163.理想の世界

 2日前のこと。

「なあアエフ……俺はもうすぐ、この世界の人間じゃなくなる」

 ゴンゲンの部屋の整理を手伝うべく、台所の皿を箱詰はこづめしているファノンが、ひどく物憂ものうげに切り出した。

「どうしたの? ファノン」

 廊下へ本のたばを運び出していたアエフが、突然のファノンの告白に、動きを止めた。

 ゴンゲンの本は、過去の偉人の名言録や自伝、筋トレに関する本、それから窓職人の専門書が、それぞれ数百冊、そろえられていた。

 死者の遺品は、近しい知人や親族にそれを必要とする者がいない場合、専用の施設に並べられて、街の者に無料で再利用させるのが、ここセントデルタでのしきたりだった(ファノンもアエフも、ゴンゲンの遺品の中から、欲しいものはすでに受け取っていた。ファノンは偉人の名言録を少し、アエフは筋トレのハウツー本を数冊)。

「そろそろフォーハードが来る。わかるんだ。失敗の許されない戦いだ。だから、できるだけのことをやっておきたい」

「ついにマハトが……ねえファノン、勝てる?」

「わからないが……勝てたときには、みんなに、それとわかるサインを送ろうと思う。戦いが終わったってサインを」

「うん……で、どうするの?」

「まだ考えてないけど……そうだな」

 ファノンは思案するように目線を上向かせた後、イタズラっぽい顔になってアエフを見た。

「エメラルド製のシェルター壁を全部、白金はっきんに変える。それなら、俺からのメッセージだってわかるだろ」








「ファノン……わかりやすかったよ」

 アエフは苦笑いをしながら、ずり落ちかけるゴドラハンを背負いなおし、感傷的につぶやいた。

 今アエフは──いや、地下に避難していた人々はみな、5キロにわたる避難口をたどって、セントデルタ外へと向かっていた。

 その道中で、ゴドラハンとロナリオを見かけたアエフが、ゴドラハンを背負って歩いているのである。

 ──ファノンの示したあの合図が正しいのなら、もはやシェルターにこもる必要はない。

 アエフはそのことをメイやリッカにげると、すぐにこのシェルターを出ようという算段となったのである。

 フォーハードは倒れ、ラストマンもまた、このセントデルタから消えた。

 陽気な、何よりも若いセントデルタ人にとって、暗い洞窟の中というのは、耐えられない環境だったのかもしれない。

 アエフは、あの白金の壁や天井を、ファノンからの『報告書』と受け取りはしたが、何よりもあれは、アエフに送られた、最後の言葉のような気がしてならなかった。

 そしてそれは、横に立って、アエフと同じようにロナリオを背負うメイにとっても、同じだった。

「メイさん、重くないですか? ロナリオさん……機械ですし」

 アエフが周囲の目をはばかりながら、小声でメイに聞いた。

 メイに担がれるロナリオは顔の右半分を、機械の中身を露出させていたから、誰の目から見ても、メイがホロコースターを抱いているのが明らかだった。

 ゴドラハンとロナリオは、セントデルタの人々にとっては、怠惰たいだ傾国けいこくの徒、という認識のまま。

 現時点で、人々にとってゴドラハン達は、さんざんセントデルタをさぶり、挑発ちょうはつを続けたくせに、背後から襲いかかったラストマンに殺された、間抜けな連中に過ぎなかった。

 ──僕が、この人達をこのままにはしない。この人達の墓標を、足蹴あしげになんかさせたりはしない。

 ──世界のために戦った彼らを、悪人のままでいさせてなるものか。

 ──彼らはもう、世界の敵である必要はなくなったんだ。

 ──彼らが、僕らをここに送り届けるまで、500年もかかった。

──今度は僕達が、新世界を昔のようにしない努力を続けよう。

 ──僕らには、その責があるんだ。

「いや……思ってたよりは軽いぞ」

 アエフの思案しあんをよそに、メイがさらりと答えた。

「ロナリオさんは、他の人に任せれば良かったんじゃ?」

「他の人にも何人かが、ロナリオさんをおぶろうと言い出してくれたのはいたんだが……どうにもな」

 メイがそう言っているところで、ついに避難通路の先頭を歩く2人は、その出口へと差し掛かった。

 秋の始まりを予感させる、強くも暖かい日差しだった(つい先ほどまで、ファノンの力によって、日差しの大元おおもとが消滅していたとは、この場の誰も考えるはずがなかった)。

到着とうちゃくだな」

 メイは本当はロナリオの五体が重かったのだろう、日差しの温かなところまで来ると、しゃがみこんで、ロナリオの身体を一度、膝丈ひざたけ雑草ざっそうひしめくクヌギの木に寄りかからせた。

 それに合わせて、アエフもまた、ゴドラハンをロナリオの横に座らせてやる。

「ふう……ここまで出れば、安心だ。ここなら液体ヘリウムも来ないだろう」

 メイの背後はいごには、ずらりとセントデルタ1万の人々が追随ついずいしていた。

 彼らの表情には、勝利のほろ酔いなどはなく、ただただ憔悴しょうすいと不安の色しかなかった。

 それは当然と言えた。

 頭上で爆音がしたわけでもなく、誰かが死んだわけでもなく、ただ家財をほうったまま家を追い出され、そのまま数時間経ってみたら、世界は平和になったから帰ろう、と言われたのだから……その心情はというと、半信半疑そのものだったのである。

「……私たちの人知の……英知の勝利だ」

「メイ町長」

 メイのうしろにいた男が叫んだ。

「エノハ様はシェルターに来られなかった。あの方は、どうなったんだ。ファノンと共に、水爆の男フォーハードと戦ったのか? だとしたら、あの方は今、どうしているんだ」

 男がそう質問するのは、エノハとフォーハードとの、セントデルタ維持いじの密約のことを知らないからだ。

 フォーハードは人々を全滅させない代わりに、エノハに機械のように、滅私めっしによる統治をいることで、理想の世界の維持をはかっていた……というものだ(もっとも、フォーハードはファノンと出会ったことで、一気に全生命の死滅にかじを切ったわけだが)。

 ファノンのことだから、もしも自分が負けた場合には、エノハにフォーハードと戦うための最後のとりでになってもらうことを、了承させているはずだ。

 だからこの戦いには、エノハは確実に、中立だったはずなのである。

 この事実は、永遠にメイの心の内にしまっておくべきものだということは、心得こころえている。

 まごうことなく、このセントデルタは500年間、戦争らしい戦争がなかった、理想の時代ではあったのだ。

 その理想の時代を維持していた根幹こんかんが、フォーハードだったという事実は、けっして後世こうせいに残すべきではない。

 フォーハードは現時点では『完全な悪』なのに、もしもこの事実が知られれば、『議論の余地のある悪』となるからだ。

 議論の余地のある悪には必ず、極端な考えの者が集う。

 旧代のネオナチス、イスラム過激派、KKKクー・クラックス・クラン……。

 フォーハードはこれからも、聖人でも赤ん坊でも、金持ちもコソどろでも、誰が論じても、顔をしかめながら、あいつは悪だと思ってもらわなくてはならないのだ。

「わからん……だが確実に言えることは──今はまだ、セントデルタに入れないってことだ。避難してるときに話しただろう? 今、セントデルタには液化ヘリウムが満たされてる」

 メイはそこで、遠くにそびえるアレキサンドライトの塔に、視線を送った。

「全ては、その水が消えてからだな。私達が、どう身を振るのか問われるのは、それからだ」

「……」

 男に求められた説明をかわすメイを横目に、アエフは考え込んだ。

 ──メイさん、うまくはぐらかしたな。

 ──これからファノンは、エノハ様も手にかける。

 ──もしかしたら、すでにエノハ様はもう、この世にはいないかもしれないけれど。

 ──だけど、エノハ様が僕らの前からいなくなる、なんて人々に話せば、この場で暴動が起きるものな。

 ──いや、おそらく、何人か何十人かは、後追あとおい自殺でもするかもしれない。

 ──あの人は間違いなく、歴史上最高の為政者いせいしゃだったから。

 ──だけど、この日から、僕達の世界が始まるんだ。

 ──大人の人達はどうか知らないけど、僕はワクワクしてる。

 ──どんな世界にしたいかを、僕達が選べるんだ。

 ──これが、少なくとも僕にとっての「理想の世界」なのかもしれない。

 ──争い合い、憎み合い、おとしめ合い、奪い合い……そして、語り合い、わかり合い、許し合い、与え合い、愛し合う世界。

 ──モエクが思いえがいていた世界。僕はこれを、残りの人生で下地したじだけでもつくって……モエクのように、誰かにたくしていこう。

「それこそ、僕のやるべきこと」

 アエフは遠くにそびえるアレキサンドライトの塔に向くと、ちかうように、小さいながらも強い言葉で締めくくった。

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