24.クリルの心は

「――ッ!」

 ファノンはそこで、布団を蹴飛ばし、大きく体を跳ねさせながら、まるでバネでも使ったかのようにビュンっと上体を起こした。

 月明かりに照らされる自室。

 片付いてはいるが、読み飽きた漫画や中身のない貯金箱など、何となくいらないものが多い、ファノンの見慣れた部屋だった。

 ――何て夢だ。

 メイと話したことで、悩みが吹き飛んだような気になっていたが、よくよく考えると、何も問題は解決していない。

 心臓はばくばくと動悸どうきを打ち、汗でヒザの裏や背中がべっとりしている。

 水でも飲もう、と思い、ファノンはけだるさをはらむ体を動かし、一階へと向かった。

 隣の部屋で寝息をたてるメイを起こさないよう、気をつけて、きしむケヤキの床を歩いて一階へ出る。

 そこでファノンは、一階が明るいことに気づいた。

 台所の扉のすきまから、燭台しょくだいのほんのりとした明かりが、しのんだ光を廊下にこぼしていた。

 ロウソクを消し忘れたか、もったいない、とファノンは台所のドアを開けた。

 そこにはクリルがソファに座って、アクアマリンのワイングラスを口にする姿があった。

「クリル、寝てなかったのか」

「はあ?」

 クリルの虫の居所は最高潮の悪さのようだった。

 うつろに座った瞳で、ファノンをにらむ。

「あんなこと言われて、グッスリ眠れるほどあたしは強くも図太くもない」

 ふてくされた物言いだった。

「あんたたち、モエクが帰ったあと、どこ行ってたのよ」

「え、あ、え……メイと買出しに」

 ファノンはとっさに言い訳を速射したものの、この瞬間にやっと、自分のあのときの行為を後悔した。

 ファノンはあの時、自分ばかりがショックを受けて川に逃げていたが、クリルのほうもその時、すがるものが欲しかったのだ。

 クリルがファノンたちに己の進路を相談することはありえないのは確かだが、それでもファノンやメイに、あの瞬間には、そばにいてほしかったのだ。

 大丈夫か、ちゃんと眠れるか、妙な一日になったな、あまり気にするな、というファノンやメイの繰り出す慰めを、見栄みえを張って、あたしは大丈夫、何とも思ってないし、とせ我慢するために、ファノンやメイの存在が不可欠だったのだ。

 クリルはそうして自分の耳に届くように、あたしは大丈夫、と言う機会を欲していた。

 その、ゆいいつの方法がファノンたちだったのだ。

 それができなかったのだから、クリルは見捨てられたような寂寞せきばく感に襲われていただろう。

 いつも聡明そうめいで、ほがらかなクリルだが、じつは打たれ弱く、手がないと知るや、すぐにこうしていじけるのである。

 それを話すようなクリルでないからこそ、ファノンにはその思いが伝わった。

「俺がメイを誘ったんだ。立てこんでるようだから、俺たちで少し時間をつぶそうって」

 メイに被害が及んではいけないので、ファノンはさらにウソで過去を塗り固めたが、クリルの視線は、そのウソの解明などへの興味はなさそうだった。

「まあいいよ、そこ、座んなさいな」

「うん」

 ファノンはクリルのうながすまま、正面あってソファに腰をおろした。

 燭台にささる、ロウソクのやさしい炎が、クリルの顔を照らしている。

 こうして黙ってると綺麗きれいなんだがな……とか思いながらも、ファノンは先ほどの夢のこともあり、ひどく今はクリルが五体無事で酒を飲んでいることに、安堵あんどしていた。

「何よ、じろじろ見て」

「いや……綺麗だなって思って」

「何なのよ、ファノンまで」

 セントデルタ人より幾分いくぶんか白い、クリルの頬に強い赤みが増えた……ような気がした。

「どいつもこいつも、あたしを悩ませる」

「どいつもって……やっぱりモエクのこと」

「ん……悩むに決まってんでしょ。でも返事は今でもノー……あの気持ちには、応えられない」

「どうしてだよ」

 ファノンはテーブルに手を突かんばかりにたずねた。

 そのとき自分の中にたしかに、この答えが欲しかった、という悪心が芽生えているのに気づいたが、ファノンにはどうしようもできなかった。

「応えられるなら、モエクと言わず、とっくに結婚してたよ。でも、それができないの、あたしには」

「なんでだ?」

「え、言わなきゃダメ?」

 いつも瞬時に英断をくだすクリルが、珍しく本当にためらっているようで、聞き返してきた。

「ここまできて、もったいぶるのかよ」

 クリルが自分のことについて語るのを聞くのは初めてだったファノンは、先をうながした。

 ――いつも、クリルは人のことばっかり優先するからなあ。

 そもそもクリルがこんな話をするのも、気持ちがさかむけている今だからこそ、なのかもしれない……とファノンは思った。

「ん……あたしね……やりたいことがあるんだ」

「やりたいこと?」

「あたし、セントデルタを変えたいんだ。それをこの目で見るまでは……少なくとも、見れる段取りがつくまでは、結婚なんて時間のかかること、できっこない」

「……そ、そうか」

 ファノンはクリルの淡々とした夢語りに、かなり動揺していた。

 結婚する気はない。つまり、誰とも付き合う気はない。

 ファノンのことも、恋愛対象として、まったく眼中にない。

 それを突きつけられた気がしたからだ。

「そ、そうだよな。でなきゃ、エノハ様と口げんかなんて、大衆の面前でやったりしないよな」

「今のセントデルタでは救えないものがある。色々エノハにも進言したけど、聞き入れられなかった。だから、それを変えられる人を探してるんだ」

「セントデルタを変える……? 待てよ、それって、エノハ様を倒すって意味か?」

 さすがにファノンの心はざわめいた。

 もしそうなら、見過ごすわけにはいかない。

 ファノンにとってクリルは大事だが、エノハも育ての親なのだ。

「そのセントデルタを変える人間ってのは……まさか、もう見つけてるのか?」

「うん、まあね」

「誰だ、そいつは」

「言わないよ、その人のために」

「そうだろうな。でも俺はエノハ様に育てられた立場として、お前を止める義務がある」

「ふうん……どうすんの?」

「……考えてない」

「よかった。刺すって言われたらどうしようかと思ったよ」

「そんなこと、できるわけないだろ」

 クリルの言葉の軽さに、ファノンのほうが危なげな気持ちになって、首を横に振った。

「まあ、あたしも今のところ、その相手に断られ続けてるんだけどね」

 クリルの頭の中に、リッカの横顔がうかぶ。

 人のいないときを見計らい、かねてから何度もアプローチしているのだが、リッカにその気配は生まれない。

 自警団長にえらばれる彼女が一言、エノハに「退位を」と進言すれば、聞く耳を持つエノハのこと、かならずリッカにその座を譲るはずだ。

 彼女の優しさと芯の強さこそ、これからのセントデルタには必要なものだ。

 それが、クリルの考えだった。

「なんだよ、できないんじゃないか」

 ファノンは一気に、そこで楽観した。

 実行のめどが立っていない様子をただよわせるクリルの表情が、ファノンに選択を保留にさせるきっかけになったからだ。

「そのくせ、さっきモエクに、ともにエノハ様を打倒しようと持ちかけられても、蹴ってたじゃないか。モエクこそ、ちょうどいいんじゃないか? 変えられる人としては」

「蹴った理由は、モエク本人に言ったとおり、最初はあたしを嫌いとか言ったから。今は少し断る理由は違うけどね」

「そう、か」

 ファノンは胸の奥がずきん、ときしむのがわかった。

 じゃあ、いまの断る理由は何だ、とは、聞けなかった。

 告白相手と顔を合わせづらいから、という、クリルらしい理由なのだろう。

 それでもファノンには、じゅうぶん辛い気持ちになれる理由だった。

 自分に対して、クリルはこんな表情を見せたことがないから。

「ファノン?」

 クリルが、ボンヤリするファノンを心配し、上目遣うわめづかいで見る。

「あ、ああ、すまない、続けてくれ」

「うん……でも、あたしもモエクと同じよ。この箱庭世界を変えたいと考えてる」

「本当に、やる気なのか」

「ええ」

「俺は反対だよ。エノハ様は今も一生懸命だ。自分のためにセントデルタを扱ったことなんて、一度もないんだぜ。それに……あの人は俺の親だ。俺の命だって救ってくれた」

「白血病にかかったあなたを手厚くも、全治するまでエノハの塔で療養させたんだものね」

「そうだ」

 ファノンはうなずいた。

 ファノンは4歳になったころ、余命数ヶ月という、重い白血病になったことがあった。

 白血病とは、血液のガンとも言われる病だ。

 しかも判明したころには、血液中はほとんどガン化した白血球で一杯で、医師では手の施すことができないほどの、重い末期ガンとなって、ファノンを痛めつけていた。

 ファノンは20歳どころか5歳を待たずして闇に帰る、そのはずだったが、エノハがそれに動きを示した。

 ファノンの罹患りかんを知るや、エノハはファノンのもとまで自らおもむき、両親に許可をとり、ファノンをエノハの塔へつれていったのである。

 そうして第三次世界大戦の間につちかった技術をもちい、ファノンをガンの脅威から救出したのである。

 メイが5歳でクリルの元にいたのに対して、ファノンがクリルに預けられたのが10歳のときだったのは、この療養が原因だったのである。

「このセントデルタが作られてから、俺が一番エノハ様との付き合いが長いんだ、賛成できない」

 おそらくファノンだけだろう。

 エノハの喜怒哀楽を間近で見てきた人物は。

 その自負が、ファノンを意固地いこじにさせていた。

「味方になってもらおうとは思わない。だから今まで言わなかったんだもの。でも――あたしを止めるために、あたしを殺すなら……あなたになら、大人しく殺されるよ?」

 クリルはそこで、にこりと笑った。

 それがあまりに屈託なく、自然で、とてもではないが、この場にふさわしい笑い方ではなかったから、ファノンはむしろ戦慄を覚えた。

「殺せるわけないだろ、俺はエノハ様と同じぐらい、お前に育てられてきたのに」

「へへ、腰抜けー」

「だいたい、何でお前を殺さないといけないんだよ。俺、エノハ様にも、お前にも死んで欲しくないよ」

「……」

 クリルはワインをまた、ひと含みしてテーブルに置きもどした。

「ねえファノン、さっき、メイと川に行ってたんでしょ」

「何でもお見通しだな」

「だって、ここの窓から出てくのが見えてたし。あー、川に行ったんだと思ってたよ」

 クリルは親指を傾けて、横にあるルビーの窓をさした。

「あの川、好きなんだよね。足とか入れると気持ちいいし」

「俺も好きだぜ、立ちションできるし」

「……ウソだよね?」

「ああ、ウソだが」

「安心したよ、ワイングラスで人を殺せるか、試す必要がなくなった」

「おう……」

「そういう冗談はさておいて」

 クリルは天井をあおいで、大きく、疲れた息をついた。

 本当はもうクリルは、かなり眠たくなっているのかもしれない、とファノンは思った。

「そろそろ、あの川にサケ遡上そじょうしてくる頃だね」

 クリルが何を言わんとしているか計りかねて、ファノンは黙ってうなずくのみにした。

「エノハはあの鮭を見ていて、あたしたちの命を制限することを思いついたらしいよ」

「俺たちの命って……アポトーシスによる、二十歳はたちの寿命のことか」

「そう、鮭は生きているうちのほとんどを海で過ごすけど、子どもを残すときになると、故郷の川に戻ってくる。その頃になると、鮭たちに仕掛けられた遺伝子の時計が、いっせいに鳴りだすの。筋肉細胞の自爆と言う形でね。エノハは人類の復活のさい、この時限爆弾も埋めこんだ」

「葬式のとき、ハノン先生の顔がふやけてたのも、そのせいだってのか」

「そうよ、エノハは人間を500年に渡って、罪人のように扱い続けている。自由を奪い、狭いセントデルタに隔離かくりして、ちゃくちゃくと、依存心を高めて独立心をくじき、それをもって人間を清い生命に昇華したと唱える」

「それが許せない、だから革命家になるってことなんだな」

「本当になりたいのは啓蒙けいもう家よ。エライことを紙に書くだけで、ご飯を食べられる仕事」

「昔の啓蒙家ってのは、副業でやってたぐらいだろ。本業として金をガッポリもうけてる人間のことは啓蒙家じゃなく、教祖としか言わないよ」

「だったらここにいるね、セントデルタで一番エライのは、まさに闇宗教とかいう、自分の空想宗教のカルト教祖さま」

「エノハ様の悪口はやめてくれ」

「これだけ言ったんだし、少しはエノハが嫌いになった?」

「そこまでエノハ様が憎いか。一体なぜ、そこまでエノハ様を憎むんだ。昔のいじめっ子に顔が似てるから、とかか?」

「いじめられた記憶もなくはないけど、エノハ似じゃあ、なかったなあ」

 クリルは左耳にくっつくアクアマリンの補聴器を、指でもてあそびながら続ける。

 補聴器をいじるのは、クリルが考え事をする時の癖だった。

「あたしがエノハの法が間違ってると言うのは、彼女が人の可能性を否定してるからだよ。

 可能性がないと感じているからこそ、エノハは人種を消滅させた。宗教も自分が用意したもの以外は認めなかった。二十年のくくりの中で、人を束縛することを選んだ。ここまでがんじがらめにするのなら、人類を復活なんてさせず、自分だけで生きればよかったのよ」

「エノハ様もさみしかったんじゃないか?」

「そうかもね。たぶん彼女は、死ぬ勇気もないんでしょう。だからダラダラ500年も、同じ生活をしてる」

「俺は少なくとも、エノハ様に感謝してるぞ。でないと俺、クリルに会えなかった」

 ファノンが真顔で言うと、クリルは目を少し見開いた。

「……そう言われるのは嬉しい。ファノンは、このセントデルタが好きなんだね」

「好きさ、この街の人が、みんな好きだからな」

「あーもー、調子が狂うなー。一緒になってエノハの悪口、言ってくれたらいいのに」

 ファノンがあまりにも同意しないせいで、クリルは頬をふくらませたが、これはクリル天然のリアクションであって、本心から不快をしめしているわけでも、ファノンにイエスマンを望んでいるわけでもない。

 それがわかるから、ファノンも安心してクリルにノーと言えるのだ。

「でも俺はたぶん、どっちかを選ばないといけないとしたら、クリルと一緒に行くだろうな。クリルに傷ついて欲しくないから」

「――っ」

 ファノンの宣言に、クリルは言葉をつまらせた。

「エノハ様に槍を向けることはできないけど、クリルを守ることなら、できると思うんだ」

「ありがと、でもあなた、あたしより弱いじゃん」

「盾ぐらいにはなるさ。それにクリルも、ツチグモと戦った時、火の海になった森の中で、俺に言ってくれただろ。俺を守るって」

「聞いてたの? あれ」

「うん、意識は飛びかかってたけどな。うれしかったぜ」

「……もう寝るね。なんか眠たくなっちゃった」

 ついっと顔を背けながら、クリルはごにょごにょ言った。

「あとファノン?」

「ん」

「話、聞いてくれて、ありがと。少しは楽になった」

 心なしか猫背になって表情を隠そうとするように、クリルはファノンにつぶやいた。

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