127.下界への視線

 文明を捨てたセントデルタには、電気もガスもない。

 夜の8時になるころには、セントデルタの街では種々の宝石窓から透けて見えていたロウソクの灯が、一つ二つと消えていくのである。

 街の灯す光よりも、夜空に寝そべる天の川のほうがまばゆい街、セントデルタ。

 原始のころの空を、人類は取り戻しているわけだが……それは決して、晴耕雨読せいこううどくの許された楽園ではない。

 文明はなく、進歩もなく、寿命まで絞られた世界。

 生前のクリルが、こう話していたことがある。

 ――だったら人間はなんのために生まれる?

 ――たしかに、生きる理由を答えられる人間なんて、いやしない。

 ――でも生まれた理由なんて、自分は『何か』をすために生まれた……と言えれば、それで良いんだよ。『何か』は『何か』のままでいいんだよ。

 ――このセントデルタにも、窓ガラスを作る人はいて、旧代で失われた農作物を復活させた人間もいる。

 ――だけど、それ以上のことができる可能性を、エノハは摘みとった。

 ――『何か』をできる可能性を、奪い去ったの。

 ――生まれる前も、死んだ後も、何も変わらない世界。

 ――その世界を続けたい人間がいるのも事実だけど……そうでない人間にとっては、けっして理想の世界とは呼べない。

 ――ファノン……あなたにとって、この世界は、どっち?

「…………」

 ファノンは胸の傷がうずくのにも構わず、アレキサンドライトの塔の最上階から街を見下ろしながら、クリルのことに思いをせていた。

 ――お前は、超弦の力を俺が振るうことは否定してたよな。

 ――エノハ様の統治には反対してたけど、その力を使って世界を解き放ちなさい、とは言わなかった。

 ――この力は俺を不幸にする、孤独にする……と、俺の心配ばかりしてたよな。

 ――お前は、俺と一緒にエノハ様の悪口を言うだけで良かったのか?

 ――いったい、どうして欲しかったんだ。

 ――わからない。

 ――だけど、一つだけ明らかなのは……俺が家に帰りたいってことだな。

「家に帰りたい、という顔をしているな」

 とつじょ、ファノンの背後から、低い女の声がかかった。

 ファノンがゆっくり振り向くと、数メートルうしろに、エノハが控えていた。

「何でもお見通しだな、神様ってのは」

「私は神を名乗るだけの、ただの人間だよ。だから騙されもするし、嘘を見抜けないこともある。赤いものを青いものと信じ、白いものを黒と名付けるのは、やはり人間なのだろう」

「……なあエノハ様。あんたは、俺の前世も知ってるんだったよな」

「その通りだ」

「だったら、今も俺の力は少しずつ強くなってることに、気づいてるんじゃないのか」

「……」

「フォーハードはまもなく復活する。だけど今度は、あいつが次元のはざまに逃げ込もうと力を込めた瞬間、俺にはあいつの位置がわかることだろう。それほどまでに、超弦の力は強くなってる。居場所さえわかれば、一瞬でフォーハードを仕留めるだけの力が、俺に備わってるんだ。

 その上あいつには、俺に寿命が来るまで待つ時間はない。なぜなら俺の力は、この瞬間にも、強くなり続けてる。最終的に、あいつが力を使おうと使うまいと、どこにいようと見つけることができるようになるんだ」

「奴はその前に、お前と戦わねばならん、というわけだ。自分が生きるためにな……だが、フォーハードが死ぬ時、このセントデルタも終わるだろう」

「やっぱり、あんたも気づいてたか。フォーハードなくしてこのセントデルタは続かないってことに。フォーハードの脅迫なくして、あんたの自制心だけではセントデルタの維持はできない」

「奴が生きていても、もはや私にセントデルタの神を続ける気力など、残っておらんよ……お前が生まれるのだけが希望だったのだから」

「だったらエノハ様、神なんて辞めちまえば良いじゃないか。タクマスは危険だけど、あいつ以外にもいるだろ。人間に決定権を返すんだ」

 ファノンはアレキサンドライトの手すりから両手を離し、執務室のある室内へ戻って、エノハと向かい合った。

「それもいいかもしれん……だが今はダメだ。タクマス……奴が騒乱を目論もくろんでいる今、奴と奴の残した芽だけは取り去らねば、旧代の悪弊が蘇る。

 奴の野心は、私やセントデルタだけでなく、他人も焼く。奴にできるのは、旧代の権益政治だけだ。

 もし奴がセントデルタを支配すれば、この反乱に参加した者に、ふさわしいかどうかも関係なしに地位を振り分ける気でいる。

 ――今でこそ言うが、私はリッカこそ次の神にふさわしいと思っていたのだ。だが、リッカはクリルが死んで以降、覇気がみるみる減っている。もはやあの子に神位を期待することはできん……そして私もまた、神としての気力を失いつつある今、考えていることがある」

「なんだ?」

「ファノン……お前が次の神になるのだ。お前が神としてセントデルタに君臨し続けるのだ。私の代わりにな。寿命については心配いらんぞ。ここには人間の寿命を外科的に永遠たらしめる機械が眠っている。かつてゴドラハンが受けた手術だ」

「お断りだよ、そんなの」

 ファノンは一考するそぶりも見せず、即座に首を振った。

「死は怖くないのか?」

「それは投げやりな決め方だよ、エノハ様。今まで俺にその話を持ちかけなかったのは、何のためだ? 人間の心が善にも悪にも、簡単に揺れ動くからだろう? 俺がこの超弦の力を、利己りこ的な理由で人々に振るえば、人々のほうに抵抗する力はない。もしも俺が永遠の命を手にして、今のあんたみたいに自暴自棄になれば、俺はその時、人々にこの超弦の力を振るうだろう。

 俺は自分がそうなるとわかっているのに、神になりたいなんて思わないよ」

「だから死を選ぶというのか? こんな提案を蹴るとは、お前もえらくなったものだな」

「挑発は効かないよ、エノハ様。フォーハードはこのセントデルタにあっては必要悪だった。だけどその必要悪は、必要悪をやり続ける理由がなくなってる。

 あいつの最大の目標は宇宙の消滅だったが、最近まで諦めていたにすぎなかったんだ。俺という、宇宙を静寂に返すための方法が見つかったんだからな。あいつが必要悪という役者を降りたいま、誰がセントデルタ最高神の座についても、その人物や後継者は、旧代をなぞることになるだろう……文明が復活し、そして、人は同じ失敗と、それに及ばないが成功や喜びも知ることになる」

「……フォーハードの倒れた後に、お前はどうするつもりだ」

「どうするかって? 俺は窓職人だ。フォーハードのいなくなった世界で、窓を作るに決まってる」

「そのまま二十歳の寿命を甘受かんじゅする、か。クリルもまた、お前の死を望んではいないぞ?」

「あんたにクリルの何がわかるんだよ」

 ファノンはバルコニーに続く横開きの窓を閉めた。

 その窓は、エノハの姿をモザイク調にかたどった、宝石製のステンドグラスだった。

「俺は、今のセントデルタが続く努力をしていくつもりだ。気力がなくなったからって、みんなの命を軽んじたりした時には……いくらあんたでも、許さないからな」

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