153.接近

「……窓が何枚か割れたのが見えた。温度差か、老朽ろうきゅう化かはわからないが……ゴンゲン親方の作ったものは無事だったかな」

 ファノンは静けさの満ちるダイヤモンド中央広場の、アレキサンドライト台座のそばにたたずんで、小さくつぶやいた。

 ラストマンを倒すだけなら、街全体を気化させてしまえば良かった。

 だが人々の住む場所を、なるべく無傷で残しながら、なおかつラストマンを無力化することを両立させようとすれば、超流動ヘリウムの戦法を選択することになったのである。

「モエク……あんたが最後に残してくれた策、役に立ったよ」

 ファノンはこの場にはない、モエクのコイルノートに思いをせた。

 それはモエクが死ぬ前に、ファノンにたくした2つの内の1つだった(もう1つはピンクの風呂敷ふろしきに包まれた、セントデルタ原初の新聞)。

 モエクはそのコイルノートに、セントデルタを防衛するための方法を、いくつか書き込んでいたのである。

 超流動ヘリウムによる防衛案は、その1つだった。

「モエクが超弦の力を操れたら、もっと簡単にフォーハードと戦えたんだろうけど……それはせんない議論だよな。現に力は、俺に降り立ったわけだし」

 そこでファノンは、西にそびえるアレキサンドライトの塔を見やった。

「塔の一階にも超流動ヘリウムを流しこんだから、奴らの逃げる場所はどこにもなかった。セントデルタにいるはずのフォーハードも、これで倒せたはずなのに……あいつの気配は、いまも消えない」

 ――いったい、どこにいる?

 ファノンは周囲を見渡すが、周りはファノン自らが作った、ヘリウムによる冷気が生み出す霧が漂うばかりで、索敵らしいことは何もできなかった。

 ――この街のどこかにいるはずなのに、街のどこにも気配がない。

 ――どこだ?

「あいつは必ず仕掛けてくる。次にあいつが姿を現したとき――決着がつく」

 ファノンは立ち尽くしたまま、精神を集中させるが……やはり、フォーハードの気配は察知できても、その詳しい場所まではわからなかった。

 それはあたかも、匂いはわかるが、その出所でどころがわからないのと似ているのかもしれない。

 中央広場から伸びる7本の放射街路は、ファノンが先ほど発現させた超流動ヘリウムで『水浸し』になっている。

 当然、屋根も室内も、超流動ヘリウムがはびこっていない場所はない(ファノン自身が立つ中央広場のアレキサンドライト台座には、ファノンが気化のバリアを張っているから、ヘリウム水はやってこないが)。

 さすがにエノハの塔の一階以上の階には超流動ヘリウムは発さなかったが、フォーハードがワープを使えない以上、あの塔にフォーハードが潜んでいることは考えにくい。

 ――何か、俺の知らない技術で水を防ぎながら、俺に接近する方法があるのか?

「どこにいる、フォーハード」

 ファノンは首をめぐらせ、ふと、ため息をつくために空を見上げたとき――何かに気づいた。

 空に、黒い点が浮いていることに。

「……? あれは」

 そこまでひとりごちてから、ファノンは目をいた。

 それは点などではなく──人間だったのだ。

 そして視力の良いファノンには、それが誰なのかまで、つぶさに確認できた。

「――フォーハード!!!?」

 ファノンは慌てて片手を上げて、フォーハードのいる宙空に向けて、気化の術をかけるべく思念を集中させた。

 だが、すべては手遅れだった。

 ファノンからは粒のように遠くに見えるフォーハードが、ファノンに両手を差し向け、何か呟く様子が見えたとたん――ファノンの身体は、その場から消滅していった……。

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