ファノンはひとり、セントデルタの街の脇を流れる、ゆるやかな下流、ポワワワンの
宝石世界のセントデルタだから、河原に転がる丸石も、ただの玄武岩だけでなく、ガーネットであったり、シトリンであったり、ダイヤモンドであったりと、川面に負けないほどの光沢を、河原のほうでも放っていた。
頭の中が、真っ白になった状態で歩いていたら、いつの間にか、ここにいたのである。
「…………」
これでいい。
これでいいんだ……。
独り言はあまり好きではないので、心の中でつぶやくが、その言葉のつど、そうではない、と心から返事がもどってくる。
「……」
所在なげに、両手を胸元に持ち上げて、あたかもその場から気持ちを逃がすように意識を集中する。
と、手の間の空間がゆがみ、やがてそれはモヤをともなう、黒い球体になっていった。
光の動きを制御し、一点に集中させるから、このような黒い球体に見えるのだ。
ファノンは知っている。
先日のツチグモ襲来の日から、この収束レンズが大きくなっていることに。
以前は、旧代にあった野球ボールほどの大きさしか具現できなかったのに、今ではバスケットボールほど。
なぜこうなったかも、ファノンにはわかっている。
この力は憎しみと怒りをエネルギーにする。
そして強い憎しみを抱くごとに、この力はあたかも、水中に空いた穴を広げるように、勢いを強めていく。
自分の腹の中に得体の知れない生き物がいて、それが少しずつ成長し、自分の腹を食い破り、やがてセントデルタの皆を襲うかもしれない。
そのとき、一番最初に犠牲になるのは、クリルなのだろう。
クリルは自分を守るために、かなう目処のないツチグモに挑むぐらいだし、ファノンが何かやろうとしたら、真っ先に立ちはだかるだろう。
だからこそ。
クリルとは、距離をとるべきなのだ。
モエクとクリルが結ばれれば、ファノンとはもう、ほとんど会うことはなくなる。
それが、一番いいんだ……。
そんなことはない……という心の声は、徹底的に直視をさける。
そんな、自分の頭と心がせめぎあって、勝敗もつかないまま時間をすごしていると。
ファノンの頬に、とつぜん、熱いものが押し付けられた。
「あっちいい!」
ファノンは頭をそらしたあと、反射的にそちらを見た。
メイが、トルマリンの紅茶のカップの取っ手をつまんで、ファノンの顔にくっつけていた。
「ここで何をしてる、ガキは寝る時間だ」
メイがいつもの無表情で暴言をならべた。
「お前だってガキだろうが」
ファノンはメイから紅茶をうけとり、少しだけ口につけた。
ほんのりとした
いや、和らげているのは紅茶ではない、ということはわかっている。
自分で入れて、一人で飲む紅茶なら、この安らぎは得られないはずだから。
「ショックだったか?」
「な、何がだ。俺はただ、ここで鼻毛を抜いて楽しんでるだけだ」
「楽しいのか?」
「お前もやってみろよ、白熱するぞ」
そこまで言ってから、ファノンはうなだれた。
「俺、この生活が永遠に続くと思いこんでたよ……俺がいて、お前がいて、クリルがいて……明日もあさっても、5年後も10年後も、それが続くと思いこんでいた。いや、終わらないと信じたかっただけなんだ。本当はあと2年もすればクリルは死ぬし、俺たちだって5年もすればこの世にいない。直視すると泣きそうになることだから、願望で本物の未来を塗りつぶしてただけだったんだ」
「一気に砕けたわけだな、その願望が」
メイもファノンの横に腰掛けた。
「まあ私も、その点にかけちゃ、同じ気持ちだがな」
「メイ……ところでモエクは?」
「帰ったよ、コテンパンに振られてな」
「そう、か……あいつ、すごい自分に正直なやつだったなあ」
「まあな、かなり面食らったけど、カッコよかったよ」
「やっぱ、そう思うよなあ」
メイはとにかく
それが何度、ファノンを救ってくれたことだろうか。
「俺には、あんな勇気はないな」
「そうだな、カッコも悪いもんな、とくに顔とか。いつもパジャマだし」
「行動力もないし」
「あと顔がきもいし」
「あんなにうまく
「顔きもい」
「お似合いかもしれないな、あの二人……」
ファノンは夕空を見上げ、
「おいファノン」
「何だよ」
「あー……その、な、聞きにくいんだが」
メイは珍しく、まどろっこしい尋ねかたになった。
しばらくメイはそこで間を作っていたが、やがて意を決したように口を引きつむって、ファノンを見つめた。
「――クリルさんのこと、好きなのか」
「え、お、おい、それは」
「正直に答えてくれ」
メイが覗きこむようにしてファノンに顔を近づける。
月明かりに照らされるメイの、まっすぐな瞳に、ファノンもしどろもどろな表情を続けるわけにもいかなくなった。
モエクがあんな直情な行為に及んだのを、目のあたりにしたせいかもしれない。
だからファノンは、本当に、正直に答えることにした。
「……好き、なのかもしれない」
さすがに、少し声を震わせながら、ファノンは幼馴染に告げた。
それを聞くメイは、瞳を大きく開いて、何かを耐えるようにまばたきを止めてファノンを見つめていた。
その意味を、この時のファノンはまだ、わからなかった。
「そう、か」
メイは息をつくとともに、顔をわずかに伏せた。
「なら、お前も言ってみればいいじゃないか。クリルさん好きだ、と」
「ダメだ」
「私に言えて、本人に言えないのかよ、このヘタレ」
「言えない理由が、あるんだよ」
ファノンは追及を避けるように、天の川のかかる空にアゴをもたげた。
「よけるも下がるも知らないお前が? いったいどんな愉快な理由だよ」
「……」
メイのからかいにも、ファノンは口をつむって空を見るだけだった。
「……まさかとは思うが、その力が強くなったことと、関係あるのか」
「ああ……そうだ」
ファノンはうなずいてから、続けた。
「俺、変な力もってるじゃん。この間から、その力がすごいことになってるんだ」
「ノトの奴に、いままで見たことのない術を使ってたもんな」
「あの時、お前に止められなければ、最悪なことになっていたかもしれない」
「ノトのことだから、クリルさんにも伝えただろう。でもクリルさんが、そんなことを気にする人でないことは、わかってるよな」
「俺自身を許せないんだ。今の俺には、ものを破壊することしかできない。そうじゃないことを示したいのに、やりたいこと、やるべきこと、何も見えない。
目的を掴みかねてる俺には、クリルともモエクとも……お前とも、自分が釣り合ってない気がするんだ」
「……何の話だ?」
「恋愛論以前の話だよ……俺、恋愛と限らず、何をするにも、胸を張れるようなこと、一つや二つ、持ってないとダメだって思ってんだ。でも俺には、それがないんだ……」
「……ったく、わりとネガティブなんだよな、お前」
メイはファノンから首を引っこめて、後頭部をかいた。
「それが悪いことだって、気にしてるのか」
「そうかもしれないな。みんな、俺より先に行っちまう。何か探すけど、これぞ俺の生きる道って言えるもんに、出会えないんだ」
「仕事があるじゃん」
「仕事か……仕事は、飯を食うためにやってるってのが正直なところだ。悪いことだと思うだろ?」
「ゴンゲン親方が聞いたら泣くな」
「しょ、しょうがないだろ」
「仕事の意義ねえ……私なんかは、いつの間にか見つけてたからなあ。別にいいんじゃないのか。お前、顔がキモいだけで充分だよ」
「……」
「ウソだ、すまない」
メイはすぐに言葉を打ち消してから、続けた。
「なあファノン。私は思うんだけど、目的がなければ、生きる資格がないのか? 生きる意味を即答できないやつは、それのできる人より下なのか?」
「え?」
「目的が今なければ、明日も目的がないのか? 悩んでるのに、死ぬまで答えが見つからないと、運命に面と向かって言われたのか?
ただ、目の前にいる人を精一杯幸せにしたり、楽しませてあげたり、信じてもらえれば、それでいいんじゃないのか? その背中を、ちっちゃい子どもとか、お前みたいに悩んでるやつに見てもらって、それを受け継いでもらえれば、それだけで十分なんじゃないか?
お前、職人だろ、りっぱな技芸があるだろ。その技が明日もお前に使われることを待ってるのに、お前はそいつと向き合わずに、精一杯そいつを使ってやらないのか? 腐らせてしまうのか? 私はそいつを泣かせるのがいちばん怖い。お前はどうなんだ」
「メイ……」
「超能力のあるなしじゃあない。人って、生まれた瞬間から価値を持ってるんじゃない。自分の力で……いや、自分の力だけじゃ、それが難しいなら、まわりの力を借りて、価値をせっせと作り上げて行くんだ。それが命の輝きってやつだろ?」
メイは言い切った後、恥ずかしそうに顔をそむけた。
「……こんなん、言いたくなかったよ、照れるから。だけど、いまのお前がそんなんじゃ、こんな言葉しか言えなくなるだろ。きもいって言いにくいんだよ」
「言ってんだろ、さっきからさんざん」
「言いにくかったんだよ、本当は」
メイは目を川に逃がしたまま、なおも告げた。
「お前の価値は、そんな怪しげな超能力じゃあない。それを示すチャンスは、いっぱいあるんだよ。気づけよハゲ」
メイは照れ隠しに暴言をまぜて、言葉を終えた。
「……ありがとうメイ。お前、やっぱり凄いよ」
「ばーか」
メイは何かを探すように、今度は夜空を見上げた。
「死んだハノン先生の受け売りも入ってたけどな……ああ、そうだった。お前がツチグモと戦って死にかけてたあの日、ハノン先生から遺言をあずかってたんだ」
「先生から? なんで今ごろ、それを言うんだ」
「伝えるかどうかを、私にまかせるって言われたんだ。たぶん先生、隠れネガティブのお前が自分の位置を見つけられずに、困るときがくると思ったんだろうな。しかもどうやら、その通りのようだ。先生がこの言葉をささげてくれって――レッフ・レハー、と」
「なんだよそれ」
「ヘブライ語だそうだ。出でよ、自分に向かって、という意味。旧約聖書の言葉で、そのレッフ・レハーのあと、自分の国から、自分の血族から離れ、自分の父の家からも出ていけ、と書いてあるらしい。要するに、進めってことだな。フワついてるお前に一番ふさわしいと思ったんだろ」
「死んでまで心配させてたのか、俺」
ファノンは
メイといわずハノンといわず、気にかけられることが、こんなに嬉しいことだとは。
ありがたく、そして心救われることだとは。
「ありがとうメイ。俺、まだまだ頑張れそうだ」
「よかったよ、お前の役に立てて」
メイははにかんで、てへへと笑った。