130.挟撃

「アブフウェー~~~っッ!!」

 モエクの細腕から繰り出された左拳は、まっすぐアイリッドの鼻に叩き込まれたが……やはり細腕は細腕、たいした威力にはならなかった。

 だがモエクは何度も何度も、アイリッドの鼻にパンチを繰り返したため、最後にはアイリッドも、上記の言葉を吐き、わめきながらうしろに下がったのである。

 しかもアイリッドにとって痛恨の失策だったのは、もだえた時に握っていたラピスラズリの小剣を、モエクの肩に刺したまま手放したことだった。

 モエクは反射神経こそ死に絶えているが、代わりに鍛え続けた状況判断能力は、モエクに正しい行動を常に選ばせることができた。

 モエクはラピスラズリの刀身をつかむと、思い切り右肩からそれを引き抜いた。

 鮮血がほとばしり、ぼたぼたと苔むした石床にシミを作っていくが、あたかも旧代の殺人マシーンのようにモエクの表情は変わらない。

 アポトーシスによって脳内をかけめぐるステロイドと、この状況を解決するために分泌ぶんぴつされるノルアドレナリンで、痛みが制限されているからである。

 その反応だけでもアイリッドに不気味さをおぼえさせたのに、さらにモエクはその小剣の取っ手を握り、切っ先をアイリッドのほうに突きつけていった。

 形勢は、逆転した。

 もとよりアイリッドの自信と尊大さの根拠は、武器を持っていたから、というだけだったのである。

「あっっ、あっっっ、うっっ、ぷふぁっ、えっっっっ………す、す、すいません、すいませんんんっっっ!!」

 アイリッドはずるずると後退したかと思うと、一目散に、出入り口の扉へと走っていった。

 そのアイリッドの姿が消え失せたところで、モエクはようやく小剣を下ろした。

「モエクさんっ、ああ……なんてこと……!」

 我に返ったハナーニャが、両手を口に当てて、震える涙声でわなないた。

「大丈夫だよ、ハナーニャさん……でも、こんな事になって確信したよ。彼を助けにきて良かった。君のおかげだ」

 モエクは熱い痛みが少しずつ右肩に生じるのを感じながらも、内心では苦笑していた。

 ――助けにきて良かった……か。

 ――まさに本心だが、彼女には訳がわからない話だろうな。

 ――ゴドラハンを見捨てるかどうかが、セントデルタが右に向かうか左に向かうかが決まるんだから。

 ――だけど、来て良かった。

 ――僕の生き方に背を向けることは、やはりするべきではなかったんだ。

 ――モエクとして生きて、モエクとして死ぬ。

 ――これで、良かったんだ。

「さあ、帰ろう、ハナーニャさん……あなたはとりあえず、僕の家にかくまうよ。そこに1人、女性がいるから、その人の部屋で一緒に寝起きしてもらうけど、良いかな?」

「モエクさん……」

「あと、ゴド……白人さん。お前さんもウチに来てもらう。待ってる人がいるからな」

「ああ……よろしく頼む」

 ゴドラハンは事情がおおよそ飲み込めたらしく、静かにうなずいた。

「決まりだね。ただ、アイリッドとかいう男が動いたのに、この建物の最上階で起居ききょしているタクマスが動かないのは気になる。急いで出よう」

 モエクがそう促し、退路を先んじてたどり始める。

 それに率いられて、ハナーニャ、ゴドラハンが続いた。

 そして、三者が階段まで戻ったところで、前列のモエクは、その上段のところに、ふたつの人影が立っているのに気づき、黙って再びラピスラズリの小剣を構えた。

 人影は、上半身にあたかも鎧のように筋肉をまとわせた、坊主ぼうず頭の男――ヨタンだった。

 ついでながら、その背後には、先ほど敗走したばかりのアイリッドが、なぜか誇らしげな顔でヨタンを盾にしていた。

「あっっ、あっっっ、こ、こいっ、こいつらですっ、やっぱり浸入してましたよっ、あっっ、ぼ、僕の言った通りだったでしょ? ね? ね?」

 アイリッドがすがりつくような姿勢で、ヨタンの耳に吹き込む。

 だがヨタンのほうは、無言でモエクたちを見下ろしたままだった。

 アイリッドのことなど無視し、モエクもまた、ヨタンを見上げる。

 ――ヨタン……この男も、タクマスの部下になったか。

 ――彼のことは、よく知っている。

 ――なんせ、小学校時代の同級生だったんだからな。

 ――その頃から暴力で物事をねじ伏せる人物だった。今でもそれは変わらないと見える。

 ――三つ子の魂百まで、とはよく言ったもんだ。

「人の家に侵入などとは、大胆なもんだな、陰キャのくせに」

 ヨタンは顎をしゃくって、階段上からモエクたちをののしってきた。

「小学校時代のあだ名を出されてもね。今さら、そんな言葉で僕の感情は動かないよ」

「ガキのケンカじゃねえんだ。今度はお前の本を隠す、ぐらいじゃ済まさねぇぞ。まさか、そんなオモチャの剣で俺を殺せると思ってんのか?」

「子供のころ、お前さんのことは傲慢ごうまんな奴だと思っていた。僕の本を盗んで売り飛ばしてくれたりもしたからね。だが違ったんだな。お前さんは傲慢なんじゃなく、卑屈なんだ。こんな深夜に、タクマスの番犬として、地下でワンワン吠えているんだからね」

「き、きさま……!」

 ヨタンは乱暴な足取りで階段を下りて、モエクの目の前に丸腰で立ちはだかってきた。

 だがその威圧感と存在感は、武器を握っていきがるアイリッドの比ではなかった。

「それだけ言ってくれたんだ。覚悟はできてるだろうなぁ?」

 ヨタンはわざとらしく、両手を胸の前で合わせ、指の骨をポキポキ鳴らした。

「お前さんのことは、今の今まで思い出しもしなかった。体力ではゴンゲンやヨイテッツに劣り、人脈もクリルやモンモに劣り……その果てが地下室の犬とは、よくできたもの……」

 最後までモエクは語れず、その握った小剣の腹が、ヨタンのパンチによって、叩き折られた。

「――!」

「暴力ってのァ、良いもんだと思うよ。いくら正論を重ねても、こっちが悪くても、勝ちさえすれば、相手はどんな権利も主張できなくなる。古来から力のあった奴ってのは、こうしてきたわけさ。

 企業なら自由競争の名の下に。政治なら正義の名の下に、な」

「お前が欲しいのはそれだけだってこと……」

 モエクのこの言葉もまた、最後まで言う前に、下腹部にヨタンの重いブローが突き刺さっていた。

「アォッ……ゴホっ……………!」

「へっ、暴力ってのは、本当に最高だ」

 ヨタンはモエクの耳元にそうささやきかけると、モエクのほうはよろよろと、その場にうずくまっていった。

 そしてヨタンは、ちょうど自分の膝元まで頭を下げたモエクの顔面へ、続けざまに蹴りを食らわせようとした。

 が、蹴り上げるモーションに入ったヨタンの向こう脛へ、横から乱入した別の誰かの足の裏が置かれたことで、ヨタンはモエクへの一撃を中断せざるを得なくなった。

 横から止めたのは、それまで後列でふらついていた、ゴドラハンだった。

「おっ、白人ヤロウ、2週間ぶりに部屋から出た気分はどうだい。白米だけの生活にも慣れてきたんじゃないか?」

「お前を見てると、けっきょくセントデルタは、こういう人間の輩出を止められなかったってことなんだと痛感するよ」

 ゴドラハンは鋭く言い捨てた。

「フォーハードを輩出したお前らに言われたくァないね」

 ゴドラハンに脚を踏みつけられていた格好のヨタンが、その脚を床に戻したかと思うと、すぐさまゴドラハンに殴りかかっていった。

 普段のゴドラハンなら、そのような勢いだけの攻撃など、たやすくかわしたはずだが、今のゴドラハンにはそんな動きは、不可能だった。

 この2週間、白米だけの食事しか与えられなかっただけでなく、両手を縛りつけられていたため、筋肉もかなり衰えていたのだ。

 結果として、ゴドラハンはヨタンの拳を見切りながらも、そのまま頬にもらう羽目になってしまった。

「ウグァッッ!」

 ゴドラハンは引き倒されるようにして、石床に滑り込んでいった。

「へっ、口だけじゃねぇか、てめぇら全員」

 ヨタンは拳をさすりながら、残ったハナーニャを、その長身で見下ろした。

「ヘハッッッ、とっ、とっ、当然の結果ヒャヘァーーー!」

 なぜだかそのタイミングで、ずっとヨタンのうしろで状況を見守っていたアイリッドが、奇声じみた叫びを上げた。

「ヨタンさん……アイリッドさん……もう、こんな事、やめてください……」

 一人、ハナーニャが涙目になって哀願あいがんをこころみると、ヨタンにもアイリッドにも、嗜虐しぎゃく的な笑みが浮かんだ。

 だがヨタンのほうは、すぐにほくそ笑むのをやめ、ハナーニャに強く凄んできた。

「ハナーニャ、この裏切り者め。明日の朝、すぐにタクマス社長に引き合わせてやる」

「そォだコルルルァ!!!!」

 ヨタンの勢いに乗って、アイリッドも吠える。

「お前ら3人とも、監禁室に戻れ。ゆっくりと新世界の秩序を教えてやる」

 ヨタンが監禁室に指をさす。

「そォだオルルルルァ!!!!!!」

 アイリッドがあわせる。

「アイリッド」

「なんだソルルルルァ…………あっっ、あっっ、ハイぃっ?」

 アイリッドの声音は、ライオンのような低いものだったのが、ヨタンに言われるや、いきなり小鳥のようなハイトーンになった。

「黙ってろ」

「あっっ……あっっ、はい……」

 アイリッドは怒られた飼い犬のように首をさげ、ヨタンの命令に服した。

 だがアイリッドの態度は、モエクのほうへ向くや、すぐにまた激しいものへと変わった。

「オイコルァ!! 聞こえってっったッッッろがッッッ!!! うしろ向いて、監禁室に戻れや!! ゴッッ、ゴキブリどもっっ!!」

「…………」

 モエク、ゴドラハンはよろめきながらも、立ち上がった。

 だがゴドラハンのほうは、初めから満身創痍そういだったためだろう、再びよろついて、壁にもたれかかった。

 それをハナーニャが支えようと、寄り添おうとしたところで……ヨタンがそのハナーニャの頬を手のひらで打った。

「アウッ!」

 叩かれたハナーニャは眼を固く引きつぶり、その頬を抑えて動きを凍らせた。

「お前……女性に手を挙げるとは……恥を知れ……ウっ」

 モエクが怒りのあまり、ヨタンに詰め寄ろうとしたが、逆にモエクは、ヨタンによって襟首えりくびを締め上げられ、壁に叩きつけられた。

「考えてもみりゃ、3人もここで飼うのは大変だわ。おいモエク、ガキの時からお前のことは気に入らなかったんだわ。ちょっと死んでもらうぜ」

「な――グ……!」

 モエクが何か言いかける間もなく、ヨタンはモエクの首を、その強大な握力で引き潰しにかかった。

 ――い、息が……!

 ――こんな……奴に……!

 モエクはねじり上げられる自らの首を救うために、ヨタンの身体に蹴りを入れてみたり、腕に爪を立てるが……そのどれもが、ヨタンの動きを止めるには至らなかった。

 ――ま……ず……い……。

 モエクの意思は、みるみる暗黒に飲まれ、やがて全てが黒に染まりかけたところで――

「待ちなさい」

 ヨタン、アイリッドの背後から、静かな女の声が割って入った。

 ヨタンはモエクの首をつかみ上げたまま、アイリッドはまたも気弱なギョロ目になりながら、その声のしたほうを見つめた。

 階段からゆっくり降りてきたのは、ニニナ――に扮したロナリオだった。

「じ、自警団……!」

 ヨタンとアイリッドの顔が、一気に青ざめた。

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