30.恩師

 当時、うしろの土手を走る子供の笑い声を背中に聞き流しながら、ファノンは体育座りになって、ポワワワンの川を見ていた。

 いや、ほんとうは川を見てもいないし、そのせせらぎを耳にしているわけでもなかった。

 この川で、沸き上がるコンプレックスを洗い流そうとしていたのかもしれない。

 12歳、小学校卒業とどうじに、ファノンは無職としてスタートを切った。

 小学生時代、やりたいことが見つからないファノンは、その就職活動も気がそぞろだった。

 面接をする八百屋、メガネ販売員、宝石瓦職人、ほか諸々の仕事人も、ファノンをひと目見ただけで、見抜いたのであろう。

 こいつに伸びしろはない、と。

 けっきょくファノンは、同級生が一人残らず職についているさなか、この人通りの少ない川に逃げ込むしかなかったのである。

 他に手段がないわけはないのだが、少なくともファノンの頭の中ではそれしか選択はなかったのである。

 何日かそんな暮らしをしていると、すれ違う同級生が、自分を見下しているような気がしてきた。

 隣人が、陰でファノンを揶揄やゆしているような気がしてきた。

 この川に座りこんでいても、それが聞こえてくるような気がしてきた。

 じっさい、たしかに人は口に出さずともファノンをバカにしているが、それは一年のうちの数十分、もしくは数時間にすぎない。

 それでもファノンには一年のうちの一年が、それで満たされているふうに思えたのである。

 ようするに、そんな風に思うのは、人が自分を許せないのではなく、自分が自分を許せないからである。

 そうして失職生活を、自虐じぎゃく的にすごして、2ヶ月がすぎたころのこと。

「ファノンじゃねえか」

 その日は珍しく、ファノンの背に声がかかった。

 振り返ると、そこにいたのは、まるで肩が山のように上がった身長185センチの巨漢と、それよりは少し小さいが、キウイフルーツのようなヒゲをアゴにびっしり生やした、筋肉男。

 いかつさ選手権でもあれば、間違いなく優勝争いしそうなふたりが、ファノンの背を見下ろしていた。

 当時16歳だった、ゴンゲンとヨイテッツだった。

「どうした少年! 悩んでいるようだが!」

「いえ……座ってただけです」

 関わりあいになりたくなかったから、ファノンはとっさに嘘をついた。

「ほう! 俺は! 君が! 昨日も! そこに! 座っていた気がするが!」

 男――ゴンゲンは叫んだ。

「イヤおとといも座ってたぜ、そいつ」

 ヨイテッツはファノンの背を指差しながら、ゴンゲンに付言した。

「何を! 俺は三日前にも見た!」

「ふざけるな! 俺は四日前にも見ていた!」

 いったい何の勝負なのか、ゴンゲンとヨイテッツはにらみあった。

 そんな二人の気迫を、今なら軽くいなすことができるファノンだが、12歳の時には、ただただ萎縮いしゅくするしかなかった。

「おい筋肉デブ」

 ゴンゲンがヨイテッツに雑言ぞうごんをあびせる。

「なんだヒゲ」

 ヨイテッツも応えてにらみかえす。

「少年が泣きそうだぞ、俺たちの努力オーラを浴びすぎたらしい」

「俺はそんなキモいオーラ出しとらんわ」

「なら、なぜ泣きそうかも、わかってるな?」

「お前の顔がことさらに気色悪いからだろう?」

「違う! 少年はいま! 悩んでいるのだ! つまり今! 努力ッッしているッ! さなかなのだ!」

「でたよこのバカ……」

 ヨイテッツは困ったように顔を手で覆った。

「言わずともわかる! 少年はいま! 無職! 無職なのだ!」

 ゴンゲンはびしりと、ファノンを指差したあと、ものすごい剣幕で、ガニ股になって土手から駆け下りると、ファノンの背まで歩いて、その後頭部を両手でつかみ、ゴンゲンのほうに無理やり振り向かせた。

「少年! この俺を見ろ! 俺はお前にどう見える! 強そうか! 弱そうか!」

「つ、強そう、です……」

 自分の頭部をまるで、古代のラグビーボールのようにつかまれるファノンは、本当に泣きそうになっていた。

 ゴンゲンはいつ殴りかかってきても不思議ではない、そんな気迫をにじませていたのである。

「それは俺が努力してきたからだ! 明日のために! それを夢にえがけるから、がんばれる! そうだろう!」

 目を見開くファノンの目玉に、至近距離からゴンゲンのつばが飛び散ってくるが、とてもではないが、それを忠告できる空気ではないので、ファノンはウンウンとうなずくだけだった。

「未来には、お前に生み出されるために、何かが待っている! 人生は、お前が努力を生み出すことを待ってるんだ! もしもお前がいなくなれば、その努力も、生まれることなく消えちまうんだよ! ……これは誰の言葉だっけか!?」

 ゴンゲンはそこまで言ってから、ヨイテッツに振った。

「心理学者のフランクルだが……本物のほうは努力についてなにも触れてないぞ」

 ヨイテッツがめんどくさげに付け足した。

「まあ、そういうことだ! だからヨイテッツ! こいつを雇え!」

「イヤ、どういう理屈だ」

「雇え!」

「雇うのはお前だ」

「なぜだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 ゴンゲンは衝撃波のような咆哮ほうこうをほとばしらせたが、その20センチ目前にはファノンの顔面があるので、ファノンはひたすらその騒音を黙って耐えるハメになった。

「俺、弟子いるし。二人を養うほど金がねぇよ。それに子供がまもなく生まれるからな。新人教育をするヒマがねえ」

「そうか……」

 そこで初めて、ゴンゲンの語気が弱まった。

 と、思ったのは一瞬だった。

「よしわかった! 今日からお前は俺の弟子だ! よろしくな少年!」

「えええ……」

 ファノンは迷惑げに応えた。

「そこはハイ! だ! お前はこれから栄光の努力ロードを走るんだ!」

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