アレキサンドライトの塔、二階正面にある、応接広間。
このアレキサンドライトの塔はエノハが建てたものではなく、もともとはこの地から輩出された与党の幹事長という人物が、当時、世界的に有名だった建築アーティストに依頼して作らせたものだ。
敷地面積は1ヘクタール、つまり100メートル×100メートルで、塔の高さは236メートル。
当時はデパート・ビルディングとしてスタートしたらしく、一階エントランスは背の高い窓ガラス(現在は薄いアクアマリン宝石窓)になっており、間取りの広い通路が、エレベーター脇の階段まで伸びている。
当時そこではブティックや宝飾品、靴などが飾られる高級ショップが並んでいたそうだが、現在はそれらはなく、通路上やアクアマリンガラスの向こうには、小型雑務ロボットがせっせとそれらを磨き、あるいは、窓の向こうには、人々が運んだものだろう、街の新聞や書物などが、分別前に積み重ねられている。
周囲を飾るものといえば、外装と同じアレキサンドライトの宝石壁面と、その壁を薄暗く照らす太陽光発電のランプに、なにか太いチューブやコードに繋がれた、天吊式のセントリーガンが8丁(
そして二階は、もとは雑貨や家具などが展示された空間だったらしく、それらを取り払った現在は、ひたすらだだっ広い広間に低めの牛皮ソファが、低いテーブルをはさんで向き合っていた。
ここが殺風景なのは、これからも積み重なっていくセントデルタの歴史の中で、多くの新聞や書物などが増えていく時のため、室内にゆとりを持たせているためだ。
エノハ自身があまり調度品にこだわりがないため、というのもある。
当人いわく、人間だったころから、あまりにも物のない中で用を満たしていたため、もう慣れてしまったそうだ。
ただ現在、その二階応接広間の、ソファの背もたれに片手を置いているエノハは、すこぶる機嫌が悪かった。
理由はふたつ。
ひとつは、いま目の前で、敗残兵のように後ろ手に縛られて膝をつくノトから、ファノンの力の暴走を聞いたこと。
そしてもうひとつは、クリルからの報告で、フォーハードがファノンへの接触をしたと聞かされたこと。
その話を聞いたときから、エノハはずっとこの表情だった。
「殺人未遂にもかかわらず、一週間の独房という寛大な処置、痛み入ります……ですが、それならあの男もそうなるべきでしょう」
ノトはみずからに刑の執行が課されたにも関わらず、興奮ぎみに進上した。
「あの男……? どの男のことだ」
エノハはいつもは使わない、意地悪げな言い方で聞き返した。
殺人未遂の罰は、ほんらいは一週間どころか、2年から5年。
それを一週間にしたのは、ファノンに課される罪と相殺したからだ。
ノトが一週間の独房入りなのに、ファノンはお咎めなしなのにも、理由があった。
わずかにノトのほうが罪が重かったのは、ファノンは異形の力でノトを焼く直前、幼馴染の一言でやめたのに対し、ノトのほうは、力でねじ伏せられなければ、殺人を果たす気だった、という違いにある。
ファノンはともかく、ノトが世間に出れば、また殺人を働く可能性がある。
それでも処罰を軽くしたのは、自警団長リッカのためだ。
フォーハードが暗躍するいま、大権を持つリッカの弟に厳罰を処して、リッカの気概をそこねることは避けたかった。
それに、ノトの罪を重くすれば、おのずとファノンにも数年の禁固を言い渡さないとならない。
時空をまたぐフォーハードなら、どこにファノンがいようと、そこに行って、ファノンに
ファノンが暗い独房の中で、ほとんど何もできない中で、毎日フォーハードの闇の信念を説かれれば、どうなるだろう。
フォーハードはかつて、自分が資本を得るために石油王を洗脳した経歴がある。
意見の違う、赤の他人の力を自分のために使うには、洗脳はたしかにひとつの手段だ。
それを、フォーハードがやらない理由がなかった。
つまり、ファノンを一人にはできない。
ファノンを、セントデルタを守るため、エノハは初めて、政治的な理由でノトの罪を軽くする決定を下したのである。
これまでにない最悪な状況と、そのためにみずからの理念を曲げなくてはならない自己嫌悪が、エノハを苛立たせるのである。
「ファノンです。あの男は化け物です。あれが生きていると、大勢の人々が死ぬことになります!」
そんなエノハの内心を知らないノトが、前のめりになりながら吠えたが、ノトの腕を縛る紐をにぎるリッカが、馬の手綱を引くように、その動きをいましめた。
「それをお前が言うか。お前が生きていることでも、少なくとも確実にふたり、つねに死の危険が迫っていることになるのにな」
「そ、それがエノハ様の意思に反するなら、私はもう、そのようなことはしません!」
「ほう、神の前で誓いを立てたな? もしも破れば、次こそ厳罰だぞ……もうこれ以上、話すこともない。連れていけ」
「……はい」
リッカがうなずくと、白いオパールの扉のそばに控えていた二人の自警団員が、ノトの両脇をつかんで、入ってきた扉から出て行った。
その扉は過去にあった自動扉というもので、手の力を用いなくとも、勝手に左右にスライドして通行人に道をゆずった。
広間には、エノハとリッカだけとなった。
だがエノハはまだ考えがまとまらず、うつむいて考えこんでいた。
「あの……エノハ様……どうしてノトの罪を、あれほどまでに軽くなされたのですか?」
「厳罰にして欲しかったのか? 弟にも手厳しいな」
「いえ、そういうわけでは……でもファノンへの配慮だけでは、それが説明できない気がするんですが」
「そうだな……お前たち自警団には語っておこうか」
エノハが顔を上げてリッカをまっすぐ見つめたから、リッカもわずかに背をただした。
リッカはこんな表情のエノハなど、見たことがなかった。
「……フォーハードが、この街に潜伏している」
「フォーハードが? 史上最凶の殺戮者ですが、あれは500年前の人間ですし、自分の設置した水爆で死んだはずです」
「今さら隠してもしょうがないな。奴には超能力がある。時間と空間をワープする力だ。南極を水爆で破壊した時、奴は時空を飛んで逃げおおせたのだ」
「……にわかには信じがたい話ですが……つい二日前にもファノンの力を見たばかりだし……それにエノハ様のお話だからこそ信じます」
「ありがとう、説得の手間がはぶける」
「フォーハードだとして、私たちはどうすれば。まずは触れを出して、フォーハードが生きてこの街に隠れているから、見つけ次第、通報を、と言うべきでしょうか」
リッカは心細げに進言した。
ツチグモにも臆さず攻撃をこころみたリッカでも、さすがに100億の人間を相手にしたフォーハードには
「それは無用の混乱と不安をまねく。それに奴を刺激すれば、破壊作業の続きを始めることだろう。奴にとって、たかだか1万人のセントデルタ人を全滅させるなど造作もない」
エノハは顎に手を添えながら神意をのべたが、それは誤りだったと、あとで悔いることになる。
いまフォーハードは、道端で出くわした子供に施術をおこなわれ、生死の境をさまよっているのだ。
ここでフォーハードを見つければ、たやすくその息の根を止められ、この危機を乗り越えられたはずである。
エノハも、クリルがフォーハードの脇腹に鋭い蹴りを喰らわせたのは知っていたが、まさかフォーハードがそれで死にかけているとまでは、思わなかったのである。
「では、いかがなさいますか」
「触れはなしだ。だが自警団員には、色白な男を見かければ、捕縛はせず、深追いもせず、私に報せにこいと伝えよ。くれぐれも相手を刺激しないように。奴はほかの大陸に
「そもそもフォーハードは、いったい何をしにここへ来たのでしょう。あの男は生命の絶滅が目的のはず。それなら潜伏などせず、さっさと行動に移せばいいのに」
リッカが
「おそらくフォーハードの狙いはファノンだ。あの子の力は超弦とやらに関わるものだと、クリルが言っていた」
「チョウゲン……?」
「万物の根幹をなすものだ、とだけ。ともかく、その根幹をあやつることが、ファノンにはできるのだ。このままフォーハードの思うままにファノンを利用させるわけにはいかん。あの子を、守ってやってくれ」
「かしこまりました……そのように」
リッカは頷いたが、内心は複雑だった。
弟をケガさせた人物を、ていねいに守護することに、言い知れぬ抵抗感があった。
それにファノンの力がまた暴発するとき、おそらく自警団員の誰かが、そばで見ていることになるだろう。
――その時、あたしはファノンをかばえるだろうか。
――かばいたい、と思えるだろうか。
そんな不安をかかえながらも、リッカはそれを顔に出さず、続ける。
「あと、エノハ様」
「なんだ」
「その……ノトの話なんですが……ファノンをこれから、どうされるおつもりですか」
「お前ならどうする?」
「わかりません……あの子は15歳になる今まで、あんなことはできなかった。これから、ああいうことが起こらないとは限りませんけど、あの子の寿命があと5年なら、見守ってあげたいです。
でもノトの言い分もわかるし、他の人にもノトに近い意見もあるはずです。その時のことを考えたら」
「……かつて一度だけ、ファノンと同じ力を使う人間を見たことがある。
あの力は、憎めば憎むほど増長した力をもたらし、しかも憎しみが晴れたあとにも、以前より強いエネルギーが当人に宿る」
「あのツチグモを焼いた力が、もっと強くなる……フォーハードが利用するに値すると判断した力。私が言うのも何ですが……つまりファノンは、フォーハード以上に危険な存在になり得る、ということではないのですか」
「……歯に
ファノンやフォーハードの力は、憎しみによって力を得る。
絶望は憎しみになりやすいのだよ。そしてフォーハードが憎しみの光をセントデルタに向ければ、ここはひとたまりもない」
「エノハ様。あたし、正直に言って、ファノンを守ることは迷ってます。ノトはあんな性格ですが、弟は弟です。それを傷つけたファノンを、許すことができないでいる。
――それでも、あたしはあの子を守る、とお約束します」
「お前はいい子だ」
エノハは小さく笑って、リッカの肩に手を置いた。
「それでこそセントデルタの人間だ。ここを未来永劫、道徳だけで成り立つ、究極の理想の世界としてたもつ。そのためには、このフォーハードの意図に、なんとしても抗わねばなるまい」
「はい……」
普段からクリルのエノハ不要論を聞かされているリッカには、こういう生返事しかできなかった。
それに、違和感も覚えていた。
フォーハードへの対応が、普通の逃亡罪人と比べると、かなり手ぬるいのだ。
――法は罪の重さにかかわらず、かならず処罰が行われるということが大事で、それができないとき、人は法が無力だと判断する……と、ふだんのエノハは論じている。
ノトやファノンへの軽い処分も、フォーハードのためなのだろう。
100億人を殺したフォーハードとはいえ、少し慎重すぎるのではないか。
慎重にならざるを得ない理由がある……?
これが妄想でなかったとしたら、エノハは何か、自分に隠しごとをしている、ということになるが、優しすぎるリッカに、そこを突き詰める勇気はなかった。