132.調律

 モエクたちは何とか帰宅を果たしたが、ニニナ(ロナリオ)を自警団詰所つめしょに飛ばして、タクマスの速やかなる逮捕に貢献する、という選択はできなかった。

 ニニナを自警団詰所に向かわせれば、必ずゴドラハンたちの危機につながるからだった。

 もしもロナリオを自警団詰所へ行かせると、この質問を受けることになるだろう。

 ――ニニナ? 今までどこで何をしていた? 死んでいたと思っていたが、違ったのか? タクマスが拷問ごうもんしていた? 信じられん……タクマスはクリーンな人間だ。で、その拷問を受けた人物とは、どこの誰だ? 旧代の白人? なら、その白人は大怪我おおけがをしているだろう? ならばもはやエノハ様の塔での処置しかあるまい、男を塔へ連れてくるのだ。

 となれば、その親切な申し出を断るには、ロナリオでも苦慮くりょするだろう。

 ――モエクに残る最善の手段は、ハナーニャに頼ることだったが……その前に、アエフが凄まじい剣幕で、傷の治療をすすめてきた。

 けっきょくモエクはそれを断れずに、アエフが自作した医療用ホッチキスで、傷口を縫い合わされることになった(そのあと、アエフはゴドラハンを寝かせているアエフの部屋へも、治療を施しにいった)。

 アエフがいなくなり、そこでやっとモエクは、ロナリオの部屋にかくまわれているハナーニャと話すことができた。

 だが、ハナーニャに自警団へおもむいてもらうためには、ゴドラハンたちの素性すじょうを話すことが必須条件だということを、モエクは心得ていた。

「……さっきのヨタンとの戦いの件ですが……あの白人男はゴドラハンで間違いなくて……それから、そこの女性は……あー、ホロコースターなんですよ。だから首だけで、ヨタンの頭蓋骨を粉砕したわけなんです」

 モエクは木の椅子に座って、少しばかり猫背ねこぜになった姿勢で説明したが、その声音こわねは弱々しかった。

 命のやりとりによる緊張から解放されたことと、急所をまぬがれたとはいえ、胸を刺されたことによる失血によるためだった。

「ホロコースター……? 彼女はラストマンの仲間だと言うんですか?」

 ハナーニャがベッドに腰掛け、無言で直立するロナリオを一瞥いちべつするが、ロナリオのほうは石像のように、ハナーニャを無表情で見つめ返すだけだった。

「たしかに……ホロコースターというところまでは信じましょう。私の目の前でニニナの顔から変形して、今の顔になったのを見せられては」

「ありがとう……」

 それからモエクは、さらにゴドラハンについての情報をハナーニャに打ち明けていった。

 それはモエクが、ハナーニャもまた、セントデルタの解放を望んでいるからだと予想していたからだった。

 ――でなくては反エノハ派の、タクマスのそばにいるはずはないからね。

 ――とはいえ、真相のほうには自信はない。なにぶん機微に満ちた人心のことだから。

 ――やれやれ……僕はギャンブルなんて好きじゃないんだけど、人生の最後に、やたらと危ない橋を渡っているな。

 ――これだって、ハナーニャさんがエノハへの敬愛を忘れていなければ、かなり危険な選択になってると思うよ。

「そういうことなのですね……」

 ハナーニャの反応からは、半信半疑の雰囲気は消えなかった。

「ですから……ロナリオをニニナに化けさせて、人々にタクマスの反乱を伝えることは、できないんです……だから、そのへんは……申し訳ないが、あなたにお願いしたいんです」

「……良いんですか? 私はタクマス社長を、自分の良心のために裏切った女ですよ? 私が自警団へ……享楽きょうらくの王ゴドラハンと、その部下のホロコースターさんの話を流すかもしれません」

 ハナーニャの言葉に、ロナリオがぴくりと動きかけたが、モエクが小さく片手をあげていさめ、代わりに返事をけ負った。

「……わざわざ、そんなことを自白するんだ。あなたにそんなことをする気はないでしょう? 僕もゴドラハンも、真実を打ち明けるという方法がもっとも、あなたにとって納得できる理由だと判断したんです……それに、ここからは、エノハのいなくなった後の話なんですけどね」

 モエクはそこで、長袖をめくって、自分の腕を見せた。

 そこには、アポトーシスによるふやけが、二の腕にまで散らばっていた。

「モエクさん……それは……!」

 それにはさすがのハナーニャも、顔を一気に青ざめさせて、ベッドから立ち上がってきた。

 その瞳は動揺どうようにブレながら、モエクの顔と腕を見比べていた。

「これから、あなた方が作る世界が、どんなものになるかはわからない。僕はエノハ亡きあとの世界が、民主主義になろうとも共産主義になろうとも構いやしないんですが……言論の統制だけは良くない……それは、必ず大勢の不幸を呼ぶ。残念ながら、言論の封殺はどっちの主義でもやっていたことです。

 思えば旧代は、あまりにも情報が抑制されすぎ、かたよりすぎていた。そこに金の溝が生まれ、格差が生まれ、貧困が生まれ……フォーハードが産まれた――

 これからの時代は、ハナーニャさんが一翼となるのでしょう……アポトーシスに消える僕の言葉を、頭の片隅に置いてもらえると嬉しいです」

「……そんな……モエクさん……」

 ハナーニャの瞳に、わずかに涙がにじんだ。

「……と、まあ……中々に卑怯ひきょうでしょう? こんな物を見せられちゃ、あなたの良心に二択を突きつけることになるんだから」

「……まったくです……あなたは、卑怯すぎです」

 ハナーニャは、そこで無理に微笑ほほえんだ。

「その……モエクさん……お願いがあるんですが」

「何でしょう?」

「私のことは、呼び捨てで構いません。一緒に、あんな危険な場所から帰ったんですから」

「ん、あー……わかりました。それなら、あなたも僕のことはモエクと呼び捨てで構いませんよ」

「はい、モエク。それから……あなたにプレゼントしたいものが」

「プレゼントですか?」

「はい。少し、目をつぶってもらえませんか?」

「……? はぁ……」

 座っているモエクは、ハナーニャに言われる通りに、まぶたを閉じた。

 そしてしばらく、闇の景色を見つめたままでモエクが待っていると――そのくちびるに、何か柔らかいものが当たったのに気づいた。

「……!?」

 モエクがびっくりして目を開けると、すぐそこには、顔を上気で赤らめるハナーニャが立っていた。

「ハナーニャさん……!?」

「呼び捨てでお願いします、モエク」

 ハナーニャはもじもじとした後、両手をうしろに組んで、はにかんだ顔で笑いかけた。

「それじゃ私、自警団詰所へ行ってきます。まだまだ、お話を聞かせてくださいね」

 ハナーニャは一瞬だけ、横で見ていたロナリオに、いたずらっぽい笑みを投げてから、モエクの返事を待つこともなく扉を開けて、トタトタと早足で去っていった。

「…………っ」

 モエクは立ち尽くしたまま、みずからの唇を、しばらく触っていた。

 横では、その様子をまざまざと見せられたロナリオが、例の無表情のままながらも、居心地が悪そうに目線を泳がせていた。

「……ロナリオ、今のできごとを、君の記憶から消しておくことはできるかい? ただでさえ、すごい体験だったのに、それを誰かに見られてると思うと恥ずかしくてね」

 モエクは真っ赤な顔で、立っているロナリオにたずねた。

「できますが、良いのですか? 私は別に、あなたのプライバシーを死後に語って笑ったりはしませんが」

「あー……じゃあ、記憶はそのままでいいや」

 モエクは頬をかいてから、続ける。

「うん……アポトーシスの向こうまで持っていけそうなプレゼントだったよ……」

 しゃに構えてそうひとりごちたモエクだったが、その抑揚よくようは上下に震えていた――

次話へ