「オ・テオス、イクトロス、アタナトス……誰か……誰か…………いないか……だれか…………」
早朝の
ただしその湯気は、真っ赤に染まったもので、とてつもなく血なまぐさい味と匂いと、そして粘度を
タクマスの足が地面を踏むごとに、ねばつく血だまりがピシャンと音を鳴らす。
呆けたように、ただアレキサンドライトの一階を進むタクマス。
タクマス自身もまた、左肩から先を切り落とされており、その傷口はのれんのように垂れ下がった皮膚のせいで、見えなかった。
そして、右手ではそのもげた腕を、いったいどうするつもりなのか、弱々しく握りしめていた。
「アグラ……アメン…………だ、れ、か…………」
タクマスはしゃべり終わる前に、誰かの胴体に足をとられて、ドシャっと血だまりに倒れこんだ。
そのはずみに、自らの肩から離れた左腕を取り落としたので、それに手を伸ばしかけたところで……その目の前に、アイリッドが横たわっているのに気づいた。
アイリッドは、満面の笑顔で固まったまま、腹を大きく裂かれ、
アイリッドは真っ先にこの場から逃げたはずなのに、なぜか、このエントランス中央に死体を転がしていたのである。
つまり、ここから逃げられた人間は、いないのだ。
「くっそ……なぜ……なぜだ…………」
タクマスにはもはや、立ち上がるだけの体力も血液も足りず、また血だまりの中に腹から自らを叩きつけていった。
「グッ……ごぼっ……ゴホッッ」
肺にも相当な打撃を負っているらしく、タクマスは強く
「お、ま、え……が」
もはや動作らしい動作もかなわないタクマスは、寝そべったまま機械兵をにらみつけた。
この機械兵による、あの体当たりをもらう直前。
機械兵がエレベーターから現れたとたん、タクマスだけでなく、おそらく全員が、五体が
蛇に
文字通り、身体が地面に沈みそうなほど、理科学的に、自重が増したのである。
どんな武器を使ったのか、見当もつかない。
だが、間違いなく、この兵器は、ラストマンよりはるかに強い、ということだけはタクマスにもわかっていた。
「まだ動く者がいたと思えば、お前か、タクマス」
機械兵の巨体の陰から、低い女の声が聞こえた。
その機械兵のそばには、エノハがたたずんでいたのである。
「エノ……ハ……」
タクマスは右手を持ち上げ、エノハに伸ばしたが、その指は宙空をもがくだけだった。
すでに視界はゆらぎ、何度も暗闇がかかっていた。
「わかっただろう?」
エノハはタクマスを見下ろしたまま、淡々と語った。
「いま、お前の身体をむしばむ痛みと寒気は、旧代に
それは戦争で殺される、旧代の兵士が味わったもの。あるいは犯罪やテロに巻き込まれて死ぬ市民が体験したもの。あるいは自由競争の名の下に敗れ、自殺を図る人物の最期……。
お前はその命を
「旧代を成り立たせたのは、それだけではない……お前の……やることは……独裁だ…………人の未来を
「独裁こそが、もっとも民主的だ……と語ったのはカントだそうだな。たしかに私は一人だからこそ、他人の幸福を真剣に考えることができ、なおかつ、それを誰にも邪魔も妨害もされずに実行できるのだからな」
「赤ん坊が自力で立つことを良しとしない世界を、俺は……
「お前たちに自立心など無用だ。自分を賢いと思いこんだところで、やることは空費ただ1つ。
腹の減る前に飯を食い、喉の乾く前に水を飲み、欲しくもないのに物を求め、使いもせずに買い、欲のままに奪い、あげく奪ったことを正義と名付け、そして不必要となれば、自分の見えない場所に捨てる……。
勝手放題を人間最大の美事とする世界など、永遠に来ぬほうが良い」
「その世界に……ひとつだけ、存在するものが、あるぞ……それは………希望、だ」
タクマスは両脚に力をこめ、再び立ち上がろうとする。
「信じられん……それだけの出血をしながら、まだ立ち上がるか」
エノハが眉をひそめながら言う。
そのエノハの前に、機械兵チェルノスが盾のように割り込んだ。
「エノハ、下がれ」
チェルノスが背中のエノハに語るが、その合成音声は、なぜだか
「そのまま家に帰んな」
チェルノスは目の前に立つタクマスに向け、まさに『可愛らしい少女のような声』と、それに
「お前は戦士じゃあない。しかも戦う力もないなら、もはや俺が出るまでもない。そのまま塔を出て、そのズタズタの身体を街の連中に見せてやるんだな。奴らはそんなお前を見て恐怖におののき、改めてアレキサンドライトの塔が
チェルノスは
だが、かんじんのタクマスのほうは、もう耳も目も使い物にならないのだろう、立ち尽くしたまま、少しエノハからズレた方向を見たままだった。
そんなタクマスを見て、エノハは沈黙したまま首を振ると、横のチェルノスにわずかに
その
タクマスはうなだれるのみで、もはや身構えるそぶりもない。
そんなタクマスに向けて、チェルノスは腕を振りかぶり、その細い首をはじきとばす理想の角度で、拳を放った。
――だが。
チェルノスが振りかざすその一撃は、とつじょ、引き止められることになった。
タクマスとチェルノスの間に、突然、鉄の壁が現れたのだ。
しかもその壁は、チェルノスの右腕を埋め込むような形で生成されたのである。
「――!!! これは」
チェルノスはあわてて腕を、その1メートルにおよぶ厚さの、鉄のモノリスから抜こうとした。
それはあっさり抜けたが……チェルノスの腕は、その肘に
チェルノスの腕はこの鉄の板と同化していた――いや、鉄の板そのものになっていたのだ。
「こんな芸当ができるのは、一人しかいねえな」
チェルノスは嬉しそうな声音で、中央エレベーターの方にカメラアイをずらした。
そのエレベーター内にはファノンがいたが――その顔は、このエントランスに広がる