124.女神エノハ

 ――話は現在に戻る。

 カチャ、カチャッと、遠慮かげんに、控えるような食器の音が、ファノンのまぶたの向こうから聞こえてきた。

「ン……」

 ファノンがうっすらと目を開けると、自分が青い羽毛布団に覆われた状態で、大の字に寝てもなお余る、巨大なダブルベッドに横たわっていることに気づいた。

 そこは自分の部屋でも、メイの町長室でも……ましてやセントデルタ病院の病室でもなかった。

 ファノンがいたのは『アレキサンドライトの塔のプライベートルーム』のある、最上階だったのである。

 そこはかつてファノンが5歳の時、白血病の療養のさいに過ごした場所でもあった。

 最上階はこのほか、扉と廊下をはさんで、いくつもの区画くかくに分かれていた。

 テラスをあつらえたエノハの執務室や、塔の見張りもできる管理室、病死寸前のファノンを救ったAI手術室、旧代のメインフレームの置かれた、セントデルタの中枢とも呼べる部屋……。

「ここは……」

 ファノンは首を左右に動かして、あたりを見回した。

 ファノンにはあまり興味の惹かれない、女物の服の入ったクローゼットが2架ほどと、ファノンが子供の頃に遊んだ積み木が籐のカゴに山になるほかは、あまり使われてなさそうなオープンキッチンと、町民から送られたというムートンのソファと、重そうな赤松のダイニングテーブルと……。

 だが、この部屋のレイアウトはさしおいて、我知らずファノンは、一つの扉を好奇心をこめて見つめていた。

 そこは何の変哲もないオパールの扉だが、その向こうに何があるのか、ファノンはよく知っていた。

「まだ漫画をやめていないのだな、ファノン。そこの扉の漫画、まだ読み足りないのか?」

 ファノンの横から、腰掛けていた一人の女がのぞきこんできた。

 ――女神エノハだった。

「エノハ様……」

 ファノンは自分の顔に陰をさす人物の名前を、複雑な感慨かんがいをこめてつぶやいた。

「無事で良かったな、ここの施設がなければ、死んでいる所だった」

「俺、いったいどうなったんだ? ナイフを刺してから記憶がない……」

「肺の大動脈までナイフは到達していた。普通なら致命傷ちめいしょうだ。旧代のほとんどの人間なら……つまり、金のない多くの人間なら、助かるはずがなかった。だがここのAI手術室のマシンアームなら、患者に金のことなど話しはしない」

「そうか……」

「なぜ、あんなことをした? 街のものは皆、ファノンがセップクをしたとか言っていた」

「……俺の心のボスは、大して痛そうにしてなかったから、俺もと思ったんだけど……メチャクチャ痛かった。もうやりたくない」

「心のボス? ああ、あの旧代の漫画のことか。まさか、それのマネをして、こうなったというのか? まさか、そんな理由で、そんな馬鹿げたことを?」

「そんな理由とか、馬鹿げたとか言うなよ……」

 ファノンはむすっとなった。

「お前は成長していたと思っていたが……変わっていない所もあるのだな」

「クリルが死んだりヨイテッツ親方が死んだり……それとは別に大切な物ができた。何かしら考え方が変わった部分もあるかもしれないけど……俺はやっぱり漫画の好きなサーバル・ファノン・キャットなんだよ。

 わかるだろ? ガン宣告を受けたからって、酒飲みのギャンブル好きが聖人になるわけじゃないし、マリファナを吸う子供を大人として認定したからといっても、そいつがマリファナを捨てて完璧な人間になるわけじゃあないんだ。成長なんて、少しずつでいい」

「ファノン……」

「といっても俺自身、クリルを失くしたときに、俺の趣味を、あいつのために副葬ふくそうしたつもりだったんだけどな」

「やはりお前は変わった。良い方向にな。だが改名は断じて許さんからな。さっきのサーバル・ファノンとは何だ?」

「ははっ……」

 ファノンは愛想笑いのような、乾いた笑いを上げてから、エノハを見た。

「まあいい……ほら、ファノン。紅茶を入れたぞ。今も好きだろう?」

 そう言ってエノハは、サイドテーブルの陶器のトレーに乗せた、ダイヤモンドのカップに入ったダージリンティーを手で示した。

 作られたばかりの、かすかに甘く暖かい紅茶の香りが、ファノンの鼻腔の奥へ進んでくる。

「ああ……昔から、ここでも家でも飲んでたものな。まったく……何をやってもクリルを思い出すから、きついってもんじゃないよ」

 ファノンはそう言いながらも、ゆっくりと上体を起こしてから、たんぽぽの絵の描かれたティーカップに手を伸ばした。

 それは、子供の時に使っていた食器のままだった。

「なあエノハ様……いまの街の状況、わかってるんだろ。この混乱と、その混乱を起こしている奴のこと……」

 ファノンは一口だけ紅茶を飲んでから、エノハに切り出した。

「タクマスか……奴は殺さねばならんとは思っている」

「なんとか穏便に済ませられないか? あいつだってここの住人だ」

 ダイヤモンドのティーカップをテーブルに戻し、ファノンはエノハを見つめた。

 エノハは始終、石像のように不動のままファノンを見下ろしていた。

 その理由はひとえに、彼女のボディが機械仕掛じかけだからである。

 表情もリアクションも身体言語も、意識的でないと起こらない。

 それがこの世界の神、エノハだった。

 ――クリルとかなら、こういう話でもちょこちょこ動作をまぜてくるんだけどな。

 ――あいつは笑ったり怒ったり、いつも忙しい奴だった。

 ――って、なんで今、クリルのことを思い出してるんだ、俺は。

「まあタクマスは仕方ないかもしれない。でも、あいつに従ってる人はどうするつもりなんだ。あの人たちはタクマスに扇動せんどうされてるようなものだ」

「扇動か――タクマスが死ねばほどけるものなら、罪には問うまい。だが、そうでなければ……私はひとつの決断をせねばならんだろう」

「彼らも裁くのか。何百人もいるかもしれないのに。それを殺せば、またその親族や友人が反体制の思想に染まるぞ。

 いったい、どうしたんだ、エノハ様。この500年の間で、タクマスみたいな奴は何度も現れたはずだ。それはいつも、今みたいに、大事になる前にカタをつけてきたんじゃないのか? なんで、タクマスをのさばらせた。あいつはあんたに殺されない間に、大きな勢力を築いたぞ」

「勢力を築く前に殺すべきだった? ふふっ、お前も言うようになった」

「普段のあんたなら、そうしたはずなのに、しなかった。それを教えてほしいだけだ」

「フォーハードがいなかったからだ」

「嘘をつけよ。フォーハードがいなくとも、あんたはタクマスという、出る杭を打ったはずだ」

「できない理由が、あったのだ……それを話すわけにはいかんのだよ。セントデルタの存続のためにはな。だが、起こってしまっていることは是非もない。神の裁断をおこなうのみだ」

「エノハ様……っうぐっ」

 ファノンはベッドから脚をおろし、立ち上がろうとしたが、胸の痛みに耐えかねて、前にのめることになった。

「無理をするな……お前はこの混乱には関係がない身だ。すべて、事が終わるのを見届けるのだ」

 のしかかるようにエノハに身体を傾けるファノンを支え、エノハは相変わらず、淡々と説明した。

「見届けろ、だと? もしかしたら、今回の反乱をするって連中には、仲間だって友達だっているかもしれない。それを黙って見過ごせと? 俺は……俺には、あんたを殺す力だってあるんだぞ」

「私を殺すか? それも良かろう。ただし浄化するのなら、アレキサンドライトの塔もろとも、やることだな。ここはもはや、セントデルタの象徴なのだからな――だが忘れるな。旧代を取り戻すことになれば、再びフォーハードは産まれる。お前達はみな、その時代を取り戻す魔王となるのだ」

 エノハはそこで、ファノンの右手首をつかんで、自分の左胸に引き当てた。

「……っ! エノハ様、何を!?」

「何を、ではなかろう。お前が今朝、ナイフで胸を刺したの同じことだ」

 エノハはためらいもせずに、自らの乳房にファノンの手のひらを当てつけていく。

 そこには、気迫と……いや、殺意に似たものさえ漂っていた。

 あきらかにエノハは、鋭い視線でファノンを射抜きながら語っていたのである。

「よく狙え、お前はひとりの神を殺すのだ」

「エ、エノハ様……」

 ファノンは言い淀んだ。

 エノハの気迫に気圧されたからではない。

 ファノンには、そもそもエノハに超弦の力を振るうことは無理なのである。

 本来は、激しい憎しみに反応する超弦の力。

 ただし今となっては、ファノンは超弦の力を無感情でも操れる。

 だがファノンの心を満たしているのは、憎しみでも無感情でもなく――エノハへの愛着である。

 これがタクマスになら超弦の力を使えるだろう。

 だが、自分の好きな相手を殺すのに、超弦の力は反応しないのである。

「ふっ……冗談だ」

 いきなりエノハはファノンの目の前で苦笑を見せた。

「言っただろう? 私は500年前のお前にも会っている、と。その時に超弦の力にも触れることができたし、その使用条件も、そばで見てきたつもりだ。お前が私に超弦の力を使えないことは、よく心得ているのだ」

「覚えてるよ……俺に会うためだけに、このセントデルタの維持を続けてきたってこともな」

「嘘ではないよ。私は、お前にそれを見てもらいたくて、ここの神などをやっているのかもしれん」

 エノハはファノンの手首を自らの胸から離すと、きびすを返して、執務室のほうへ歩き去っていった……。

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