夕方、自宅に戻った後も、モエクは足の踏み場もないほど本がかさばった自室で、ベッドに
いや、考えていたのではなく、悩んでいたのである。
その悩みとは、真実をロナリオに伝えるべきかどうか、という一点だった。
なぜ、そんなことを悩むのか。
ロナリオに伝えるかどうかが、モエクの進退を決定する、重要なことだったからである。
――ハナーニャさんのメモに書かれていた人物とは、おそらくゴドラハン。
『今日の22時にセントデルタ新聞社で待ちます。あの白人さんを助けるべきです』
――ハナーニャさんはあのメモに、そう続きを書いていた。
――だが……ゴドラハンは、助けるのはよしたほうが良いんじゃないのか?
――タクマスと僕が組めば、エノハを倒せるはずなんだ。
――人から隠れ、地下室で
――そんな陰湿な人物と組むことの、自分への嫌悪感。
――だが、僕がそれにさえ目をつぶれば。
――背を向ければ。
――見逃しさえすれば……未来が開けるはずなんだ。
――そうなれば当然、ゴドラハンという、見知らぬ他人は拷問の果てに死ぬだろう。
――それがどうだというんだ?
――人間1人の命など、この大局にあっては小事にすぎない。1人の命の向こうに、光と闇の世界が広がっているんだぞ。
――僕自身、まもなくアポトーシスの力で闇に帰るんだから、それまでの間、
――拷問好きの精神異常者などというタクマスの真実は、エノハ亡き世界を取り戻した後では、いくらでも
――僕はロナリオとともに、清流よりも潔白なタクマスという英雄を迎え、命を賭け、力を合わせ、悪の大魔王エノハを打ち倒す。
――民衆の力を借り、民衆の同意を得て、民衆の祝福を浴びて、僕は世界を開いた勇者として、死後もその名前を輝かせ続ける……。
――逆に、ゴドラハンを助ければ、どうなる?
――タクマスたちは自分の悪事が世間の前に明るみになるのを恐れて、軽挙におよぶはずだ。
――たとえ白人だからとて、エノハが拷問を許すはずがないからな。
――セントデルタの正義は執行され、拷問に参加したものは全員、聖絶される……とタクマスたちは考えるだろう。
――彼らは反乱を急ぐという軽挙におよぶしか、自分を生かす方法がなくなるんだ。
――だが実際のところ、ゴドラハンの素性を知る僕に、自警団への通報など、できるはずがない。
――タクマスたちのことを自警団へ通報すれば、ゴドラハンをエノハに引き合わせなくてはならないんだから。
――そうなれば元の
――とはいえ、僕のそんな事情をタクマスたちが知るはずはないから、必ず聖絶をおそれて反乱を急ぐはずだ。
――ゴドラハンを助けたあとは、僕も身を隠す必要があるが、おそらくそれをやっている数日の間に、僕に寿命がやってくる。
――その後のゴドラハンのことは心配していない。500年も逃げ延びたんだ。何とでもするだろう。
――たとえ僕がゴドラハンと関わっていたことがエノハにバレても、エノハのことだから、僕の預かり子のアエフを罪人とは扱わないはずだ。
――タクマスと組むか、ゴドラハンを救助するか。
――これが僕に迫る二択だ。
――ゴドラハンを助ければ、タクマスとの協力は望めないものになり……エノハ打倒は、僕の世代では果たせなくなる。
――そして、僕自身の命の残り火。
――もはや僕の寿命は、海に落ちたミミズと同じ。新しく本を書く時間も、未知の人と親友になるまで付き合うことも、新しい物事を始める時間も……許されてはいないんだ。
――ゴドラハンのことを、僕が知らないことにすれば……人類復活の早道につながるはずなんだ。
――僕が自分の罪悪感や正義感から目をそむければ、それが果たせるんだ。
――格差、貧困、差別、戦争……それらを座したまま、操り支配し制御する、既得権益者の強欲にまみれた世界。
――僕が望むのはそんな世界。
――それでも、金がなくても、病気でも、夢がなくても、幸福へ向き合える希望だけは残っていた、光と闇の世界。
――その未来は、僕の選択によって、浮くか沈むかが決まるんだ。
「僕は……」
ゴドラハンの処置をどうするか。
心では助けるべきだと確信しているが、頭ではそうするべきではないと答えが出ている。
モエクは帰ってからずっと、その二択を決めかねていたのである。
いくら思索をめぐらしても、いっこうに明確な答えが出ないことに、いよいよ焦燥をおぼえたモエクは、気分転換がてら、その部屋を出ることにした。
そして、ままよとばかりに、立ち止まったのは、アエフの部屋の前だった。
「アエフ……アエフ、いるかい」
遠慮がちにノックをしてから、モエクは扉の向こうの人物に語りかけた。
「モエク? どうぞ、入ってください」
静まり返った部屋から、アエフのトーンの高い声が返ってきた。
モエクはあたかも教師に
アエフはちょうど、窓向かいの机に座って、学校から出された宿題を片付けているところだった。
モエクはそれに興味がなかったから一瞥しただけだったが、教科書として用いられていたのは、相対性理論の解説書やアリストテレスの動物誌と、およそ12歳の子供には英才教育的なものが揃っていた。
「どうしたんですか、モエク。改まって」
アエフは椅子の向きはそのままに、身体だけ横のモエクのほうへ向き直った。
「いやね……少し相談に乗ってほしいことがあってね」
モエクは頬をかいた。
「モエクでもお答えが見つけられないなら、僕なんかには無理ですよ」
「卑下なんてするものじゃないよ。お前さんは充分、すばらしい人間だ」
「ありがとうございます……それで、どうされたんですか」
「あー……今ちょっと思いついたことなんだが……どうしても答えが出せなくてね。
たとえば、この家の隣で火事があったとしよう。お隣さんは煙と火にやられて、このままでは死んでしまう。その場合はどうする?」
「隣は空き家ですよ。右も左も」
「……そこは置いといて、だよ。仮の話さ」
「当然、助けに行きますよ。困る人がいれば助けるのは人間の本能です」
「じゃあ、同時に、遠いところの建物で、1000人くらいが火に巻かれていたら、どっちを助けに行く? どちらかしか助けられない、としたら?」
モエクは今の悩みを
こんな言い回しをモエクが選んだのは、アエフをこの戦いに巻き込まないためだった。
アエフにはエノハ打倒の話をしたことはあるが……それでも、アエフに自分のたどる過程は進んで欲しくなかったからだ。
モエクのように過去の寿命を羨み、過去の文明に焦がれ、過去の歴史を尊ぶなら……その先に生まれるのは、試練と挑戦の道となる。
――試練も挑戦も悪いものではない。
――だが、僕はアエフにはこの戦いは選んでほしくないんだよ。
「んー……それって、近くの1人を選ぶか、遠くの1000人を選ぶかって質問ですよね?」
11歳のアエフが、難しげに思考をめぐらせているらしく、腕を組んだ。
「……それでも僕は、近くの1人を助けに行きます」
「何でだい? それじゃあ、遠くの1000人が死んでしまうよ」
「いえ、ただ、助けなきゃいけない人間が1001人もいるのに、助ける人間が僕1人ってことがおかしい気がしたんです」
「どういうことだい? 思考実験だから、そこは気にしなくても良いよ」
「僕が仙人か隠者なら、1人でいてもおかしくありません。でも、街の中でしょう? 僕より力の強い人もいるし、僕より頭の回る人もいるし、僕より勇気のある人だっています。その人たちが何もしないなんて考えられない。
ファノンがいます。メイさんも、リッカさんも、ゴンゲン親方もモンモさんもいます。あの人たちが1000人の危機に何もしないとは思わない。僕は彼らに期待して、安心して近くの隣人を助けますよ」
「……そうか……その通りだね……ん?」
モエクがそう、狐につままれた気分で返事をした時だった。
いきなりアエフの目から、涙がこぼれはじめたのである。
「どうしたんだい、アエフ」
「モエク……あなたは隠しているつもりなんでしょうが……間もなく、なんでしょう?」
「間もなく、とは? わからない。教えてくれ」
モエクは珍しく取り乱し、まばたきを増やしながらも、椅子に座ったままメソメソし始めたアエフと視線を合わせるため、屈み込んだ。
「わかってるんですよ……あなたはもう長くはない。わかるんですよ、毎日顔を合わせてるんだから……あなたにアポトーシスの
「アエフ――それは」
モエクは言葉を詰まらせ、強い
ずっと暮らしていたアエフが、ずっと、モエクがいなくなる未来を憂えて耐えていたことを。
モエクが、それを放っておいたことを。
何ひとつ、伝えなかったことを。
「まったく……お前さんは、余計なことに気を回すね」
モエクは涙をぬぐって
「泣いてくれるなよ。死は僕らの摂理だ」
「いいえ、泣きますよ……あなたが泣かないんだから。だから僕が泣きます。泣く暇さえなくなった、あなたの代わりに」
涙で喉をつっかえさせながら、アエフは立ち上がった。
「アエフ……」
モエクは少しだけ成長したアエフの、それでもわずかに自分より低い背丈を見つめ、思案した。
――悲しいほどに、アエフは大人びている。
――気を利かせ、距離を考え、相手の最上の付き合いを模索する。
――いや、僕たち全員がそうなんだろう。
――子供じみることも許されず、急いで大人を目指し、走って疲れてもなお、休まずに生き急ぐ。
――そして、アポトーシスに連れられて、荷物をそこらに放ったまま、闇に帰っていく……。
――今の僕の悩み。
――クリルなら、スパっと答えたんだろう。
――しかし僕はクリルではないし、クリルのやり方では、自分の本懐が遂げられないことも、わかっている。
――僕はこうやって、悩みながら、悶えながら、それでもアエフみたいな子に助けられながら、最後まで生きるんだろう。
――やっとわかったよ。アエフが近くの1人を助けるべきだ、と言った意味が。
――それが、1人の人間にできることなのかもしれない。
――残りの1000人は……アエフのような子供に任せるべきだったんだ。
――ありがとう、アエフ。
――お前さんは、僕の自慢の子供だ。
「わかった……そうだな、話そう……話し合おう。時間はないが、何もかも。僕の思いの一部を、僕の希望の一部を……お前さんに託そう」
その日、モエクとアエフは、使える時間のギリギリまで話し合った。
それは3時間ほどの対話だったが、モエクにもアエフにも、一生の思い出となった。