138.チェルノス

「オ・テオス、イクトロス、アタナトス……誰か……誰か…………いないか……だれか…………」

 早朝の濃霧のうむのごとき湯気ゆげの中を、タクマスはあてどもなく、力なく、よたつきながら、さまよっていた。 

 ただしその湯気は、真っ赤に染まったもので、とてつもなく血なまぐさい味と匂いと、そして粘度をともなっていた。

 タクマスの足が地面を踏むごとに、ねばつく血だまりがピシャンと音を鳴らす。

 呆けたように、ただアレキサンドライトの一階を進むタクマス。

 タクマス自身もまた、左肩から先を切り落とされており、その傷口はのれんのように垂れ下がった皮膚のせいで、見えなかった。

 そして、右手ではそのもげた腕を、いったいどうするつもりなのか、弱々しく握りしめていた。

「アグラ……アメン…………だ、れ、か…………」

 タクマスはしゃべり終わる前に、誰かの胴体に足をとられて、ドシャっと血だまりに倒れこんだ。

 そのはずみに、自らの肩から離れた左腕を取り落としたので、それに手を伸ばしかけたところで……その目の前に、アイリッドが横たわっているのに気づいた。

 アイリッドは、満面の笑顔で固まったまま、腹を大きく裂かれ、脾臓ひぞうから直腸までぶちまけた有様をさらして……すでに絶命していた。

 アイリッドは真っ先にこの場から逃げたはずなのに、なぜか、このエントランス中央に死体を転がしていたのである。

 つまり、ここから逃げられた人間は、いないのだ。

「くっそ……なぜ……なぜだ…………」

 タクマスにはもはや、立ち上がるだけの体力も血液も足りず、また血だまりの中に腹から自らを叩きつけていった。

「グッ……ごぼっ……ゴホッッ」

 肺にも相当な打撃を負っているらしく、タクマスは強くき込んでから、仰向あおむけに体勢を変えると……そのタクマスを見下ろす形で、一機の機械兵が、無言で見下ろしていた。

「お、ま、え……が」

 もはや動作らしい動作もかなわないタクマスは、寝そべったまま機械兵をにらみつけた。

 この機械兵による、あの体当たりをもらう直前。

 機械兵がエレベーターから現れたとたん、タクマスだけでなく、おそらく全員が、五体がいちじるしく重くなるのを感じたのである。

 蛇ににらまれるカエル、というような意味ではない。

 文字通り、身体が地面に沈みそうなほど、理科学的に、自重が増したのである。

 どんな武器を使ったのか、見当もつかない。

 だが、間違いなく、この兵器は、ラストマンよりはるかに強い、ということだけはタクマスにもわかっていた。

「まだ動く者がいたと思えば、お前か、タクマス」

 機械兵の巨体の陰から、低い女の声が聞こえた。

 その機械兵のそばには、エノハがたたずんでいたのである。

「エノ……ハ……」

 タクマスは右手を持ち上げ、エノハに伸ばしたが、その指は宙空をもがくだけだった。

 すでに視界はゆらぎ、何度も暗闇がかかっていた。

「わかっただろう?」

 エノハはタクマスを見下ろしたまま、淡々と語った。

「いま、お前の身体をむしばむ痛みと寒気は、旧代に蔓延まんえんしていたものだ。

 それは戦争で殺される、旧代の兵士が味わったもの。あるいは犯罪やテロに巻き込まれて死ぬ市民が体験したもの。あるいは自由競争の名の下に敗れ、自殺を図る人物の最期……。

 お前はその命をして、旧代をのぞきこめたわけだ。念願が叶ったな」

「旧代を成り立たせたのは、それだけではない……お前の……やることは……独裁だ…………人の未来をふさぎ、希望をくじき……独立をはばむ…………悪の思想…………」

「独裁こそが、もっとも民主的だ……と語ったのはカントだそうだな。たしかに私は一人だからこそ、他人の幸福を真剣に考えることができ、なおかつ、それを誰にも邪魔も妨害もされずに実行できるのだからな」

「赤ん坊が自力で立つことを良しとしない世界を、俺は……とする気はないね…………」

「お前たちに自立心など無用だ。自分を賢いと思いこんだところで、やることは空費ただ1つ。

 腹の減る前に飯を食い、喉の乾く前に水を飲み、欲しくもないのに物を求め、使いもせずに買い、欲のままに奪い、あげく奪ったことを正義と名付け、そして不必要となれば、自分の見えない場所に捨てる……。

 勝手放題を人間最大の美事とする世界など、永遠に来ぬほうが良い」

「その世界に……ひとつだけ、存在するものが、あるぞ……それは………希望、だ」

 タクマスは両脚に力をこめ、再び立ち上がろうとする。

「信じられん……それだけの出血をしながら、まだ立ち上がるか」

 エノハが眉をひそめながら言う。

 そのエノハの前に、機械兵チェルノスが盾のように割り込んだ。

「エノハ、下がれ」

 チェルノスが背中のエノハに語るが、その合成音声は、なぜだか甲高かんだかい少女のものだった。

「そのまま家に帰んな」

 チェルノスは目の前に立つタクマスに向け、まさに『可愛らしい少女のような声』と、それに不釣合ふつりあいな、粗野そやな口調でげた。

「お前は戦士じゃあない。しかも戦う力もないなら、もはや俺が出るまでもない。そのまま塔を出て、そのズタズタの身体を街の連中に見せてやるんだな。奴らはそんなお前を見て恐怖におののき、改めてアレキサンドライトの塔が難攻不落なんこうふらくと思い知る機会になるだろうさ。何人かは、ちゃんとお前の身体の心配もしてくれるだろう。誰かに看取みとってもらう、最後のチャンスぐらいやろうってんだ」

 チェルノスは脅迫きょうはくとも手心てごころとも取れる文句とともに、タクマスのうしろに開く、街への出入口を指差した。

 だが、かんじんのタクマスのほうは、もう耳も目も使い物にならないのだろう、立ち尽くしたまま、少しエノハからズレた方向を見たままだった。

 そんなタクマスを見て、エノハは沈黙したまま首を振ると、横のチェルノスにわずかに目配めくばせを送った。

 その仕草しぐさの意味を理解したチェルノスが、驚くほど足音もなく、その3メートルの巨体をタクマスのそばに進ませた。

 タクマスはうなだれるのみで、もはや身構えるそぶりもない。

 そんなタクマスに向けて、チェルノスは腕を振りかぶり、その細い首をはじきとばす理想の角度で、拳を放った。

 ――だが。

 チェルノスが振りかざすその一撃は、とつじょ、引き止められることになった。

 タクマスとチェルノスの間に、突然、鉄の壁が現れたのだ。

 しかもその壁は、チェルノスの右腕を埋め込むような形で生成されたのである。

「――!!! これは」

 チェルノスはあわてて腕を、その1メートルにおよぶ厚さの、鉄のモノリスから抜こうとした。

 それはあっさり抜けたが……チェルノスの腕は、その肘に付随ふずいしてこなかった。

 チェルノスの腕はこの鉄の板と同化していた――いや、鉄の板そのものになっていたのだ。

「こんな芸当ができるのは、一人しかいねえな」

 チェルノスは嬉しそうな声音で、中央エレベーターの方にカメラアイをずらした。

 そのエレベーター内にはファノンがいたが――その顔は、このエントランスに広がる惨状さんじょうの当たりにしたためだろう、青ざめ、ふるえていた。

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