141.旗印

 1ヶ月後。

 街は、ふしぎなほど静かな秩序を保っていた。

 通りには野菜売りの露店がいつも通りの早朝に並び、いつものように牛を引く人間が歩き、いつものように、大通りや井戸端いどばたで雑談をする男女がいた。

 だが、その静けさに寄与したのは、意外なことに騒乱の元凶げんきょうのタクマスだった。

 タクマスは死ぬ前に、その自宅の机の中に、遺書を書き置いていたのである。

 いや、嘆願たんがん書と呼ぶべきかもしれない。

 それはリッカたち自警団が家宅捜査している時に見つけたものだった。

 その内容はというと、およそこの通りである。

『私タクマスはこのたび、エノハ様に謀反むほんくわだて、失敗に終わったのみならず、多くの友人を犠牲ぎせいにしながら闇へ帰命きみょうすることとなりました。

 とはいえ同じく闇におもむいた友人には、仲間がおります。友人の仲間にはやはり仲間がおり、その仲間にもまた、親しい人がそばにおります。

 人間世界はおよそ、このつながりで形作られております。そのつながりの大きなものを世間せけんと呼び、さらに大きなものを社会と言います。

 人間の正しさをひたすら尊ぶエノハ様の世界は、歴史に名だたる理想郷といって差し支えないでしょう。

 ですが、人は争うものです。競争するものです。それはすべて、自らが幸福に達するためです。

 その果てに憎しみの産まれることもあるでしょう、誤解が生じることもあるでしょう、既得権益きとくけんえきが現れて、人々を阻むこともあるでしょう。

 ですが、それこそが人間本来の性で、さらに言うなら、生物の性です。

 ならば、それに抗い善を貫くのは、人間の務めと言えます。

 この難関には、あくまで人間の努力を用いるべきで、神による文明の制御と抑制ではなく、やはり人の心と行動であるべきと感じるのです。

 かかる次第で、私タクマスは、敬愛するエノハ様に槍を向けました。

 この行為を間違いだったと悔やむことは、那由多なゆたの時を経て生まれ変わろうとも、抱くことはないでしょう。

 私はタクマスとして生き、タクマスとしての本懐ほんかいげたのです。

 ですが、この革命に参加しなかった仲間たちには、どうぞお慈悲じひを願いたいことと存じます。

 生き残った彼らには家族があり、仲間がおり、セントデルタの社会を成り立たせております。

 しばらくは、彼らが闇に帰った私たちのために、エノハ様に良からぬことを起こすこともあるでしょう。

 ですが、その際には、どうぞエノハ様の暖かき采配さいはいたまわりたいものと存じます。

 それが、死せるタクマスよりの、臣民としての最後の願いでございます』

 ……タクマスが本当に反乱が失敗すると思っていたかどうかは、疑わしい。

 だがタクマスは現に、革命が成し得なかった可能性まで考えて、その後始末をつまびらかに書き残したのである。

 そして、タクマスのこの後始末があったからこそ、タクマスの地下室での嗜虐しぎゃく趣味を知るハナーニャも、タクマスについては口を閉ざしたのだった。

「あの人は、1から10まで間違ってたと思う」

 夕方、セントデルタ中央広場で、タクマスの遺体の消えたジルコンのふたを見つめながら、ハナーニャはファノンに語った。

「でも、あの人のやろうとしたことだけは、私は引き継ごうと思うの……といっても、あの人が取り落とした武器を拾って、エノハ様に斬りかかるつもり、という意味じゃあないけど。もっと、平和的な方法で」

「血が出ないんなら、それがいいと思うよ」

 事情を知らないファノンがうなずく。

 ファノンにとってタクマスは、一度は反目しながらも、最後にはヨイテッツの犠牲に心打たれて、世界を取り戻すため、ファノンを守るために過激な行動に出た男……という評価だったのである(大半のセントデルタ人もそう思っていた)。

 タクマスの異常な二面性を、ファノンだけでなく、セントデルタすべての住民は、今後も知ることはない。

 それもすべて、ハナーニャが死ぬまで、自らの持つ情報を握りつぶしたからに他ならなかった。

「……で、ハナーニャさん。どうやるんだ? その血の出ない反乱ってのは」

「ガンジーがやったみたいに、無抵抗を貫くの。タクマス社長がおこなった反乱には、エノハ様も武力で応えるしか方法が残されなかった。だから、セントデルタすべてを巻き込んで、本当の運動を起こすのよ。

 ここはたしかにエノハ様が産み出した世界。だけど、ひとたび人間が誕生して、群れを作って社会となれば……それが独裁だろうと、そうでなかろうと、エノハ様だけの世界じゃあないの。

 だからこそ、私たちは自分たちの権利を主張するべきなのよ」

「あんた……それを伝えるために、新聞社に入ったんだな」

「まあね。今はバッチリ頓挫とんざしてるところだけど」

 ハナーニャはそこで初めて、隣に立つファノンに笑いかけた。

 疲れている顔だったが、そこには強さも伴っていた。

「私のやりたかったことを、また始めるには……皮肉だけど、あの人に……タクマス社長に、死んだ後にも旗印はたじるしになってもらわなくてはならない。

 タクマス社長がやったように、武力でエノハ様を黙らせたいから集まれ、なんてことをしても、大して人は集まってくれない。アレキサンドライトの塔で、200人もの人々が見せしめになった記憶が新しいからね。

 でも……あの人や、あの人が巻き込んだ人々の『死』なら……みんなの共感を集めることができる。タクマス社長が200人もまとめ上げたのは事実。思想に殉じていったのも事実。これを利用するの。うさんくさい人間が考えそうなことでしょ?」

「死んだタクマスに神格化してもらうつもりか。人間は生きた相手の言葉より、死んだ人間の言葉をよく聞く生き物だからな」

「正解。そういうことよ。あの人は清廉潔白せいれんけっぱくだった、高潔だった、純粋だった……ということにすれば、人も動かしやすくなる。このあたりの情報操作ってのは、新聞の得意分野だものね」

 ハナーニャは背をひるがえした。

「エノハ様のことは憎く思ってる。でも、憎しみに身を預けるのは、簡単な方法だってこともわかってるつもり」

「ダースパパにも聞かせてやりたかった言葉だな」

「ダース…………? ともかく、かつて黒人地位向上運動をしてたマーティン・ルーサー・キング牧師も、白人のことは憎いと思ってたけれど……それでも戦いではなく融和を選んだ。私も、そっちの道を進むつもりよ」

「ハナーニャさん、それは……」

「戦いよりも難しいって? わかってるよ、そんなの」

 ハナーニャは言い捨てると、アクアマリン通りへ歩き出していった。

 それは、セントデルタ新聞社のある道だった。

 その背を見送るのもそこそこに、ファノンはふたたび、ジルコンの蓋を見つめた。

「なあモエク……この未来を、あんたは予想できてたのか? あんたは、俺が最終的に、いまの体制に楯突たてつくことまで、わかってたんじゃないのか?」

 ファノンは物言わぬジルコンの蓋に語りかけてから、もう一度、黙祷もくとうをささげた。

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