2日前のこと。
「なあアエフ……俺はもうすぐ、この世界の人間じゃなくなる」
ゴンゲンの部屋の整理を手伝うべく、台所の皿を
「どうしたの? ファノン」
廊下へ本の
ゴンゲンの本は、過去の偉人の名言録や自伝、筋トレに関する本、それから窓職人の専門書が、それぞれ数百冊、
死者の遺品は、近しい知人や親族にそれを必要とする者がいない場合、専用の施設に並べられて、街の者に無料で再利用させるのが、ここセントデルタでのしきたりだった(ファノンもアエフも、ゴンゲンの遺品の中から、欲しいものはすでに受け取っていた。ファノンは偉人の名言録を少し、アエフは筋トレのハウツー本を数冊)。
「そろそろフォーハードが来る。わかるんだ。失敗の許されない戦いだ。だから、できるだけのことをやっておきたい」
「ついにマハトが……ねえファノン、勝てる?」
「わからないが……勝てたときには、みんなに、それとわかるサインを送ろうと思う。戦いが終わったってサインを」
「うん……で、どうするの?」
「まだ考えてないけど……そうだな」
ファノンは思案するように目線を上向かせた後、イタズラっぽい顔になってアエフを見た。
「エメラルド製のシェルター壁を全部、
「ファノン……わかりやすかったよ」
アエフは苦笑いをしながら、ずり落ちかけるゴドラハンを背負いなおし、感傷的につぶやいた。
今アエフは──いや、地下に避難していた人々はみな、5キロにわたる避難口をたどって、セントデルタ外へと向かっていた。
その道中で、ゴドラハンとロナリオを見かけたアエフが、ゴドラハンを背負って歩いているのである。
──ファノンの示したあの合図が正しいのなら、もはやシェルターにこもる必要はない。
アエフはそのことをメイやリッカに
フォーハードは倒れ、ラストマンもまた、このセントデルタから消えた。
陽気な、何よりも若いセントデルタ人にとって、暗い洞窟の中というのは、耐えられない環境だったのかもしれない。
アエフは、あの白金の壁や天井を、ファノンからの『報告書』と受け取りはしたが、何よりもあれは、アエフに送られた、最後の言葉のような気がしてならなかった。
そしてそれは、横に立って、アエフと同じようにロナリオを背負うメイにとっても、同じだった。
「メイさん、重くないですか? ロナリオさん……機械ですし」
アエフが周囲の目をはばかりながら、小声でメイに聞いた。
メイに担がれるロナリオは顔の右半分を、機械の中身を露出させていたから、誰の目から見ても、メイがホロコースターを抱いているのが明らかだった。
ゴドラハンとロナリオは、セントデルタの人々にとっては、
現時点で、人々にとってゴドラハン達は、さんざんセントデルタを
──僕が、この人達をこのままにはしない。この人達の墓標を、
──世界のために戦った彼らを、悪人のままでいさせてなるものか。
──彼らはもう、世界の敵である必要はなくなったんだ。
──彼らが、僕らをここに送り届けるまで、500年もかかった。
──今度は僕達が、新世界を昔のようにしない努力を続けよう。
──僕らには、その責があるんだ。
「いや……思ってたよりは軽いぞ」
アエフの
「ロナリオさんは、他の人に任せれば良かったんじゃ?」
「他の人にも何人かが、ロナリオさんをおぶろうと言い出してくれたのはいたんだが……どうにもな」
メイがそう言っているところで、ついに避難通路の先頭を歩く2人は、その出口へと差し掛かった。
秋の始まりを予感させる、強くも暖かい日差しだった(つい先ほどまで、ファノンの力によって、日差しの
「
メイは本当はロナリオの五体が重かったのだろう、日差しの温かなところまで来ると、しゃがみこんで、ロナリオの身体を一度、
それに合わせて、アエフもまた、ゴドラハンをロナリオの横に座らせてやる。
「ふう……ここまで出れば、安心だ。ここなら液体ヘリウムも来ないだろう」
メイの
彼らの表情には、勝利のほろ酔いなどはなく、ただただ
それは当然と言えた。
頭上で爆音がしたわけでもなく、誰かが死んだわけでもなく、ただ家財をほうったまま家を追い出され、そのまま数時間経ってみたら、世界は平和になったから帰ろう、と言われたのだから……その心情はというと、半信半疑そのものだったのである。
「……私たちの人知の……英知の勝利だ」
「メイ町長」
メイのうしろにいた男が叫んだ。
「エノハ様はシェルターに来られなかった。あの方は、どうなったんだ。ファノンと共に、水爆の男フォーハードと戦ったのか? だとしたら、あの方は今、どうしているんだ」
男がそう質問するのは、エノハとフォーハードとの、セントデルタ
フォーハードは人々を全滅させない代わりに、エノハに機械のように、
ファノンのことだから、もしも自分が負けた場合には、エノハにフォーハードと戦うための最後の
だからこの戦いには、エノハは確実に、中立だったはずなのである。
この事実は、永遠にメイの心の内にしまっておくべきものだということは、
その理想の時代を維持していた
フォーハードは現時点では『完全な悪』なのに、もしもこの事実が知られれば、『議論の余地のある悪』となるからだ。
議論の余地のある悪には必ず、極端な考えの者が集う。
旧代のネオナチス、イスラム過激派、
フォーハードはこれからも、聖人でも赤ん坊でも、金持ちもコソ
「わからん……だが確実に言えることは──今はまだ、セントデルタに入れないってことだ。避難してるときに話しただろう? 今、セントデルタには液化ヘリウムが満たされてる」
メイはそこで、遠くにそびえるアレキサンドライトの塔に、視線を送った。
「全ては、その水が消えてからだな。私達が、どう身を振るのか問われるのは、それからだ」
「……」
男に求められた説明をかわすメイを横目に、アエフは考え込んだ。
──メイさん、うまくはぐらかしたな。
──これからファノンは、エノハ様も手にかける。
──もしかしたら、すでにエノハ様はもう、この世にはいないかもしれないけれど。
──だけど、エノハ様が僕らの前からいなくなる、なんて人々に話せば、この場で暴動が起きるものな。
──いや、おそらく、何人か何十人かは、
──あの人は間違いなく、歴史上最高の
──だけど、この日から、僕達の世界が始まるんだ。
──大人の人達はどうか知らないけど、僕はワクワクしてる。
──どんな世界にしたいかを、僕達が選べるんだ。
──これが、少なくとも僕にとっての「理想の世界」なのかもしれない。
──争い合い、憎み合い、
──モエクが思い
「それこそ、僕のやるべきこと」
アエフは遠くにそびえるアレキサンドライトの塔に向くと、