146.大権現ごんげん

「――人間は、負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ」

 熱気のこもる窓工房の中で、ゴンゲンはベルヌーイ式炉の下部漏斗ろうとから、練乳のようにひり出る、赤熱せきねつしたルビー塊を見下ろし、ひとりごちた。

「本物のほうを言ってしまった……俺もヤキが回ったな」

 ゴンゲンは横にいるアエフに、わざとらしく笑いかけたが、そこには弱々しさしかただよっていなかった。

 溶けるルビーから発する光で照らされるゴンゲンの顔には、アポトーシスによる『ふやけ』が溝や枝葉えだはのように現れていた。

 このレベルになると、通常なら立つ体力もなくなっているはずだが、ゴンゲンは驚異きょうい的な気力と集中力で、ピンと背を伸ばし、健常な体勢を維持いじしていたのである。

 それはアエフにとっては、ことさらに、まばゆくえた。

「そんなことは……」

 横にいるアエフがつぶやいた。

 アエフは3ヶ月前に学校を卒業したのち、念願だったセントデルタ大病院の整形外科げか医になっていた(とはいえ、セントデルタにおいては、人間は経験を積みきる前に闇へ帰ることになるので、たとえベテランでも、医者にできるのは体外にできた良性腫瘍しゅようなどの、簡単な切除手術ぐらいである。ただ付言ふげんしておくと、この街の医者は役立たずではない。健康のまま死んでいくセントデルタ人だが、それでもやはり人間なので、生きている間は病気も虫歯も何でもやってしまう。彼らを治すことまでエノハがえば、エノハは医師の仕事にばかり時間を取られ、もはや女神として政務に打ち込むことはできなくなるわけだ。だからこそ、彼らが医者になることは、けっして無駄ではないのである)。

 今日はセントデルタ槍試合だから、医者の仕事もほとんど休みだったが、アエフはゴンゲンに何かを感じ取って、閉め切った工房から逃げもせず、ずっとゴンゲンの仕事ぶりを、工房の壁に背をあずけながら、見つめていたのである。

「さっきの言葉、ニクソン大統領でしたっけ」

「正解だアエフ、お前はかしこいな、ファノンと大違いだ」

 ゴンゲンはアエフをめながらも、けっしてそちらを見たりはせずに、ルビーの寝そべるモリブデン板に沿って、黒曜石こくようせきのコテでそれを伸ばしていた。

 ゴンゲンがそれを数分のうちに終えると、ルビーかいは見事な窓へと形を整えられ、あたかもその作業を待っていたかのように、少しずつ赤熱の赤からルビーの赤に変貌へんぼうし、そこに美しい一枚の窓を現し始めた。

 これまでになく、空気も縦スジも刻まれていない、完璧な窓だった。

「ふふ……ここまで見届ければ、安心だ。窓枠なら、ファノンでもはめられるかな」

 ゴンゲンはそこまで言うと、ガクッと、にわかに両膝りょうひざを折った。

「親方!」

 アエフはすぐさま動いて、くずおれるゴンゲンのごつい体をささえた。

 アエフの体は、9ヶ月ほど前から続けてきた筋力トレーニングによって、ゴンゲンの巨体をたやすく受け止められるほど強くなっていたのである。

 元来がんらい、アエフもまた養父ようふモエクにならって、体力のことは二の次にしていた(とはいえ、アエフは養父のように、コミュニケーションまでかろんじてはいなかったが)。

 そんなアエフが身体をきたえるようになったのは、セントデルタに危機が訪れたとき、ファノンの役に立つためである。

 ――あのとき、フォーハードを助けたのは僕だ。

 ――怪我けがに苦しんでいたフォーハードを、再び悪事に邁進まいしんできる身体にしたのは、他ならぬ僕なんだ。

 ――ここにいるゴンゲン親方や、ファノンやメイさん、モンモさんは僕をめる気はないみたいだけど……それでも、僕は何かこの戦いで、罪滅ぼしをしたいんだ……。

 だが、アエフのこの決意は、実を結ぶことはなかった。

 その代わり、アエフは後年こうねん、子どもたちから好かれる、快活な精神と肉体を持った、頼れる先輩として人々に愛されることになる。

 アエフは後々のちのち、モエクのように賢く、ゴンゲンのように逞しい、若き町長として、人々と和を築いていったのである……。

「無理しないでください……もう、あなたの身体は」

「死とは人生の終わりのことではない……生涯しょうがいの完成したもののことだ……」

「マルティン・ルターですね。わかりますから、もう無理をしないで」

「ファノンは……どこだ? あいつに会うまで、死ねんよ。この俺の闇への旅に顔を見せないとは、とんだ不良弟子だ」

「親方が大会に行かせたんじゃないですか。迷ってたファノンを」

「あいつはクリルから教わった槍の技術を、あの試合で試したそうだった。それなのに、自分が持つ超弦とかいうヘンテコな力のことを、他人にどう思われるかばかり気にして、ウネウネと迷っていたからな……やるか、やらないかで迷ったんなら、やればいいんだ」

「それは、誰のセリフですか?」

「俺のセリフだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 ゴンゲンがいつも通りの、覇気はきに満ちた雄叫おたけびを上げたが……アエフには、これがゴンゲンの最後の力だと気づいていた。

 アエフは自らの鼓膜こまくの震えが収まるまで黙っていると、そのうしろで、木戸が閉まる音が聞こえた。

 ひとりの人物が、工房の土間どまに足を踏み入れてきたのである。

 ――モンモだった。

「元気のいい病人だね、外まで響いてたよ」

 モンモのその言葉からは、あきらかにゴンゲンの事情を知っている様子がうかがえた。

「おう、モンモさん……死に目にあなたに会えるとは、幸運なもんだとは思うが、この瞬間でもまだ、アポトーシスの産物さんぶつのおかげで……いま俺は女性と会わないほうが良い状態なのですよ」

「あなたなら耐えられるでしょ。信じてるもの」

「そう見込まれたんじゃ、自信はないが、耐えましょう! はっはっは!」

 ゴンゲンは土間に寝そべったまま、大笑いした。

 だがそれを終えると、落ち着いたまなざしで、のぞきこむモンモとアエフを見返した。

「モンモさん、聞いて欲しいことが」

「なあに?」

 モンモがたずねながら、アエフと向き合うようにゴンゲンの頭のそばに座ると、ゴンゲンの頭を持ち上げ、みずからの太ももに膝枕ひざまくらしてやった。

 ゴンゲンはぴくりと鼻の穴が大きくなったが、とくに何も感想は言わなかった。

 ゴンゲンにはもはや、ほとんど時間が残っていないからである。

「こんなことになって、改めて俺は、人生を満足するまでやりきったか……と自問するんですがね……色々と、中途半端なんですよ…………そこの窓枠だって、本当はファノンに任せるんじゃあなく、自分でやりきりたいんだ」

「心配しないで。あなたは、一級の窓職人だよ。私が約束するよ」

「死ぬ人間には、その言葉はありがたいもんです……たしかに俺は、そういう言葉を……とりわけ女性から、その言葉をもらうために頑張がんばったと、今なら白状はくじょうできます……誰だったか……男が努力するのは、女からホレられるためだ、みたいなことを言ったのは……」

「シグムンド・フロイトですよ」

 アエフがおずおずと助言した。

「さすがだな……つまり俺はファノンのスケベさを責めたりもしていたが、結局、頭の中は同じだったってことだ…………俺はムッツリスケベだった。なあ、アエフ」

「はい」

 ずっとゴンゲンの背を抱いて見下ろしていたアエフは、涙声でうなずいた。

「クリルやモエク、ヨイテッツ……思えば、仲の良い連中を、ずいぶんと見送ったもんだ。

 で、感じたことなんだが……。

 人は……愛する人間と会えなくなって、そいつを思い出す時、そいつのトロフィーや賞状なんて、思い出しはしないものなんだな。その人物が何をやろうとし、何を話し、どう笑い、何に怒り、何を残したか――そういうことを、思い出すもんなんだ。

 クリルにせよモエクにせよ、ヨイテッツにせよ……何だか、そういうことばっかり、浮かぶんだ」

「ゴンゲン親方……」

 たまりかねたように、膝枕をするモンモが、涙にむせた声をもらした。

 それでも、ゴンゲンの総括のような独白は続いた。

「――ファノンはおそらく、エノハ様を倒すんだろう。

 アエフ……そうなれば、お前の出番がくる。俺やヨイテッツ、モエク、モンモさんにはこなかった、お前だけの出番が。

 エノハ様のセントデルタ文明がほろびれば、お前は本当に医者として振る舞う必要にせまられる。病気で死ぬ者、怪我で死ぬ者、それらを、お前は救わないといけないはずだが、エノハ様き後ならば、できないことの方が、多いはずだ。

 お前は文字通り、かいのない小舟に乗ったありさまで、大海たいかいに放り出されるんだ。

 その時、お前の頭をかすめたり、助けたりしてくれるのが……先に闇に帰る、俺やモエク、モンモさんの言葉だったり、姿勢だったり、生き方や、考え方だったら……嬉しいと思うよ」

「そんな……そんなこと、言わないでください……僕はまだ、親方に教えてもらわなきゃいけないことが、たくさん……」

「じゃあ……お前のために、一つの言葉をささげよう――それは努力だ」

 ゴンゲンの言葉はこの時、いよいよかすれていた。

「……やっぱり努力が一番なのね」

 モンモが膝上にあるゴンゲンの顔に向けて、泣き笑った。

「そうです……まず自分に努力なくして、お互いの理解なんて……生まれ……」

 ゴンゲンはしゃべりかけているところで、眠るように、その熱い論調を小さくすぼめていった。

 アエフが少しして、ゴンゲンの心臓に手をえて、力なく首を振った。

「――ゴンゲン親方の遺志いしは、ここに来れなかったファノンにも通じると思います。あの人のほうが、親方との付き合いは長かったんだから。ファノンを信じる親方の力は、親方が闇に帰っても、ファノンに届いて、生き続ける……そうでしょ? モンモさん」

 アエフがあふれそうになる涙を殺して気丈きじょうにたずねるが、モンモはゴンゲンを膝枕したまま、うつむくのみだった。

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