161.受け継ぐ者

 話は少し前にさかのぼる。

 沈黙と静寂せいじゃくが支配する宇宙空間で、ファノンは孤独こどくさいなまれ、無音にむさぼられ、あせりにむしばまれながら、なすすべもなく身を丸くしていた。

 その周囲では、くすぶる陽子(水素原子核)に反陽子がぶつかって、そこかしこでつい消滅の大爆発を繰り返していた。

 ──どうすればいい。

 ──時間はない。

 ──俺の力は宇宙の崩壊ほうかいを選びつつある。

 ──恐怖は超弦の力を弱める作用をするはずなのに、それ以上に俺の力が強くなってるんだ。

 ──もう駄目なのか?

 ──宇宙の大爆発を防ぐための方法も、考えないといけない時が来てる。

 ──メイやモンモさん、アエフ……他のみんなを守るための方法は……もう、ない。

 ──フォーハードは、俺の知人を全員、殺して回るだろう。

 ──だけど、このまま俺が生きていれば、やがて宇宙の消滅を選択することになる。

 ──それを防ぐには……自殺しか、ない。

 ──この場に太陽を復活させて、俺の命そのものを消してしまう。

 ──それで、ひとまず地球や宇宙は救われる。

 ──フォーハードは俺が死んだことに気づいたら、俺の転生にして……少なくとも、それまでは、人々の絶滅はおこなわないだろう。

 ──だから早く……俺は死ぬべきなんだ。

 ──なのに、何でだ。

 ──やることはわかってるのに……何で俺は……力を使わない。

 ──大丈夫だ。太陽のど真ん中なんだから、痛みも熱さも感じないはずだ。

 ──さあ、やれ、ファノン。

 ──この戦いを、小休止にするんだ。

 ──俺が死んだとわかれば、フォーハードも、虐殺ぎゃくさつ人数を減らすかもしれない。

 ──すべての問題を、先送りにしてしまえ。

 ──500年後の、転生する頃の俺に投げちまえ。

 ──少なくとも、今ほど絶望的ではないはずだ。

 ──さあ、早く……。

 ──早く、死んじまえ……!

「怖い……」

 押し込めていた本音が、口のほうから漏れた。

 ──わかってる。わかってるんだよ、そんなの。

 ──だけど、怖いものはどうしようもないだろ。

 ──どうしようも、ないんだよ!

「助けてくれ、フォーハード……俺が悪かった……俺が間違ってた……なあ、助けてくれよ。聞こえてるんだろ? なあ、おい……お願いします……助けてくれよ……!」

 ファノンは耐えられなくなって、見えもしない地球の方へ、叫び散らした。

 その顔には鼻水と涙がベッタリで、どこまでも非力で、笑えるほど無様ぶざまで、気持ち悪いほど情けなく、とても『超人』と呼べるものではなかった。

 だがその様を見て笑う者も、憐れむ者も、手を差し伸べる者も、ここにいるはずがなかった。

「……ちくしょう……」

 ファノンはぐずつきながら、さらに大きくなる対消滅による爆発を、絶望にかすれた瞳で見つめていた。

 ──もう、良いんじゃないか?

 ──どうせ、みんな死ぬんだ。

 ──なにが、500年後の俺の転生にける、だ。

 ──結末なんぞ、見えている。俺はその頃にはフォーハードに洗脳されて、魔王となっている。

 ──だったら今、フォーハードだけをのさばらせても、しょうがないだろ。

 ──どうせ、メイやアエフ、モンモさんは殺される。俺の大事なものを、フォーハードが許すはずがないんだから。

 ──このまま、絶望と怒りのまま、世界ごとフォーハードをぶっ飛ばした方が良いじゃないか。

 ──ぶっ飛ばそう。

 ──あきらめちまおう。

 ──誰も、俺をめる瞬間もないまま、宇宙を終わらせちまおう。

 ──もういい、もういいだろ……。

 ──俺は精一杯せいいっぱいやった。

 ──やれるだけのことはやった。

 ──誰も、俺を責められない……!

「──違う!」

 その強い否定は、妥協だきょうしきって、疲弊ひへいしきって、あきらめきっていたはずの、ファノンの心の底から出てきた。

 弱音よわねがファノンを支配しきったとたん──モエクの顔が浮かんだからだ。

 いや、モエクだけではない。

 ゴンゲンや、ヨイテッツの横顔が浮かんだ。

 メイやアエフ、モンモが浮かんだ。

 ──クリルが浮かんだ。

 ──俺は、その人たちに向かって、さじを投げる、戦いを放棄ほうきする、ひざを屈する、なんて……そんなことを言えはしない。

 ──その人達から、あまりにも多くのものをもらったからだ。

「どんな奴だって、どんな生き物だって、自分の環境を、少しでも良い方向へ進めるために、努力してきたんだ。

 俺にたくして散った人がいる。

 俺を信じてあずけた人がいる。

 俺がやめてどうする。

 俺が諦めてどうする。

 ──そうさ、人間は生まれた時点で、自分だけの命じゃないんだよ」

 ファノンはそうえてから、強く片手を上げた──

「超弦の力……この程度か? 違うだろう、俺は知ってるぞ」

 ファノンは意識を集中させながら、挙げている手のひらを、ゆっくり握っていった。

「見せろ、俺にその姿を。ありのままの世界を!」

 ファノンの周りで、うずを巻く対消滅の爆発の隙間に、何か別のものが見え始めた。

 ファノンが目をこらすとともに、爆発も減っていき、それらは、少しずつ全容を見せ始めた……。

「──これが……超弦の力……」

 ファノンはおどろきとともにつぶやいた。

 ファノンの目の前には、見たことのない、形容しがたい景色が、つい消滅の向こうに姿を現しつつあった。

 それは、10-31メートルの微細世界にひそむカラビ=ヤウ多様体だったのかもしれない。

 あるいは無限大の大きさを誇る、ブレーンワールドだったのかもしれない。

 その正体は、ファノン以外には、誰にも見えはしない。

 だがここで、ファノンだけは見たのである。

 ──それこそが超弦の正体だった。

 ファノンは超弦そのものを見たことによって──赤子が物を投げれば落ちるのを学ぶように、鳥がつばさをはためかせれば飛べることを学ぶように、おおかみが脚を動かせば走れることを学ぶように──超弦の力の意味を、すべてさとったのである。

 ──10500もしくはそれ以上。

 万物を構成する、すべての素粒子の母『超弦』が、生み出しうる形状の数である。

 そして超弦理論は、この10500という数字がそのまま、宇宙の種類になりうると示唆しさする。

 この宇宙以外では、光の速度も、重力の強さも、何もかもが違うのである。

 たとえば光は『この宇宙では』秒速30万キロメートルで進む。

 そして光よりも速いものは許されない、というのが、この宇宙の摂理せつりだ。

 原子の寄り集まった物質に光の速度を出させると、その質量が無限大になって、物質の形状を維持いじできなくなるのだ。

 ゆえに、この宇宙では、光が最も速く、そして光以上の速度のものは存在し得ない(速さだけなら、

実は『空間』の広がり方などのほうが光よりも速い
)。

 が、他の宇宙となると、光の速度は必ずしも秒速30万キロという速度でもない

 秒速100万キロにも1000万キロメートルにもなりうるのだ(ただしそんな宇宙はすぐに破綻する)。

 ファノンは超弦の世界をのぞきこんだ瞬間、この宇宙の制限から解き放たれたのである。

 もはやファノンの身体は、秒速30万キロメートルという『くびき』に従う必要はなくなったのだ。

「さあ……帰ろう」

 ファノンが挙げていた片手を、地球のほうへ伸ばすと、そこだけは別宇宙の力が支配を始めた。

 ファノンがおこなったのは、特定加速度の消滅。

 ファノンの作り出した『別宇宙内』では、人体への加重が大きくその力を減じていた(念のため付言ふげんすると、どの宇宙でも、この宇宙と方程式は変わらない。つまりあらゆる物理法則は、この宇宙で編み出された数式に従うのである。有名な相対性理論の方程式E=mc2も、ゲージ原理も、すべてが生きているのだが、それらの強弱がまったく違うのである。基礎となる質量が違うため、この宇宙の人間がそれらを目の当たりにすれば、あたかも魔法の力でも巻き起こったかのように見えるだろう)。

「……」

 ファノンの身体は、そこらの物質からエネルギーを奪ったのだろう、あたかも何かに押されたかのように動き出し、やがて、秒速数千万キロメートルを越えるスピードへ達しながら、まっすぐ地球を目指していった……。

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