164.正体

「…………………………? ……………………! ………っ」

 あれから数分経ってなお、ファノンは先ほどと同じく、ジャガイモ畑に立ち尽くしていた。

 ファノンは顔をしかめたまま、己の手のひらを、何度もグーとパーに変えながら、不可解なことでもあったように、その手をずっと見つめていた。

 ──おかしい。

 ──フォーハードは、間違いなく倒した。

 ──もっと正確に言うなら、フォーハードは間違いなく、その身体を素粒子レベルに分解した。

 ──あいつには、それを回避する体力も気力もなかった。

 ──あいつは二度と、悪事をすることはできなくなったはずだ。

 ──だけど、この違和感いわかんはなんだ?

 ──この例えにくい感覚は、一体……。

 ──この不思議な予感は、何なんだ……?

「……考えていても、仕方ないか」

 ファノンはため息をつくと、気を取り直して、緑色に輝くアレキサンドライトの塔へ向かうべく、アメジスト大通りに入った。

 アメジストやアクアマリンの石壁には硬く凍ったしもが降り、まばゆかった街通りは、今は暗くにぶくくすんでいた。

 そこは今も、ファノンが発生させた-270℃のヘリウム水が支配する、南極よりも寒い世界となっていたのである。

 元気も活気も息をひそめるセントデルタの街を、ファノンはさびしげな心持こころもちで見回しながら進む。

 ──たぶん、この街を見るのはこれが最後だ。

 ──別れをげる相手が誰もいない街ってのが残念なことだけど、でも、これで良いんだ。

 ──メイとかアエフに会えば、絶対に決心が揺らぐからな。

 ファノンがそんな重苦しい郷愁きょうしゅういだきながら、ヘリウム水の中を、気化のバリアを張りながら進んでいる内に、アレキサンドライトの塔前へたどり着いた。

 ──ここから、全てが始まったんだな。

 ──エノハ様が自分を捨てて、人類の復活のために、全てを投げ打った場所。

 ──そして俺は、そういうものを全て、今から終わらせようとしている。

 ──これが功なのか罪なのかは、後の人々にも評価が分かれることだろう。

 ──だけど結局、何をやろうと、人々のそしりと、応援は付いて回るものだ。

 ──あえて言うなら、罪とは、何もやらないことだと思う。

 ──フォーハードの言うように、俺が世界の解放をおこなえば、すぐに旧代の弊害へいがいは復活するかもしれない……いや、必ず掘り返される。

 ──『人間は学ぶ、だから同じ失敗はしない』なんて、理想論を言う気はない。

 ──だからといって、人々の心と身体をセントデルタだけにしばって良いという理由には、ならない。

 ──セントデルタは箱庭だ。それも、これから地球や宇宙が気まぐれに起こす気候変動に耐えられない、もろい紙製の箱庭だよ。

 ──セントデルタの人間は、優しすぎるんだ。

 ──人間が生き残るのに、確かにセントデルタで育まれた優しさは必要だろうが、けっしてそれだけで未来に実は結ばれはしない。

 ──本当に必要なのは、強さだ。

 ──それも、心の強さ。

 ──砂嵐を受けても、海に飲まれても、住処すみかを追われても……それでも未来をつなごうとする強さだ。

 ──優しさをつらぬくのもまた、強さが必要だ。

 ──この場所は、あまりにも、それらが生まれにくい所なんだ。

 ──だから俺は全てを引き受けて、決定するよ。

 ──優しい者は、強くあれ。

 ──強い者は、優しくあれ。

「……ということを、いま思いついたんだけど、これをアエフとかに伝える時間は、もう俺に残されてないんだよな。今も、つい間違えて宇宙を壊さないようにすることで精一杯せいいっぱいだ。卵の上を歩いてる気分だよ」

 ファノンはそんな独白どくはくをはさんでから、アレキサンドライトの塔へ踏み込んだ。

 ARLWSアールゥスさえ沈黙したエントランスへ入り、アレキサンドライト・タイルの床を踏みしめて、ファノンは中央にあるエレベーターのボタンを押したが、スカスカとした手応えがあるだけで、明らかに動作していないようだった。

 となれば非常口から、50階におよぶ階段を自力じりきで登っていくしかなくなったわけだが、今のファノンが、エレベーターの不通ぐらいのことに影響を受けるはずがなかった。

 ファノンは自分の身体を支配する重力をほとんど無効化して、サバンナを走るインパラのように、階段をかろやかに登りきり、ついに最上階の間へ、登りつめた。

 スライド型の扉をいくつか手で押し広げながら通り抜け、ファノンはついに、エノハの執務室へ到達した。

 エノハはファノンを待ちわびるようにして、その部屋の巨大なデスクに腰掛こしかけ、ひじをつき、どっしりと落ち着いた様子で座っていた。

 だが、部屋はどこまでも薄暗うすぐらく、エノハの顔は、黒ベールをかぶったように影に隠れて、うかがえなかった。

 わずかに光を提供するのは、エノハの背後にある、アクアマリン窓をかしてやってくる、青空の光だけだったため、そこはあたかも、海の底から差す光を見るような、幻想的な様相になっていた。

「エノハ様……来たぞ」

 ファノンはゆっくり、エノハに近づいていく。

 だが、エノハは席に深く腰掛けたまま動かず、うつむくのを続けていた。

 ついに机の前までファノンがやってきたが、それでも、エノハは何の反応も見せなかった。

「………………」

 ファノンはエノハの頭上に手をかざし、その手のひらに気化のエネルギーをたくわえる。

 わざと、そのまま待ってみるが、エノハの方に何かしらの態度の変化は、なかった。

「無駄だよ。その子は動かない」

 ファノンの背後はいごから、若い女の声がかかった。

 高くも知的さを感じさせる、落ち着いた声。

 そして何より、ファノンの良く知る、懐かしい声だった。

 ファノンが振り向くと、そこには──クリルが立っていたのである。

 

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