54.超弦のしがらみ

 目を閉じるファノンの鼻腔びこうに、懐かしい匂いが伝わった。

 ローズゼラニウムを香料とした、石鹸の匂い。

 アクアマリン通りの路面店にある石鹸屋のものだ。

 つまり、自宅の風呂場で使われているものと、同じものだ。

 ――クリルは青いものが好きだから、石鹸もこの青い奴を使ってるんだよな。そういや補聴器も水色のアクアマリンだ。

 ――……でもゴンゲン親方もあの石鹸、使ってたな……あのイカツさから、香ばしい匂いがでてるんだもんな。

 ――あと一人、この匂いをさせている人がいた。誰だったか。

 ――ああ、エノハ様だ……。

 ファノンがゆっくり瞳をひらくと、自分の右頬に、誰かの髪がやさしく、そよいでいたのが見えた。

 ファノンの思ったとおり、それはエノハのものだった。

 柳のようにやわらかいエノハの金髪は、ファノンが曇天にこじ開けた夜空の星々によって、ゴールドの輝きを与えられて、ほんのりときらめいていた。

 ファノンは、片腕のエノハにおぶられた状態で、ダイヤモンド街道の上にいた。

「エノハ様……」

「起きたか。ケガは大丈夫か?」

 エノハは街道の前方を見据えたまま、たずねてきた。

「大丈夫だ、ありがとう……でも、もう歩けるから下ろしてくれよ」

「私が背負いたいのだ……昔のように。それでは、いかんか?」

「……昔のように、か。あんたの中じゃ、俺はまだ5歳児なのか」

「昔の印象というのは、どうも取り除きにくいものだな。我ながら笑ってしまうよ」

「……」

 仮にも女の人に、男が抱っこされるなんて、誰かに見られたら笑われるだろ、とファノンは言い返そうかと思ったが、感傷的に語るエノハに、それは少し言い過ぎな気がしたので、やめておいた。

 しばらくそのまま、黙ってセントデルタへ続く街道を進んでいると。

「……ゴドラハンのこと、どう思った?」

 エノハが沈黙を断ち割って、相変わらず帰り道を向いたまま、背中のファノンへたずねてきた。

 この話を切り出したら、エノハとフォーハードの癒着ゆちゃくの話に及ばないわけがないので、ファノンはてっきり触れてこないものだと油断しきっていた。

 だが、以前なら油断のままにしどろもどろになっていたファノンだったが、今は違った。

「思想の話とか、俺にはわからない。でも、いい奴だったと思うよ」

 ファノンは率直に告げた。

「私も、そう思う」

 エノハはほんのりと神妙な顔をしたが、ファノンに同調してきた。

 エノハの良いところは、自分にとって不快な話であっても、まっすぐ受け止める器のあることだ。

 だからこそ、セントデルタの頂点に立てているのだろう。

「……なら、なんで争うんだよ。考え方が違うから殺すなんて、エノハ様がいつも言ってる旧代の人間と同じじゃないか」

「言うようになったな、ファノン」

 エノハが笑った。

「意見の違う人間同士は、話し合ってもムダなのか。ゴドラハンは言ってたぞ。闇宗教のことは理解している、同意はしないが、と。それに、あいつはこうも言っていた。許すことも……つまり許容することも大事だと。人と人の付き合いって、それが重要なんじゃないのか」

「ファノン……少人数同士なら、それもできよう。だが、10億、100億の人間の集まりに、それは難しいのだ。数が多すぎるからだ。当時から、まともな人々はすでに、殺してねじ伏せるよりも、関わりと議論のほうが重要だと気づいていた。にもかかわらず、できなかった。多数の人間は、会ったことも話したこともない相手を疎み、嫌い、そして憎んだ。もしも人間にそういうこともなく、フォーハードに救いの手があれば、水爆の日はなかったかもしれんな」

「だから、人間の命を短くしたのか? たしかに、すぐに死ぬ自分を哀れむからこそ、人は人に優しくなれる」

「……メメントモリ、というラテン語がある。死を思え、という意味だ。私は人間を徳で動く生命体にしたかったが、それには死を近くに感じるしかないと考えた。

 おかげで、セントデルタは理想の世界として、よく機能していると思うよ」

「それだけじゃないだろう。フォーハードが、あんたの手心、親心、愛情、そういったものを邪魔しているから、セントデルタは粛々と歴史を重ねることができているんだ。

 あんたの慈しみの心が誰にも邪魔されなかったら、おそらくセントデルタは500年ももたなかった。

 フォーハードがいなければ、エノハ様は死にゆく人たちに、とっくに手を差し伸べていたはずだ。もしかしたら、いまごろ、誰も死なないエデンが生まれていたかもな。だけど皮肉なことに、そこは全員が幸福だと感じられる世界ではなかったはずだよ」

「やはりゴドラハンは話していたな、私とフォーハードの繋がりを」

「事実なんだな……やっぱり」

 ファノンは苦くつぶやいた。

 事実であってほしくなかった。

 セントデルタは永遠に続く理想の社会で、エノハが鉄の意志で、この500年間、堕落もせず譲歩もせず、甘えもせず甘えさせもせず、たくさんの知人が20年で闇に帰っても心が揺らがず、この平和を保っている……そう考えたかったが、ゴドラハンの話を聞いたあとでは、それは無理だとしか感じられなかった。

 やはりこの窮極倫理の世界は、フォーハードの力で成り立っている……。

 ファノンにはそれだけでもう、ここが理想の世界だと呼べなくなっていた。

「フォーハードがいなくても、今の世界を保つことはできないのか? 会ったことのない人が、会ったことのない人を慈しむ。そんな世界にできるシステムを、あんたなら作れるんじゃないのか」

 エノハの鎖骨に置かれたファノンの手が、りきむあまりに、わずかに握りしめられた。

「人の行きつく先をこの目で見た私が、いまさらそんな希望を抱くことはできん……いや、違うか。私もしょせん旧代の人間だ。悪いと気づきながら、変えられんのかもしれん。

 私もしょせん、フォーハードと同じく、死ぬべき人間なのだ」

「エノハ様……それは」

「この話はもう終わりだ。見ろ、ファノン」

 エノハは首をらして、街道の向こうを示した。

 ダイヤモンド街道の、ほんのり坂道がかった先に、人影がいくつか散見できた。

 その内のひとりは、クリルだった。

「ファノン! ファノンーー!」

「クリル!」

 ファノンが叫び返すと、あたかも合図を受けたかのように、エノハの右腕に抱えられていたファノンの足の戒めが解かれた。

 ファノンは地面に降り立ち、無表情に立ち尽くすエノハの横を抜けて、クリルに走り寄った。

 クリルはそばまで来ると、ファノンの首に、まるで抱き枕でも締めるように、両手で抱きついてきた。

「ファノン! このバカ! 心配かけて!」

 ファノンの横顔に頬ずりするクリルの声には、涙がこもっていた。

「ごめん……クリル」

 再会を喜ぶファノンの中に、謝罪の念以外の感情がもたげる。

 ファノンもこのまま、クリルの背中を抱き返したい。

 だが、ファノンはその衝動を、徹底的に押し殺していた。

 ――この戦いで、俺は完全にバケモノになっちまった。

 ――意識が消えかかる中、フォーハードが言っていた。次に目覚める時、俺の力は数兆倍になっていると。

 ――数兆倍なんてもんじゃない、これは……。

 ファノンの手のひらの中には、いま、銀河ひとつをまるまる消滅させられるようなエネルギーがくすぶっている。

 怒りも憎しみも感じていない、今の状態で、である。

 それはあたかも、火のついたタバコをくわえながら、石油の河を歩いているような気持ちだった。

 熱を帯びた、このタバコの灰が石油の河に落ちた時……一緒に歩くクリルはどうなるだろう。

 側にいても遠くにいても、等しくその100億度の熱波は、ファノンの愛する人を焼くだろう。

 だがそれでも、ファノンは少しでも自分から離れた場所に、クリルにいて欲しかった。

「クリル……本当に、すまなかった」

 ファノンは意識的に、クリルを危険から守るように、抱きつくクリルの両肩をつかんで、正面に見据えた。

 この抱擁ほうようの否定を気づいたのかどうか、クリルは涙ぐんだ瞳を、少しばかり見開いてファノンを見つめていた。

 その視線からそれるように、ファノンはクリルのうしろで、ファノンの気持ちを知るがゆえに遠慮がちに立つメイに近寄った。

「メイ……お前にも、迷惑をかけたな」

「……うっせバカ。お前、一ヶ月ずっと料理当番だからな」

「わかったよ……モエクも、ありがとう」

 ファノンは今度は、メイの横にたたずむモエクを見た。

 モエクは無表情に首を横に振るだけだった。

「……」

 ファノンはこんどは、うしろで自分を見守るエノハを見た。

「エノハ様……」

欺瞞ぎまんというならそれでもいい。私こそが停滞の権化ごんげだという自覚もある。だがそれでも、私はセントデルタを守る」

 エノハは冷たく、まるで挑戦を放つように言い切ると、ファノンたちを通りすぎて、自警団に合流し、そのまま帰路きろにつきだした。

 いや、その中に、一人だけ、ファノンを見つめたまま、動かない人物がいた。

 リッカだった。

 リッカはすごんだ表情のまま、かなり乱暴な歩調で、ファノンへ近づいてきた。

 そうしてファノンの前に立つや、リッカは平手を、火薬が破裂するような音を鳴らして、ファノンの左頬へ叩きつけていた。

 ファノンは目をむいて、おそるおそる、曲げられた首をもどしてリッカを見つめた。

「16人」

 リッカはにらんだまま、たん的に告げた。

「え」

「16人死んだよ。あんたのために。ニニナも陣形からはぐれて、死にかけてた。あの子が死んだら17人だったよ。

 わかってたはず。あんたが外に出たら、どうなったか。なんでゴンゲン親方に言わなかったの。命を狙われてますって。そう話したら、こんなことには……」

 リッカが一方的にまくし立てていると、その間にクリルが割りこんできた。

「ねえリッカ……やめて」

「なんでかばうの? あんただって、この戦いで友達が死んだじゃん。なんで?」

「ファノンはさっきまで誘拐ゆうかいされてたんだよ? その話、今でなくてもいいでしょ?」

「今以外に、いつ言うってのよ」

「あたしたちがアジンに囲まれた時、助けてくれたのはファノンだよ。あれだけのアジンがセントデルタを攻めたら、ファノンがあの力を使わなければ……もっとたくさんの人が闇に帰ったよ」

「ファノンのその力は、フォーハードに利用されようとしてる。瞬時に何百ものアジンを消せるあの力が、あたしら人間に降りかかったらどうするの? そんな時、あたしたちは、どうすればいいの? アジンにもツチグモにも弓矢は効く。でも、その力はどうなの?」

「……っ」

 クリルは黙ってうつむいた。

「それに…………う」

 喋らなくなったクリルへ言葉の追い討ちをかけるべく、リッカはさらに警句を重ねようとしたが……できなかった。

 クリルはリッカをまっすぐ見つめたまま、涙を頬から伝わせていた。

「ずるいよクリル……そんなやりかた」

 リッカは唇をみながら背を向け、セントデルタのほうへ、去っていった。

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