58.メメントモリ

 翌日。

「メイ、結婚してくれ」

 夕方の喫茶店『ギフケン』において、モエクが神妙に切り出した。

「……デジャヴか? 昨日も聞いた気がするぞ」

 メイはこめかみをおさえ、苦々しい表情をした。

「恋愛とは駆け引きだ。一度は断られても、時を置いて、もう一度のぞめば、違う態度が返ってくるものだ……と、古代のカジュアルウェアの本に載っていた。

 本には『アタシぃー、最初はうっとおしいとおもって断ってたんだけどォー、カレの真面目さに惹かれてェー、そんでケッコンしましたァー』とあったんだ」

「そんなシラけてしまうような引用文を吐くくらいだし……あんた、始めから私のことは本気じゃなかっただろ」

「とうぜんだ。僕はそもそも、クリルのことがまだ好きだ」

「昨日の話はどこへ行った。カモがネギを背負う話だったか? 強く生きるんだろ?」

「そこなんだよ……人間っていうのは、頭のはじきだす思考と、心の作り出す感情ってのが、いつも違うものだね。頭ではカモのようになりたくても、心はクリルを追う。ままならないよ」

「始めの『結婚してくれ』がなかったら、ちゃんと同情してやったんだがな」

「同情なんていらない。愚痴に付き合うだけでいいよ」

「仕方ないな……酒は飲めるのか?」

「酒は思考を停滞させるから飲まない」

「……あんたは絶対、彼女なんてできないぞ」

「なぜだ? いま僕は何か、おかしなことを言ったのか?」

「はぁ……説明してもいいんだが、あんた直るかな」

 メイがそこまで言ったところで、だった。

 入り口のオパール呼び鈴が、高い音で来客を店内に伝えてきた。

 メイとモエクが何気なく一瞥いちべつすると、そこにはファノンが立っていた。

「ファノン……?」

 メイはファノンを認めたとたん、イスを飛ばして立ち上がった。

 ファノンが普段着で、ここにいるはずがなかった。

 なぜならファノンは、まだ入院を医師に強いられていたはずだからである。

「ただいまメイ」

 ファノンは持っていたダイヤモンドの槍を、入り口そばに立てかけて、メイたちに近づいた。

「今帰ったぜ。喫茶店に入ったってこと、そこの人に聞いてさ」

「お前……入院してないとダメだって言われてたろ。ゴンゲン親方にも泣きながらハグされて、休む努力をすることだ、とか言われてはずだ。なぜ出てきた」

「休んでられないんだ。いま、ゴドラハンの森に入って、槍の練習をしてたところさ」

「お前さん、ケガはもういいのか。アジンの怪力で背中を踏まれたはずだが」

 横のモエクが言葉を差し入れた。

「安静にしてれば全治一週間だと言われたよ。幸いアバラ骨にも背骨にもヒビとか入ってなかったらしいけど、寝返りすると痛いし、大変だよコレ」

 ファノンは掛襟かけえりを大きくめくり、おのれの胸板をがんじがらめに縛りつける、白い包帯を勲章のように見せびらかせた。

「で……ファノン。どうしてケガを押して、槍の稽古なんか。お前さん、鍛錬を欠かさずおこなうなど、そんな頑張り屋ではなかったはずだが」

 モエクがずばりと問いただした。

「うん、まあそれは……」

 ファノンは言葉をにごした。

 ――このあと、仕事の終わったクリルに、槍の稽古けいこをつけてもらう約束なんだ。だから、あいつに情けないところは見せたくない。

 というのが、ファノンの本音であるが、モエクの気持ちを知っている手前、それは白状できなかった。

 それに、ファノンがそんな殊勝な行動をする影響を与えた人物のひとりは、あきらかにモエクなのだ。

 ――時を惜しむように生きる。

 クリルは18歳と6ヶ月。もうアポトーシスまで2年を切っている。

 あと何度、クリルと語り合えるだろう。

 何度、心配してもらえるだろう。

 何度ケンカをし、何度、ともに料理を食べ、何度、同じ家の空気を共有するだろう。

 ――何度、彼女の笑顔を見れるだろう。

 身体が痛いと言って休んでいる間にも、これらは指折りのように、穴のあいたバケツの水のように、慈悲もなく手心もなく減っていくのだ。

 そしてそれは、メイにしても、モエクにしても、言えることなのだ。

 だからケガが完癒かんゆしていないのに、それを押してモエクやメイに会いにも行くし、そのあとのクリルとの稽古にも無理を働く。

 少し前までは、こんな考えかたはしなかった。

 寝れるだけ寝て、サボれればサボり、やらなくていいなら、絶対にやりはしない。

 ――でも俺は変わった。変わらざるを得なくなった。

 モエクのことを皮切りにして、20年のアポトーシス時計を見つめるようになったから……だけではない。

 フォーハードという名前の、歴史の大罪人もかすむほどの悪の権化との戦い。

 そして何より、2年を切ったクリルの寿命……。

 ――少しでも後悔のないよう、自分や人の死を見つめ、生きたい。

 ――セントデルタ人がこういう考え方にいたるのは、すべてエノハ様の目論見なのは、わかっている。

 ――だからこそ、人に子供じみる時間さえ許さないエノハを倒さなくてはならない……とクリルなら言うんだろうな。

 ――でも、そのことでエノハ様を恨む気持ちにはならないな……。

 ――俺はむしろ、このことを感謝さえしてるのかもしれない。

「時間がないからだよ。俺たちには……何をするにも、時間が足りなすぎるんだ」

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