126.死んだ後でも

 夕方、自宅に戻った後も、モエクは足の踏み場もないほど本がかさばった自室で、ベッドに仰向あおむけに寝そべりながら、腕を組んで、考えごとにふけっていた。

 いや、考えていたのではなく、悩んでいたのである。

 その悩みとは、真実をロナリオに伝えるべきかどうか、という一点だった。

 なぜ、そんなことを悩むのか。

 ロナリオに伝えるかどうかが、モエクの進退を決定する、重要なことだったからである。

 ――ハナーニャさんのメモに書かれていた人物とは、おそらくゴドラハン。

『今日の22時にセントデルタ新聞社で待ちます。あの白人さんを助けるべきです』

 ――ハナーニャさんはあのメモに、そう続きを書いていた。

 ――だが……ゴドラハンは、助けるのはよしたほうが良いんじゃないのか?

 ――タクマスと僕が組めば、エノハを倒せるはずなんだ。

 ――人から隠れ、地下室で拷問ごうもんにふける男への嫌悪感。

 ――そんな陰湿な人物と組むことの、自分への嫌悪感。

 ――だが、僕がそれにさえ目をつぶれば。

 ――背を向ければ。

 ――見逃しさえすれば……未来が開けるはずなんだ。

 ――そうなれば当然、ゴドラハンという、見知らぬ他人は拷問の果てに死ぬだろう。

 ――それがどうだというんだ?

 ――人間1人の命など、この大局にあっては小事にすぎない。1人の命の向こうに、光と闇の世界が広がっているんだぞ。

 ――僕自身、まもなくアポトーシスの力で闇に帰るんだから、それまでの間、辛抱しんぼうして、誰にも真実を話さなければ良いだけだ。

 ――拷問好きの精神異常者などというタクマスの真実は、エノハ亡き世界を取り戻した後では、いくらでも隠蔽いんぺいできる。

 ――僕はロナリオとともに、清流よりも潔白なタクマスという英雄を迎え、命を賭け、力を合わせ、悪の大魔王エノハを打ち倒す。

 ――民衆の力を借り、民衆の同意を得て、民衆の祝福を浴びて、僕は世界を開いた勇者として、死後もその名前を輝かせ続ける……。

 ――逆に、ゴドラハンを助ければ、どうなる?

 ――タクマスたちは自分の悪事が世間の前に明るみになるのを恐れて、軽挙におよぶはずだ。

 ――たとえ白人だからとて、エノハが拷問を許すはずがないからな。

 ――セントデルタの正義は執行され、拷問に参加したものは全員、聖絶される……とタクマスたちは考えるだろう。

 ――彼らは反乱を急ぐという軽挙におよぶしか、自分を生かす方法がなくなるんだ。

 ――だが実際のところ、ゴドラハンの素性を知る僕に、自警団への通報など、できるはずがない。

 ――タクマスたちのことを自警団へ通報すれば、ゴドラハンをエノハに引き合わせなくてはならないんだから。

 ――そうなれば元の木阿弥もくあみ。ゴドラハンは結局、処刑される。

 ――とはいえ、僕のそんな事情をタクマスたちが知るはずはないから、必ず聖絶をおそれて反乱を急ぐはずだ。

 ――ゴドラハンを助けたあとは、僕も身を隠す必要があるが、おそらくそれをやっている数日の間に、僕に寿命がやってくる。

 ――その後のゴドラハンのことは心配していない。500年も逃げ延びたんだ。何とでもするだろう。

 ――たとえ僕がゴドラハンと関わっていたことがエノハにバレても、エノハのことだから、僕の預かり子のアエフを罪人とは扱わないはずだ。

 ――タクマスと組むか、ゴドラハンを救助するか。

 ――これが僕に迫る二択だ。

 ――ゴドラハンを助ければ、タクマスとの協力は望めないものになり……エノハ打倒は、僕の世代では果たせなくなる。

 ――そして、僕自身の命の残り火。

 ――もはや僕の寿命は、海に落ちたミミズと同じ。新しく本を書く時間も、未知の人と親友になるまで付き合うことも、新しい物事を始める時間も……許されてはいないんだ。

 ――ゴドラハンのことを、僕が知らないことにすれば……人類復活の早道につながるはずなんだ。

 ――僕が自分の罪悪感や正義感から目をそむければ、それが果たせるんだ。

 ――格差、貧困、差別、戦争……それらを座したまま、操り支配し制御する、既得権益者の強欲にまみれた世界。

 ――僕が望むのはそんな世界。

 ――それでも、金がなくても、病気でも、夢がなくても、幸福へ向き合える希望だけは残っていた、光と闇の世界。

 ――その未来は、僕の選択によって、浮くか沈むかが決まるんだ。

「僕は……」

 ゴドラハンの処置をどうするか。

 心では助けるべきだと確信しているが、頭ではそうするべきではないと答えが出ている。

 モエクは帰ってからずっと、その二択を決めかねていたのである。

 いくら思索をめぐらしても、いっこうに明確な答えが出ないことに、いよいよ焦燥をおぼえたモエクは、気分転換がてら、その部屋を出ることにした。

 そして、ままよとばかりに、立ち止まったのは、アエフの部屋の前だった。

「アエフ……アエフ、いるかい」

 遠慮がちにノックをしてから、モエクは扉の向こうの人物に語りかけた。

「モエク? どうぞ、入ってください」

 静まり返った部屋から、アエフのトーンの高い声が返ってきた。

 モエクはあたかも教師にしかられにきた子供のように、ゆっくり扉を開けて、アエフの部屋に入室を果たした。

 アエフはちょうど、窓向かいの机に座って、学校から出された宿題を片付けているところだった。

 モエクはそれに興味がなかったから一瞥しただけだったが、教科書として用いられていたのは、相対性理論の解説書やアリストテレスの動物誌と、およそ12歳の子供には英才教育的なものが揃っていた。

「どうしたんですか、モエク。改まって」

 アエフは椅子の向きはそのままに、身体だけ横のモエクのほうへ向き直った。

「いやね……少し相談に乗ってほしいことがあってね」

 モエクは頬をかいた。

「モエクでもお答えが見つけられないなら、僕なんかには無理ですよ」

「卑下なんてするものじゃないよ。お前さんは充分、すばらしい人間だ」

「ありがとうございます……それで、どうされたんですか」

「あー……今ちょっと思いついたことなんだが……どうしても答えが出せなくてね。

 たとえば、この家の隣で火事があったとしよう。お隣さんは煙と火にやられて、このままでは死んでしまう。その場合はどうする?」

「隣は空き家ですよ。右も左も」

「……そこは置いといて、だよ。仮の話さ」

「当然、助けに行きますよ。困る人がいれば助けるのは人間の本能です」

「じゃあ、同時に、遠いところの建物で、1000人くらいが火に巻かれていたら、どっちを助けに行く? どちらかしか助けられない、としたら?」

 モエクは今の悩みを隠喩いんゆした。

 こんな言い回しをモエクが選んだのは、アエフをこの戦いに巻き込まないためだった。

 アエフにはエノハ打倒の話をしたことはあるが……それでも、アエフに自分のたどる過程は進んで欲しくなかったからだ。

 モエクのように過去の寿命を羨み、過去の文明に焦がれ、過去の歴史を尊ぶなら……その先に生まれるのは、試練と挑戦の道となる。

 ――試練も挑戦も悪いものではない。

 ――だが、僕はアエフにはこの戦いは選んでほしくないんだよ。

「んー……それって、近くの1人を選ぶか、遠くの1000人を選ぶかって質問ですよね?」

 11歳のアエフが、難しげに思考をめぐらせているらしく、腕を組んだ。

「……それでも僕は、近くの1人を助けに行きます」

「何でだい? それじゃあ、遠くの1000人が死んでしまうよ」

「いえ、ただ、助けなきゃいけない人間が1001人もいるのに、助ける人間が僕1人ってことがおかしい気がしたんです」

「どういうことだい? 思考実験だから、そこは気にしなくても良いよ」

「僕が仙人か隠者なら、1人でいてもおかしくありません。でも、街の中でしょう? 僕より力の強い人もいるし、僕より頭の回る人もいるし、僕より勇気のある人だっています。その人たちが何もしないなんて考えられない。

 ファノンがいます。メイさんも、リッカさんも、ゴンゲン親方もモンモさんもいます。あの人たちが1000人の危機に何もしないとは思わない。僕は彼らに期待して、安心して近くの隣人を助けますよ」

「……そうか……その通りだね……ん?」

 モエクがそう、狐につままれた気分で返事をした時だった。

 いきなりアエフの目から、涙がこぼれはじめたのである。

「どうしたんだい、アエフ」

「モエク……あなたは隠しているつもりなんでしょうが……間もなく、なんでしょう?」

「間もなく、とは? わからない。教えてくれ」

 モエクは珍しく取り乱し、まばたきを増やしながらも、椅子に座ったままメソメソし始めたアエフと視線を合わせるため、屈み込んだ。

「わかってるんですよ……あなたはもう長くはない。わかるんですよ、毎日顔を合わせてるんだから……あなたにアポトーシスの兆候ちょうこうが来てることなんて、僕はお見通しなんですよ……何で、言ってくれないんですか」

「アエフ――それは」

 モエクは言葉を詰まらせ、強い後悔こうかいに打ちひしがれた。

 ずっと暮らしていたアエフが、ずっと、モエクがいなくなる未来を憂えて耐えていたことを。

 モエクが、それを放っておいたことを。

 何ひとつ、伝えなかったことを。

「まったく……お前さんは、余計なことに気を回すね」

 モエクは涙をぬぐってうつむくアエフの肩を、優しく叩いた。

「泣いてくれるなよ。死は僕らの摂理だ」

「いいえ、泣きますよ……あなたが泣かないんだから。だから僕が泣きます。泣く暇さえなくなった、あなたの代わりに」

 涙で喉をつっかえさせながら、アエフは立ち上がった。

「アエフ……」

 モエクは少しだけ成長したアエフの、それでもわずかに自分より低い背丈を見つめ、思案した。

 ――悲しいほどに、アエフは大人びている。

 ――気を利かせ、距離を考え、相手の最上の付き合いを模索する。

 ――いや、僕たち全員がそうなんだろう。

 ――子供じみることも許されず、急いで大人を目指し、走って疲れてもなお、休まずに生き急ぐ。

 ――そして、アポトーシスに連れられて、荷物をそこらに放ったまま、闇に帰っていく……。

 ――今の僕の悩み。

 ――クリルなら、スパっと答えたんだろう。

 ――しかし僕はクリルではないし、クリルのやり方では、自分の本懐が遂げられないことも、わかっている。

 ――僕はこうやって、悩みながら、悶えながら、それでもアエフみたいな子に助けられながら、最後まで生きるんだろう。

 ――やっとわかったよ。アエフが近くの1人を助けるべきだ、と言った意味が。

 ――それが、1人の人間にできることなのかもしれない。

 ――残りの1000人は……アエフのような子供に任せるべきだったんだ。

 ――ありがとう、アエフ。

 ――お前さんは、僕の自慢の子供だ。

「わかった……そうだな、話そう……話し合おう。時間はないが、何もかも。僕の思いの一部を、僕の希望の一部を……お前さんに託そう」

 その日、モエクとアエフは、使える時間のギリギリまで話し合った。

 それは3時間ほどの対話だったが、モエクにもアエフにも、一生の思い出となった。

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