

 マイクロ波。

 波長12センチの長大な電磁波で、金属には反射するが、それ以外の物質は通り抜ける、不可視の光線である。

 2450MHzのエネルギーで水にぶつかると、水がプラス極とマイナス極に、一秒間で24億5000万回変化する。

 温度とは分子運動のことだから、その振動によって水は温まるのである。

 ただ電子レンジが物を温めることができるのは、せまい金属の箱で、そのマイクロ波を箱の中でいかんなく乱反射させているためだ。

 ひらけた場所では、それほどの効果はなかっただろうが、それでもノトが熱いと感じたレベル。相当な量の電磁波を、ファノンが発生させていたはずである。

「……過去の歴史では、たしかに電子レンジと同じミリメートル波を武器にしたものが、アメリカ陸軍で作られたことがある。君がやった電子レンジ作戦は、まあ現実的な戦い方かもしれないが、殺す気でやったにしては甘い戦法だな。よっぽど、あの偽ブラックホールのほうが殺傷能力が高いというのに……さっきまでの君は電子レンジのほうが強いと思ったから、そちらが選択されたようだ」

「殺す……? 俺はそんなつもりは」

「ウソをつくなよ。殺意、悪意、憎悪、怒り。そんな感情に反応するんだよ、その力は」

「……待てよ、その声……聞いた覚えがあるぞ。それに、なんであの巨大な黒い球のことを知ってるんだ。俺は誰にも話してないぞ」

 ファノンが眉をあげて男を見つめ直すと、男のほうは喜ばしげに口元をあげた。

「やっと気づいたか――ツチグモでは失礼したな」

「お、お前! やっぱりツチグモの声の主!」

 ファノンはとっさに地べたから尻を離し、男から距離をとって、その悪人に向けていつでも『力』を発することができるよう、手をかざした。

「ノコノコと、よく俺の前に……セントデルタに姿を現せたもんだな」

「俺は必要さえあれば、どこにでもノコノコと姿を現すのさ」

「だ、だまれ!」

 ファノンは叫ぶとともに、手のひらから力を解き放った。

 だが、先ほどまでノトに猛威を振るっていた力は、まったく呼応してこなかった。

「な、なぜ……」

「なぜ、力を使えないと思う? それはお前が俺に恐怖しているからだ」

「い、言いたい意味がわからん」

「恐怖と憎しみは同席できないらしい。何かの本にあったが、なんでも憎みながら、その相手を恐れることはできない、だそうだ。その逆も真なり、だよ。

 ツチグモを操作していたあの時、俺はお前が憎しみをいだくように仕向けるために、お前の家の同居人……クリルの惨殺をことこまかに詳述した。怒れただろう? 憎めただろう? 恐怖など吹き飛ぶほどに。

 だが今は、俺のことを不気味にでも思っているんだな。なぜ俺がクリルのことまで知っているか、なぜノトのことまで掴んでいるか、わからないんだろう? 恐れていては、その力は破壊のエネルギーをお前に貸しはしない」

「お前、いったい何者だ」

「――俺はフォーハード。かつて人類を86億人、殺した男だ。歴史では90億を葬ったことになっているがね。お前らの間じゃ、水爆の男、という呼び名のほうが、しっくりくるのかな」

「水爆の男だと……? あいつが生きてたのは500年も前だ。病院はあっちだぞ」

「……」

 フォーハードはうつむき、そのまますっと片手をあげると、手のひらを天にかざした。

 その瞬間、である。

 ファノンの見る景色が、いきなり開け、前もうしろも大空になったのである。

 足元に雲があり、その隙間から七角形をしたセントデルタの街と、エノハの住むアレキサンドライトの塔がうかがえる、と思ったのもつかのま、ファノンは真っ逆さまになってその雲に吸いこまれ始めた。

「うわ、うわあーーっ!」

 ファノンは高速で地面に向かって落ちていく中、絶叫を上げるしかできなかった。

 日常で味わうことのない、無重力状態に、かんぜんに冷静さを失っていた。

 あまりの高度のためなのだろう、風を二つに断ちながら高速で落下しているにもかかわらず、いっこうに地面に近づくことはない。

 だが、ファノンが思っていたより、はるかに早く、ファノンは地べたに激突した。

「ぶぎゃっっ」

 ファノンは、顔面から元いた『ポワワワンの川原』に着地したのである。

 鼻の奥のツーンとした痛みに悶えながら、ファノンはふるえる顎を無理に上げて、目の前の男……フォーハードをにらんだ。

 フォーハードは、すました笑みをファノンに向けて、たたずんでいた。

「俺の力は時空を操ることなんだ」

「時空……今のが?」

「知ってるか? 時間と空間は同じものなんだ。つまり俺は今みたいに瞬間移動じみたこともできるが、時間を飛び越えることもできる。戻ることはできないがね。その力を使って、こうして今、未来旅行を楽しんでるってことさ」

「本とかだと、お前は南極の水爆で吹っ飛んで、死んだと書かれてた。でも違ったんだな。爆発する前に、時空に逃げこんだ」

「まあ、だいたいそんな感じだな」

「俺をどうしたいんだよ。昨日みたいなことをやって、わざわざ俺を怒らせて……何が目的だ」

「あの時に言っただろう、超弦の子。お前は俺のやりたいことを可能にする力がある」

「なんなんだよ、チョウゲンのコって。俺はウン子とかクソムシとかなら女の子に呼ばれたりはするが、誰も超弦の子だなんて名で呼んだことはない。病院はあっちだぞ」

「……俺に畏怖いふしているわりに、よく回る舌だ。これもエノハの世界のたまものか。強い生命力だ。

 お前の力はそもそも、太陽光を収束させてモノを焼くなどと、そんなショボくれたシロモノではない。お前の力は万物の基礎をあやつるもの。だから超弦の子というのだ。

 気づいているんだろう。お前は、自分の知っている科学現象しか、起こすことができない、と」

「それがどうした」

「俺が教えてやるよ。この宇宙さえ消滅させる力の使い方を」

「ふざけんなよ。俺がそんなことをする理由、あると思うのか」

「セントデルタの箱庭に育ったお前に、人間の狭量きょうりょうと、世界の悪を憎むことなど、できんだろうさ。エノハはそれを見事に駆逐したからな。ここはいい世界だと思うよ。ここが永遠に続く、と確約するものがありさえすれば、な」

「……何を言ってるんだか、さっぱりだ」

 ファノンは会話をつなげながらも、意識は他のことに集中させていた。

 昨日ツチグモにされたことと、先ほどノトに言われたことを、なるべく事細かに思い出していたのである。

「ところで、あんたのやりたいことについて、聞きたいんだけど。興味はないけどな」

「およそわかってると思ってたがな。俺は宇宙から生物という生物の痕跡を消したい。物質から生物が生まれた形跡もあるから、けっきょくは物質もだけどな」

「殺したいのは人間だけじゃないのかよ。てっきり俺は、人間は愚かで自然破壊ばかりする、だからやっつける、とでも言うのかと思ったよ。今俺が読んでるマンガとか、ちょうどそんな話だったよ。横山光輝のマーズって漫画、読んだあとは頭の中が終末論でいっぱいになるぞ」

 ファノンは語りながらも、自分の手首のほうに、充分なレベルの小さな熱源が集まりつつあるのを感じていた。

 力だ。

 人間相手になら深刻なダメージを与えられる、闇の球を作る力が、ファノンの体内に取り戻されつつある。

 だがその力を振るうためには、もっと時間稼ぎをする必要があった。

「お前の理論だと、こういうことか? 人間でさえなければ、清い世界が作れると? スズメでもイルカでも、進化の果てに高い知能を得れば、人間には叶えようのない理想郷が完成すると? 動物は清らかで、人間のような邪念がないと? 争うこともなく、融和が可能だと?

 ――違うな。人間だから争うのではない。人間だから、醜さを露呈して歴史に醜聞を連ねるのでもない。

 かつてダーウィンは言った。生存競争は、異種族よりも、同種族同士のほうが激しい、と。

 人間だからではなく、生命だから争うのだ。

 けっきょくどんな生命も知恵をにぎれば、人間と変わらんことをする。

 知ってるか? 海に生きているシャチという動物は、皆ではないが、生きたアザラシの赤子の皮をはぎ、仲間同士でボール遊びのように投げ合うそうだ。

 アフリカのオグロヌーという水牛は、皆ではないが、ワニの群集する河をわたるとき、まずは子牛を先に行かせるものもいる

 大海を群れで泳ぐカツオの群れ。彼らは回遊魚で、広いルートをつねに回って生きているんだが、彼らのうち、仲間が病にかかり、群れの中から遅れだすと、仲間が必死に群れの中に押し戻そうとする

 これぞ感情の証明だ。喜怒哀楽きどあいらくがあるから、それでモノを判断する。自分の子供を尊ぶために他人をしりぞけるのも感情だ。そこにやがて格差が生まれるし、その末路も人間と同じになる」

「俺はべつに、そもそも人間がどうのと議論するつもりはなかったんだが……それでも、およそ、お前の考え方というのはわかったよ」

「わかってくれて嬉しいよ。で、その右手にあるエネルギー体で、どうするのかな?」

「――!」

 ファノンはぎょっとして、得意げに指をさしてくるフォーハードを見た。

「俺にもお前にも、超常の力をかぎとる能力がある。俺たちはお互いがどこで、どんな力を爆発させているのかわかるんだぜ」

「ドラゴンボールみたいなものか……」

「……? 何の話かはわからんが……ともかく、お前が力を炸裂させたあの時、俺に確信をくれたんだよ。お前こそ、俺にさえできない宇宙の破壊ができる、と。つまりお前は」

 フォーハードがそこまで告げたところで、だった。

 ファノンが溜めこんでいた力を、手のひらから解放したのである。

 そのとたん、フォーハードの周囲の景色がにじんで、やがてそこはあたかもブラックホールのようになった。

 そしてフォーハードは完全に、その漆黒の中心にくるまれていった。

 だが。

「――つまりお前は、俺からは逃げられない」

 フォーハードの声が、ファノンの背後から襲ってきた。

「!」

 ファノンの振り向くところに、フォーハードが不敵にほくそ笑みながら、腕を組んで立っていた。

「何を不思議そうに。俺は時空をあやつる、と言ってるだろうが」

「こ、この」

 ファノンは振り返りざま、拳を耳のそばにかまえ、突きを繰り出した。

 術で勝てないなら、殴り合いで。

 短絡的なファノンの、きわめて単純な結論である。

 だがそれも、フォーハードは折りこみ済みだった。

 顔面に飛んできたパンチを、フォーハードはすれすれでかわし、距離のちぢんだファノンのあごに、強烈な肘を下から浴びせた。

「がっ!」

 ファノンは口から血の霧を吐いて、石ころだらけの川原に滑りこんだ。

「……その力を振るうだけなら、事実をかいなでるだけでいい。だが本当のその力を発揮するためには、窮理きゅうりを知っていなくてはならん。今のお前じゃあ、神にはなれんぜ」

 フォーハードは顎を抑えながら倒れるファノンの傍らにしゃがみ、うそぶいた。

「誰が、そんなものに」

「そうだな、エノハの代わりに神になってもらっても困るしな……そこでだ、ファノン。面白いことを教えてやるよ。今よりも、もう少し強い力の使い方だ」

「そんなもん、聞かせるな!」

 ファノンは仰向あおむけのまま、うしろずさろうとしたが、その動作はフォーハードに髪を引っつかまれたため、かなわなかった。

「超弦とは、万物の根源だ。お前はほんらい、万物そのものを自在に操ることができるってことだよ……たとえば、肉を鉄にする、とかな」

「……じゃあ今すぐ、あんたの鉄の彫像を、俺の作品の第一号にできるってことか」

「言っただろ、お前ができるのは、お前が知っていることだけだと。あとで調べてみろよ、超弦っていう言葉の意味を」

 ファノンに破滅的な力をさずけようとする張本人は、愉悦の笑みを絶やさず続けた。

「なんなら試してみるがいい。この俺フォーハードに鉄になれ、と」

「ああ、やってやるさ!」

 ファノンは間近にあるフォーハードの眼前に手をかざすと、念をこめた。

 だが、三秒待っても、五秒待っても、景色が何がしかの変化を遂げることはなかった。

「くそっ、効果ないのかよ」

「そうでもないぞ。万が一にでも、今のとぼしい知識だけで、その力が発動したらと、俺は内心不安だったからな。弾丸の入ってない拳銃でロシアンルーレットをする気分ぐらいにはなれた」

「ふざけやがって」

「だが残念なのは……今俺が話した言葉、ほかの人間にも聞かれてしまったことだな」

 そこでフォーハードはファノンの髪から手を離し、降参するかのように、軽く両手を挙げながら、ファノンから離れた。

「ど、どういう意味……」

 ファノンがそう呟いた瞬間、うしろに気配が生まれた。

 ファノンが振り向くよりも速く、その気配は長い黒髪をたなびかせながら、ファノンの横へ並び、さらにその前へ、ファノンの盾になるように進み出た。

 クリルだった。

「ク、クリル!」

「ファノン、大丈夫?」

「あ、ああ……どうしてここへ」

「ノトが騒いでたのよ、あなたが異形いぎょうの力を使ったと」

「異形じゃあない、超弦だよ」

 ファノンとクリルの問答に、フォーハードが言葉を滑りこませた。

「……ファノンを、たぶらかさないで」

 クリルはファノンが聞いたこともないほど、声を低くすごませた。

「イヤだね、そいつをたぶらかさないと、俺に次のステップは生まれない」

「議論だと、平行線になりそうだね」

 そういうとクリルは、広がる袖から一本の、アメジストの果物ナイフを取り出し、そのままフォーハードへ向けて駆けていった。

「お、おいおいおい」

 まさかいきなり武器を取って襲ってくるとまでは考えていなかったフォーハードは、動作が遅れた。

 頸動脈けいどうみゃくをすくいとるようなナイフの横薙よこなぎと、次に来た逆手持ちの右肩への一閃をフォーハードはかわすものの、最後に飛んできた、クリルの膝蹴りを、フォーハードはよりにもよって、包帯で薄膜を張っただけの傷口にもらってしまったのである。

「うぐゥっ!」

 渾身こんしんの蹴りを食らわされたことにより、フォーハードは初めて苦悶の表情をあらわして、たたらを踏むように、うしろずさった。

 その足のそばから、紅茶のカップからこぼしたような鮮血をボタボタと垂らしながら、フォーハードはかろうじて態勢を保った。

「最悪な場所を蹴ってくれるな、お前は……」

「ファノンを傷つけた。その報いとしたら、まだ5リットルは血を流して欲しいぐらい」

「死ぬだろ俺……まあいい。とりあえずの目的は果たした。今回は帰ってやるよ」

 そういうと、フォーハードの体が、うしろの景色と融けはじめた。

「ま、待ちなさい!」

 本当にまだ殴り足りないのかどうか、クリルがフォーハードをとどめたが、そのころにはすでに、フォーハードはそこから消滅していた。

「なんなのあいつ……」

 クリルは吐き捨てたが、背後にファノンがうずくまっていることを思い出して、心配げに振り返った。

「ファノン、大丈夫?」

「ああ……大丈夫だ。クリル、あいつを知ってるのか? いきなり見知らぬ人に斬りかかるなんて……病院はあっちだぞ」

「だってあなた、口から血をだしてんじゃん。状況的に、あの男がやったって考えるでしょ、フツー。

 それに、あの顔にはあたしだけじゃなく、セントデルタのみんなが、歴史書で見てるわ。奴はフォーハードだよね。人間をあれだけ殺しといて、平然としてたヤバイ奴。でもなんで、ここにいるの、あいつが。死んだはずだけど」

「あいつ、次元を超えたから核爆発から逃げられたとか、布団の中で考えたような設定を得意げに言ってたぞ」

「ねえファノン……あいつから、何を吹聴されたの?」

「……超弦について調べてみろ、みたいなことを言ってた」

「超弦……フォーハードも超常の力を持つから、直感的に他者の力がわかるのかもね……ファノン? どうしたの?」

 クリルはそこで気づいた。

 気丈にジョークをまぜて会話するファノンが、本当は顔が青ざめていることに。

「大丈夫?」

「違う、違うんだよ、クリル」

 ファノンは必死に首を振った。

「俺、これからどうなるんだろうな。少し怒るだけで、こんな力が生まれるってこと、心配したことなんかなかった。俺、本当に化け物になっちまった」

「ノトの流言なんか、フォーハードの戯言ざれごとなんか、信じないで。あれはあなたを迷わせる。不幸にする。あなたはウチの子だよ? どこにも行かせない」

 クリルが尻餅しりもちつくファノンの丸い背を、うしろから抱きしめた。

「ファノン……泣いてるの?」

「泣いてねえよ、ちょっと目に涙が入って痛いだけだ」

 ファノンは目をこすって、瞳から垂れる涙をしぼったが、目の奥はどんどん痛くなってくる。

 とつぜんの嗚咽おえつが始まったのも、ファノンは認めたくはないが……クリルが優しい言葉をかけてくれたからだ。

 意地という名前のせきが、優しさに触れて、ふやけてしまったのだ。

 甘ったれな自分、というフレーズが浮かんできて、また涙がこみ上げてくる。

 情けなくも泣くわが身の未来が不安で、というだけではない。

 悔しかった。

 フォーハードには術を使っても腕力でも、いいところなし。

 いいようにコケにされて、それなのに手も足も出ずに叩き伏せられ、地面の砂をめさせられた。

 フォーハードだけではない、ノトにはまるで殺人未遂犯のように指差されて、人格どころか存在そのものを非難された。

 ここに居場所がないような気持ちで、一杯だったのである。

 涙とともにそういった耐えられない感情を頬から捨てていっても、後から雨水のように涙は出てきて、枯れるを知らずにファノンの目から出てくる。

 それでもファノンは、こんな所でうずくまっていても、ものごとは何も解決しない、ということをわかっていた。

 強く、なりたい。

 ファノンは背中にクリルの温かみを受けながら、無様だと知りつつ弱々しく顔を片手で隠しながら、たしかにそう決意していた。

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