121.Vが目覚めた

「やっぱり、俺の心のボスは最高だな」

 2日後の休日。

 ファノンは自室にこもって、久しぶりに漫画を読んでいた。

 ベッドに寝転がって眺めていた漫画は、かつてクリルが貸してくれたものだった(ちなみに、紹介者であるほうのクリルは、この本にあまり興味はなさそうだった。興味のない漫画を紹介したクリルの心内は……今となっては不明である)。

「ボスみたいになりたいもんだ……」

 つぶやきながらも、寝そべったまま腕を伸ばして本を読んでいたため、何となく疲れたファノンは、ここらで一区切りつけよう、と思い立った。

 そうして、寝すぎていた身体を慣らせるべく、散歩がてら、ルビー・ガーネット大通りへと出ることにしたのである。

 しかし、街へ出てみても、なんともキナ臭い空気がただよっていた。

 またも反エノハ派の男女が、往来で騒いでいる現場にはち合わせたのである。

 ――いや、今回は少し、趣が違った。

 反エノハ派の人々のわめき散らす相手はエノハではなく、自分たちと同じ『民衆』だったのだ。

「エノハ様のご退位だ! われわれの救済には、まずはそれが必要だろうが!」

 反エノハ派の男女が、アレキサンドライトの塔へ向かう道すがら、擁護ようご派の男女と言い合いになっていた。

 タクマスの計略によって、初めから数のそろっている反エノハ派に対して、擁護派は分が悪かったが、そのかわり、喧騒を聞きつけてやってきた人々がそちらに加わりつつあったので、少しずつ人数を増やしていた。

「エノハ様の何が悪い! あの方は懸命に努力なさっている」

 先頭に立つ擁護派の男が、真向かいの男に吠えた。

「懸命がなんだ! 俺たちは仲間を失った! これを防げなかったのは、ひとえにエノハ様の統治力不足の賜物ではないか!」

「お前じゃ話にならん! タクマスを呼べ! 一発ブン殴ってやる」

「お前こそどけ! 俺はエノハ様にしか用がないんだよ。真偽を見極めようともせずに、ひたすらエノハ様に飼われているネズミの分際で」

「このヤロウ……俺がネズミだと!?」

「あっ? ネズミじゃ身に余ったか? ならミジンコにしといてや…………オゴっ!」

 最後まで言い切ることもできず、反エノハ派男の口には、言われたほうの男の拳が叩き込まれていた。

 殴られた反エノハ派男は、よろよろと後退してから、おそるおそる、自分の口に手を当ててみた。

 どうやら、みずからの前歯が何本か折れて抜けたらしく、その口は雨天の軒先のように、ボタボタと血をこぼして、押し当てた手のひらを濡らしていた。

 それに気づいたとたん、血まみれの男の驚きの表情が、みるみる憎悪ぞうおへと変わっていく。

「テメェ……ぶっ殺してやる」

 男は胸元から、ロードライトのナイフを取り出し、殴ったほうの男に構えた。

「あ? 上等だ、カス野郎」

 向かい合う擁護派男もまた、この事態を想定していたのだろう、腰にいていたガーネットのナタを、すらりと抜いた。

 周囲も周囲で、この二人に対して「やれ、殺せ!」やら「刺せ! 一発で仕留めろ!」などと煽りつけていた。

 もはや引き下がれない空気の中で、二人が同時に動いたとき……一瞬にして状況は変わった。

 ファノンが横から走り込み、まずは反エノハ派の男を突き飛ばしたあと、意表を突かれて頭を真っ白にした保守派男にもまた、蹴りを喰らわせたのだ。

「イゲッフ!」

 男のどちらかが、そんな間抜けな声とともに倒れこんだ。

 周りの歓声も、ファノンの登場とともに、一気にやんだ。

「うっ、ファノン……?」

「ファノン……」

「ファノンだ…………」

 ケンカしていた男たちだけでなく、群がっている男女も、いっせいにどよめいた。

 未知数の強さを持つファノンが殴り込んできたため、この時点ですでに、どちらの派閥もすっかりおとなしくなったのだが……ファノンはそれに気づかなかった。

「仲間にナイフを向けるな」

 ファノンは、横たわってうめいている反エノハ派の男に近寄ると、しゃがみこんで、そう告げた。

「グ……ファノ……ン……」

 男は憎々しげにそう言ってにらんだが、その次の瞬間、男は信じられない光景を目にすることになった。

 ファノンが男の握るナイフごと、その手を掴んで、ファノン自身の左胸に向けたのである。

「えっ、ファノン?」

「よく見てろ。俺達は家族だ」

「えっ?」

 意味もわからず、素頓狂すっとんきょうな声をあげる男は、ファノンの意図いとを理解しそこねた。

 『あの兵士』はボスの意図を一瞬で理解したが……こちらは別に戦士でも兵士でもない。

 そして何より……目の前の男とファノンは、苦楽を共にした家族ではない。

 だから、男が抵抗するだろうことを勝手に計算に入れていたファノンは、まったくその抵抗を受けられなかったため、あまりにもすんなりと、みずからの左胸に、まるまる自分のフルパワーでそのナイフを突き刺してしまった。

 普通はあばら骨が、こういうナイフを止めるが……今回はその隙間を縫ったというのも、もう一つの不運となった。

 刃渡り10センチのナイフは、根元までファノンの胸に入り込んだのである。

「ア……イ…………イテ……えっ……何これ…………イテ……」

 ファノンはひとり勝手に苦悶の表情を浮かべて、ぶるぶると震えながら、ルビーの敷石に倒れこんだ。

「えっ、ちょっ、ファノン……?」

「何やってんの、お前……おい……」

 仲裁を受けた男たちも、ファノンの訳のわからない行動に、すっかり殺意など忘れてしまったらしく、オロオロと、ひと相撲ずもうの果てに、血だまりを胸から作り始めるファノンを見つめていた。

「なんの騒ぎだ」

 そこに、別の声が上がった。

 人々が一斉にそちらを見ると――そこにはこの騒動の中心、エノハがたたずんでいた。

 エノハは人々の山を切り分けるように、まっすぐ進んでいくと、倒れて苦しんでいるファノンを見つけ、そこで何か考えるように、目を細めた――

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