37.なぜ助けた?

「まだ、かなり痛むな……」

 フォーハードはき布団のないベッドのフレームに腰かけ、自分の脇腹の裂傷に、手のひらを添えた。

 このころ、フォーハードは怪我を心配するアエフの家から離れ、たまたまその近所に存在した無人家屋に住むようになっていた。

 ただしその家は、どこもちていないばかりか、しょっちゅう換気がおこなわれているためか、生活感がわずかにのこっていた。

 土足生活が基本のセントデルタだから、玄関は杉のフロアリングだが、その床に土ボコリはほとんどなく、珪石けいせきのような優しい光沢をたもっていたままだった。

 すこし廊下をすすんで左右の部屋に入れば、以前の家主の家具がそのまま残っている。

 万物ばんぶつはすべてエノハの奉じる『闇』からの借り物ゆえに、いつでも誰かが住んでもいいように、無人の家も、近所ぐるみで掃除そうじが行われていて、いつも綺麗きれい・清潔にたもたれ、空気も澄んでいた。

 ここ一ヶ月の、この空き家の掃除当番はアエフだったため、逆に言えばアエフ以外の人間はここに立ち寄らない、ということになる。

 古くからセントデルタのシステムを熟知じゅくちしていたフォーハードは、ここに隠れ家を移すことに決めたのである。

 そうしないと、アエフの育ての親に、フォーハードが起居していることが、知られてしまいそうだったからである。

 アエフは事情も聞かずに手術までして、エノハへの通報までひかえてくれたが、家主のほうまで同意見とは限らない。

「ん……?」

 フォーハードは白オパールの窓ガラスの向こうで、人影が左右するのを視界の隅にとらえた。

 透明度の低いオパール窓だから、フォーハードにはそれが誰かはわからない。

 だが、つねに命を狙われてきたフォーハードは、すぐさま手のひらの中に、次元のエネルギーをくすぶらせた。

 まだ万全な体調ではないが、今のフォーハードなら戦うこともできるし、逃げることもできる状態だった。

 この不調なコンディションでも、セントデルタの人間を皆殺しにできるぐらいには、回復していたのである。

 だが、その人影はこの無人家屋に入ろうとはせず、何か違うものに執心しゅうしんしているようすだった。

 オパールの窓ガラスのせいで見えにくいが、そこには一本のサルスベリの木がくねりながら生えていることは、フォーハードも知っている。

 しばらくその木の周りをうろついていた人物だったが、少しして動きに変化が起きた。

 その人物が、木登りをし始めたのである。

 フォーハードは、警戒心というよりは興味を感じて、スライド式の窓を相手にさとられないよう、少しだけ開けた。

 その隙間から外界を見渡してみて、フォーハードは小さくうなった。

 そこには、フォーハードの救い手だった、アエフが見えた。

 アエフが木に登り、降りられなくなった白黒ブチ模様の子猫を助けようとしていたのである。

「おいおいおい……」

 フォーハードは思わず、ひとりごちた。

 きのうは雨が降っていたから、ツルツルとした木肌のサルスベリは、文字通り滑りやすくなっている。

 こんな時に木登りをするなど、正気の沙汰さたではない。

「あいつ……大人を呼ぶとか、ほかの方法があるだろ」

 フォーハードがぼやいた、その時だった。

 フォーハードが心配する通りのことが起こったのである。

 案のじょう、アエフがあたかも足をこすらせるようにして木からすべり落ちて、320センチ下のジルコン岩のせり出た地面に、猫を胸に抱きしめたまま、頭から落下した。

 その瞬間、フォーハードの体は動いていた。

 フォーハードは敵襲のために備えていた右手の空間跳躍ちょうやくのエネルギーをひらめかせ、瞬時にしてアエフの落下点に現れていた。

 それからまばたきをする暇もなく、フォーハードは両腕にアエフの身体を支えていた。

 腕にのしかかる衝撃が、フォーハードの重症の脇腹までかけめぐり、激痛を踊らせる。

「イっっ、…………!」

 フォーハードは口の中でもだえ声をひねりだした。

 それでも、なんとかフォーハードは衝撃に屈するのを踏みとどまり、アエフをしっかり地面の石から守った。

「マハト……」

 いぶかる表情で、抱きかかえるフォーハードを見上げ、アエフは名前を呼んだ。

「……だ、大丈夫なようだな」

 フォーハードは脇腹の痛みを耐えながらも、アエフをおもんぱかった。

「いつからいたの? さっきまで、姿はなかったのに」

「お前の注意不足だ。俺はずっとここにいたよ」

 そういってフォーハードは、ゆっくりと腰を曲げて、アエフを地面におろした。

「そうだったのか……ありがとう、助けてくれて」

「まだ麻酔ナシで手術してくれた礼をしていないからな」

「大人が痛さで泣く姿、初めて見れたよ」

「減らず口を」

 フォーハードは笑おうとしたが、そこでまた、みずからの脇腹に、ひどい鈍痛がよみがえるのを感じて、ふたたび顔をしかめた。

「イテテテ……帰って寝るよ」

 フォーハードは腰痛患者のように腰骨をおさえ、背をむけた。

「ねえマハト」

「んあ」

 アエフが呼び止めると、少々めんどくさげに、フォーハードは背中越しに返事をした。

「――あなたは……セントデルタの住人じゃあ、ないんでしょ」

「……」

 出し抜けの質問に、フォーハードは顔にこそ出さなかったが、内心おどろいていた。

「ねえマハト、教えてよ」

 その背中を向けたままのフォーハードに、アエフがたたみかける。

「なぜ、そう思う?」

 背を向けたまま、フォーハードは聞き返した。

「セントデルタは一万人が住んでいる。お前が知らないだけだよ。その中には、俺のような肌の白い奴も、何人かはいる」

「逆だよ。たった一万だからこそ、そんなに白い肌の人がいたら忘れられないよ」

「……」

「あなたは、何者なの? さっきだって、うしろにあなたはいなかったのに、突然現れた。

 それに……あなたの顔、教科書で見たことがあるんだ。髪の色も、眼の色も違うけど……そうとしか思えないんだ」

「へえ――」

 フォーハードはそこでやっと、脇から手を離し、アエフにむかってまっすぐ振り返った。

「誰だ? その教科書の男ってのは」

「その……」

 そこでアエフは口ごもった。

 それは、もしも今からアエフが言うことが違ったら、それを聞かせる相手に申し訳ない、というような顔色だった。

 とはいえ、アエフは目の前の怪我人が、『水爆の男』マハト・フォーハード・ミューゲン本人だとも思っていない。

 なにしろフォーハードは、500年前に自らの水爆により、南極で死んだのだから。

 怪我人はほんとうは不審者なのではないか? という認識になりつつある、アエフの顔色。

 その態度は、フォーハードにこの場所の見切りをつけさせるには充分だった。

「――お別れだな、アエフ。俺はそろそろ、行かなきゃならないようだ」

 アエフが言葉を選んで沈黙する間に、フォーハードが口を割りこませた。

「……どこへ?」

「なあアエフ。お前は死んで神に会って、願いを叶えてもらえるとしたら、何を願う?」

 フォーハードは講演でもするように、横を向いて、空をあおいだ。

 と、そのままフォーハードは片手を目にあてると、こするように指を動かした。

 つぎにフォーハードがアエフを見つめた時、あたかもオッドアイのように、青い左目になっていた。

 先ほどまでのフォーハードは黒髪で、かつ、黒い瞳。

 だがアエフの覚えていた『水爆の男』フォーハードの顔は、金髪と碧眼である。

 白人・黒人・黄色人種の遺伝子をまぜこまれたセントデルタ人の中に、劣性遺伝子である金髪と青い瞳が、生まれるはずがない。

 フォーハードは髪を染め、目にカラーコンタクトを仕込んでやりすごしていたのだが、アエフに真の片目を披露することで、それを証明して見せたのである。

「神様はエノハ様しかいないよ。それに死んだら、僕たちは闇に帰って数京すうけいの数億乗の時間、素粒子としてただよいながら、一部分が虫になったり花になったりするんだ」

「ん……そういや、ここはそんな宗教だったな」

「マハト……願いが叶うとするなら、あなたは何を願うの」

「俺自身の夢はもう、おおかた果たしたよ。だがあえて語るなら……かつて、俺の大事な人が見たいと言っていたものを、代わりに俺が見てみたい。

 それは――未来の果てさ」

「未来の、果て……?」

「この地球の寿命は、どうがんばっても50億年ももたない。太陽の寿命が尽きて、この暖かさも保てなくなり、冷たい惑星になるからだ。

 かつて、太陽が死ぬとき、地球は太陽に飲み込まれるという人間がいたが、太陽から離れるという人間もいた。その議論の決着する前に、俺は連中を滅ぼしたが。

 なんにせよ星は永遠じゃあない。月も、地球も、太陽も、ほかの星々も、いずれ消える。たとえ永遠の命を得ようとも、この必滅の法則からは逃れられん」

 フォーハードは天に向けて指を突きはなった。

「この宇宙から銀河という銀河がまたたきをとめ、太陽という太陽が光るのをやめ、ブラックホールさえ寿命を終え、天という天が闇の一色におおわれ、光もなく温度もなく、それでもなお時を刻み、その果てに終末を迎えた――さらにその後を見てみたい。

 常人ならば、それを夢想むそうするしかない。

 神にたよるしかない。

 せいぜい、少しく賢いものが数式によって未来を予想するだけだ。

 だが俺は神にたのまずとも、賢者に頭を下げずとも、空想で我慢がまんする必要もない。俺には、それを見届ける力がある」

「マハト……あなたは」

 この時、さすがにアエフはいま自分が話している相手が、マハト・フォーハード・ミューゲン本人なのではないかと思うようになっていた。

 そしてその予想は、のちにファノンと話した後で確実なものとなるのである。

「このセントデルタは、俺にとっては、その宇宙の末路を見るために存在するのさ」

 フォーハードは、心の中で、その鍵になるのがファノンだよ、と付け足した。

「じゃあな、アエフ。死ぬまでは達者でやれよ」

「待って。一つだけ聞かせてほしい」

「なんだ?」

「あなたが僕の思っている通りの人なら、真実を伝えた相手を生かしてはいないはずだ。僕がこのことを他の人に話すこと、あなたなら想像できるんでしょう?」

「……昔の俺なら、お前の想像したことができた。だが今の俺は、大人ならともかく……子供を俺自身の手で殺すのは、不可能にされたんだ。かつて、ある平和主義者にかけられた呪い……いや、祝福かもしれないな」

 フォーハードはそう言い残すと、また背をかえして、ゆっくりとした足取りで、仮住まいとは逆の方向へと去っていった。

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