そこの病室に、ニニナ……もとい、ロナリオがいた。
「ありがとう……ございます……なんて言えばいいのか」
ロナリオはベッドから上体をあげて、見舞いに来ていたメイとアエフに、ていねいに礼を述べた。
本物のニニナからは、ほとんど彼女のデータがとれなかった。
だからボロを出す前に、ロナリオは自身を記憶喪失だと偽っていた。
「ございます、なんて。あなたは使わないよ。よく戻ってきましたね」
メイが伝える。
「はい……ええと、あなたは、私の、なんだったの?」
「ヴァイオリンを一緒に習った仲ですよ」
ねんごろに、メイが告げた。
「本当に、記憶がないんですね」
アエフも苦々しげに声をひりだした。
「この子は……」
「ニニナさんの近所の子供ですよ」
「そう……覚えてなくて、ごめんなさいね」
「いいんですよ、ニニナさん……僕のほうこそごめんなさい。今日は僕のほうが予定があって、あまり長居ができないんです」
「あら……なら、メイのほうが随伴なの?」
「ええ……この子はヤンチャ盛りだから、見といてほしいとモエクから。この間も、サルスベリの木から落ちかけて、親切な人に助けられたらしいですよ」
「う……まあ、ね」
アエフがどもった。
ロナリオがアエフの表情と態度から、フォーハードのことを導き出すことができれば、セントデルタの今後はかなり変わっただろうが、さすがにそれはロナリオにも無理な芸当だった。
「時間はないけど、ファノンのところにも見舞いに行かなきゃ。」
「ファノン……?」
ロナリオの頭頂部より6センチ深層にあるCPUが、ファノンというキーワードに反応し、高速で動き始めた。
「ここから離れた、もうひとつの病院に、ファノンがいるんですよ。あいつ、骨とかは折れてないけど、何日か入院が必要なレベルって言われてて」
「彼と私には、どんな関わりが」
「とくにはないと思いますけど……風呂は
「そう……彼は、そんな性格なの……ふふ、あの人には、そんな一面もあったのね」
ロナリオはニニナの顔で、まさに人間と同じように笑った。
この500年間ずっと、ロナリオは毎日セントデルタのことを監視していた。
が、そこに住むファノンが特別な子だということは、フォーハードの接触をきっかけに、やっとわかったレベルだった。
だから、それまでファノンがバカなことばかりやっていることは、注意もしていなかったし、そもそも見てもいなかった。
ファノンをしっかり観察するようになったのは、ここ10日ほどで、その間、ロナリオはファノンの悩む横顔ぐらいしか、観察したことがなかったのである。
ずっと自分の力を疎み、悩み、それと同時に、向き合いながら戦おうとしている表情しか、知らなかったのである。
真面目な少年というレッテルが、自分の中で小気味よくくずれていくのを感じ、ロナリオは嬉しくなっていた。
なぜ、自分のことでもないのに喜ばしいのか……最近、やっとその意味がロナリオにはわかりつつある。
知らず知らずのうちに、ロナリオは少なくとも、ファノンのことを、可愛い弟のようなもの、という単語で、自らのハードディスクにカテゴリ分けして入力していた。
とはいえ、これを親しみというのかどうかは、ロナリオには判別がついていなかった。
「? ニニナさん?」
「いえ、こちらの話よ……ファノンの家はどこに? 退院したら、一度あの子にも会っておきたいから」
「そ、それは……」
メイが表情を曇らせた。
ロナリオには、その反応をメイがとることは計算済みのことだった。
ロナリオが旅立つ直前、ゴドラハンが予想立てていたことを教えてくれた。
ファノンの立場はおそらく、フォーハードの一件でかなり人間たちの間で危ういものになっているだろう、と。
くわえて今のロナリオは、ニニナという名前の自警団員。
ファノンの先行で、16人(本当のニニナもすでに故人だから、実際は17人)が犠牲になっている。
メイがその自警団員ニニナのコンタクトに、神経を向けないわけがなかった。
メイからすれば、もしもニニナがファノンとの接触で記憶を取り戻したら、ファノンに小言を叩きこむ程度では済まさない……と、考えることだろう。
「……やっぱり、やめとくわ」
ダメでもともと、という気持ちで並べた思いつきだったから、ロナリオは早々に言葉を打ち消した。
「いいんですか?」
「うん……記憶が戻ってからにする。それより、何かファノンやあなたのために、できることはないかしら」
ロナリオは可能なら、ファノンが人々の心に還れるような図らいをしてあげたいとも感じていた。
それには、可能な限りファノンに多くの味方をつける。
それが一番の早道だと考えていた。
「ありがとうございます。今のところは大丈夫です。ニニナさんも、早く良くなって下さいね」
「メイ、そろそろ行かなきゃ」
アエフが会話の途切れるタイミングに合わせ、メイにすすめてきた。
「そうだな、あいつ、寂しがりやだから」
メイは横の四脚から立ち上がった。
「また、きますね。ニニナさん」
「うん、ありがとうメイ、アエフ」
かすかにこうべを垂れつつ、別れをつげるメイにロナリオは微笑を返した。
そうしてふたりは、スライド式のドアを開けて退出し、もともと一人部屋の病室が、にわかにしじまに包まれた。
その中で、開け放しの二階の窓から、ロナリオは森のほうを見つめた。
ロナリオのセンサーをもってしても、ここからでは木の幹や巨石にさまたげられて、ゴドラハンの消息はつかめない。
――ゴドラハン……私は無事です。あなたは大丈夫ですか?
内心ロナリオは、両腕の折れたままのゴドラハンを放っておいて、セントデルタへ潜入するなど、気が進まなかった。
だがセントデルタ人が傷つき、倒れ、人数を減らしながら凱旋するそのタイミングこそが、ゆいいつの潜入のチャンスだとも計算できていた。
フォーハードさえ倒せば、こんな選択をすることはなくなるのだろうか。
ロナリオの高性能なコンピューターでも、それへの答えはでなかった。
「早く終わらせて、ゴドラハンのもとへ帰らないと」
ロナリオがそう、ひとりごちた時だった。
ふたたび病室の扉が横開きになった。
そこには、ひとりの人物が立っていた。
忘れ物? と口にしかけて、ロナリオは自らのメモリが固まるのを感じた。
――そこにいたのは、フォーハードだったのである。