123.再誕の時

 深夜3時のセントデルタ大病院。

 パケプケモンテンがまんじりともせずに、廊下の長椅子に腰掛けて腕組みして、何時間か経過したころ、ターコイズの分娩ぶんべん室前の扉の向こうから、にわかに大きな歓声と、それから少し遅れて産声が上がった。

「やった……やった!」

 パケプケモンテンは長椅子から立ち上がると、横開きの扉に張り付きたい気持ちを抑えながら、その寸前の位置で待ち構えた。

 10分ほどしてから、目の前の分娩室扉が開かれ、そこから女の看護師が手招きをしてきた。

「ついに生まれたんですね! 俺たちの子が!」

「はい、元気な男の子です。どうぞこちらへ」

 疲れと、それ以上の興奮をこめて、マスクと頭巾ずきんをかぶった看護師は答えた。

「はい……はいっ!」

 パケプケモンテンは、しっかりとした足取りで室内へ入った。

 そこでは、ピンク色の毛布をかけられた妻が、同じ色の毛布にくるまれた、ひとりの赤い顔の小さな小さな赤ん坊を、柔らかく抱きしめていた。

「よく頑張った……本当に……」

 パケプケモンテンはこぼれる涙を片腕でこそぐように拭うと、妻と子のかたわらへ近寄った。

 すぐに看護師が横に椅子を持ってきてくれるから、パケプケモンテンはそれへ腰掛け、子供を見つめる。

 生まれたばかりだからだろう、まだ、父母のどちらに似ている、とも言えない顔立ちだった。

 ――となりの旦那さんは、生まれた時から俺たちにソックリだった……とか言ってたけど、この子はそうでもないな。

 ――まあでも、そういう話も多いし、そのうち似てくるだろ。

 よぎった考えを洗い流し、パケプケモンテンは改めて妻のほうを見つめた。

「なあ、俺ずっと考えてたんだ。この子の名前」

「前から言ってたよね……やっと決まったの?」

「そうさ、エノハ様に敬意を示して、可愛い名前にしたんだ……パヨヨだ。いいだろ?」

「パヨヨね……可愛い響き……エノハ様もそういうネーミング、大好きだろうし、良いんじゃないかな」

 妻はやつれた顔に、満足の色を浮かべた。

「よし、決まりだ。お前の名前はパヨヨ。パヨヨ・パケプケモンテン……」

 そこまでパケプケモンテンが話したところで、だった。

 いきなり分娩室の扉がバンっと開いて、見知らぬ女が乱入してきたのである。

 ――いや、見知らぬ女ではなかった。

 その女は異常なほど無表情ではあったが……このセントデルタの女神エノハだったのである。

「間に合ったか……?」

 エノハは周りを見渡しかけたが、すぐにここにいる夫婦と子供に気づき、そちらへ近づいた。

「な、なんですか……?」

 この異常さをぎ取った妻が、子を守るように、パヨヨ・パケプケモンテンを胸に引き寄せた。

 これが朝であったり、病室であったりすれば、夫妻も喜んでエノハを迎えたはずだが、今は深夜の上に、場所も分娩室。

 エノハの行動には異常さと非礼さが満ちていたのである。

 だが、当のエノハに、そこを気にしている様子(というより、気にする余裕)はなかった。

「奴の言う通りだった……産まれた瞬間に私に教える、とは、このことだったか」

 エノハはあたかも何かの亡者のように、ヨロヨロとパケプケモンテン夫妻へ……いや、パヨヨに歩み寄っていく。

「エ、エノハ様! いったい何事ですか」

 父の使命を果たすために、パケプケモンテンがエノハの前に立ちはだかった。

 そこでようやく、エノハの足はとまった。

 心なしか、我に返った感じもあった。

「あ、ああ……不躾だった、すまない。あ……その、な。その子の名前はもう決まったのか?」

「はい、パヨヨと決まりました」

 けげんな表情を崩さず、父パケプケモンテンは説明した。

 子供が生まれるのは、長い時間を生きてきたエノハにとっては、きわめて日常的なことであり、業務的なもののはずである。

 べつにパケプケモンテン家はエノハと近しいわけでもないから、この時間にエノハが祝いに来る理由など、何一つないのだ。

 一国民の出産に、時間もわきまえずに国王が訪れることの、違和感。

 旧代で例えるなら、まさにこれだった。

「パヨヨか……それなんだが、私が考えた名前にしてもらえんか」

「え……いや……それは光栄ですが……」

 父母は困惑した顔で、たがいに目配せした。

 明らかに迷惑なことだったが、それを断れる相手でないことも、二人は承知していた。

 だから、二人はためらいがちながらも、ゆっくり頷いたのである。

「良かった……ならば、この子にはファノンと名付けてほしい」

「ファノンですか……?」

「そう、ファノン・ノモス・クロノスと」

「えっ? ファノン・パケプケモンテンじゃなくて?」

「あっ、いや……それでいい。そう、それがいい。そうだった」

 エノハは慌てた様子で、何度も首を振った。

「エノハ様、いったい……」

「そうだ……その……その子を、少しだけ私に抱かせてもらえないか」

「パヨヨ……ファノンを、ですか?」

「うむ、ダ、ダメならいい」

 エノハは終始しどろもどろだった。

 相手が自分以上に自信のなさそうなリアクションをしていると、見ているほうは少しばかり冷静になれるものである。

 父パケプケモンテンは、じっとエノハの様子を見守っていた母をもう一度見た。

 母のほうは、どっしりと落ち着きを取り戻していた。

「構いませんよ」

 母はファノンの首を支えるようにしながら、ゆっくりとその五体を、エノハに差し出した。

 エノハはおそるおそる、あたかも精巧せいこうなガラス細工でも持ち上げるように、ファノンを受け取ると、その身に抱き寄せた。

「ファノン……やっと……やっと……会えた」

 エノハは眠りにつくファノンの小さな顔を見つめ、言葉をさらに重ねた。

「私のすべては、お前のために……お前が、お前こそが、私の全てなのだ」

次話へ