秋の斜陽は、まるで空そのものが暖炉の炎に包まれたかのような、やわらかい朱に包まれる。
一日を締める最後の陽光が、エノハの住まうアレキサンドライト宝石の塔に当たり、その宝石の深い緑色が、まるで黒いダイヤモンドのようににぶく輝き、それを見上げる人々に夜を予感させる。
そんな夕方に、ファノンとクリルのふたりはルビー・ガーネット通りの東を抜けたポワワワンの川で、丸みを帯びた木槍を構え、川原でカンコンと音を立てながら、槍を叩き合っていた。
いや、ぶつけていたのは、ほんの数回だった。
クリルが水に浮かぶ
今日だけで、通算5回目となる尻餅。
その衝撃にひるむファノンの鼻先に、すかさずクリルは木槍を突きつけた。
「ダメねファノン。まるでダメ」
「少しは手加減してくれよ。俺、病み上がりなんだぜ」
ファノンは胸元の
「だから5回ダウンしたら終わりってルールにしたんでしょ。ハイ、これで終わり。しゅーりょー」
クリルはファノンの前から、槍の切っ先を、あたかも海面の釣り針を引き戻すように、天に持ち上げた。
すると、川を無数に舞い遊ぶアキアカネのうちの一匹が、その切っ先にとまり、羽を休めてきた。
クリルはそのアキアカネを見上げたあと、ファノンになおった。
「でもまあ……意気込みは
「わかってるよ……わかってるさ。誰にも迷惑をかけたくない。だからこうして、差し当たってお前に手こずってもらってるんだ。人に迷惑をかけずに生きるために」
「めい、わく……?」
「そうさ。他人の世話にならずに自分のことをすべてやる。それが立派な、あるいはまともな個人だと、モエクが言ってた」
ファノンは最近モエクに教わった言葉を、そのまま述べた。
――へへ、どうだクリル。このごろはモエクに勉強を教えてもらってんだぜ。前の俺にはこんな言葉、でなかったろ。
――いいんだぜ? 褒めてくれても、いいんだぜ?
そんな心持ちで、得意になっていると。
その瞬間、ファノンの頭をカコーンと、まるで鹿おどしのような風流な音を立てて、クリルの木槍が叩いてきた。
「あゴにイっ!」
ファノンはおのれの槍を捨て、両手で頭をかかえ、ゴツゴツした河原の上をもんどり打った。
「なーにが、迷惑、だよ」
クリルは左耳を覆う、青いアクアマリンの補聴器がずれるのを直しながら、ファノンを
「あのねえ……たぶんモエクはそういう意味で言ってないよ」
「な、なんだよ、じゃあどういう意味だよ」
激痛のほとばしる頭部をおさえながら、ファノンは聞き返す。
「モエクはなんでもかんでも自分のことは自分でやってんの? 違うでしょ。あいつ、風呂掃除も洗濯も、食事の用意も……つまり人間に必要な後片付けを、ぜんぶ家に一緒にいるアエフにやってもらってんじゃない。
あいつは、それに甘えてるから、自分の研究に集中できているだけ。それを、迷惑のかけていない生き方だと言うわけ? だいたい、迷惑をかけずに生きるというのを、実際にやってる人がいるなら、名前を挙げてみなさいよ」
「え、あ……も、もしかしたら歴史の人物とかにいるかも」
「あー……たしかにいるね。文明を
落ち葉の音にもビクビクと気をとがらせ、病気におびえ故郷にむせび、人を
あなたは、そういうのを目指すわけ?」
「いや……それはそれで、迷惑をかけてるのかもしれないな。そいつを知っている人は、その隠者がすでに死んでいると思って悲しむだろうし、まだ生きているかもしれないと思うなら、心配もやみはしないだろう」
つぶやくファノンの
――人は、生まれた瞬間から、自分だけの命じゃない。
「そういうことよ。生き物が生きるってのは、迷惑を1日に何回もかけまくってるってことだよ。それをいちいち重荷に感じてたら生きてられない。かけられた分だけ恩返しをしようなんて思えば、そのあまりの膨大さの前で、自分の一生はなくなるも同然。
迷惑なんか、いくらかけてもいいのよ。その迷惑の中でいくつか、悪いことをしたと感じられる時もあるでしょう。後悔する時もあるでしょう。そのときは心から謝ればいい、そして言葉で感謝を伝えれば、それでいい。
そうして、自分が受けたものを、これから続く者に、同じように分け与えればいい」
「クリル……」
「説教みたいになっちゃったね」
「いや……何も間違ってないよ。かっこいいと思う」
ファノンは上体を起こし、クリルに笑いかけた。
「なら、よかった」
クリルも顔をほころばせると、ファノンを横切り、川岸のほうに歩いていった。
クリルはそこにしゃがみこむと、産卵という大仕事を終えて川べりに打ち上げられ、ボロボロにウロコのただれ落ちた鮭を、そっとすくい上げた。
鮭は
アポトーシスという名の自然の摂理によって、命が消えかけているのだ。
「ファノン、これ見て」
「ああ……その時期、始まっちまったな……」
「うん……」
クリルは神妙なようすで鮭を川の流れに返すと、ポワワワンの川面をバシャバシャとしぶきを上げて
ファノンは、のろりと起き上がると、クリルの
座りこんだクリルの、その整った横顔には夕日が降りて、まるでルビーのように赤く染まっていた。
「ファノン。あなたがそんな力を得たのは、何か意味がある気がする。きっとそれは、フォーハードにそそのかされるため、とか、人々に怖がられたり、嫌われたりするため……なんて理由なはずがない。もしかしたら――このエノハの時代を打ち壊すための力なのかもしれない」
「なんども言ってるだろ。俺はエノハ様を倒す気はないよ」
「そう……でもねファノン、それだけの力を持ってるなら、誰にもできないことができるはずだよ」
クリルはしゃがんだまま、川底の石にぶつかりながら流される鮭を見つめていた。
「エノハはこの時代の永続を望んでもいるけど、この世界がよりよくなるためなら、今が滅んでもいいと、思ってるんだよ、たぶん」
クリルの瞳は、そこで悲しげに落ちこんだ。
「俺は……」
――お前と一緒にいられれば、それだけでいいんだよ……。
という語句を、勇気のないファノンは言えなかった。
けっきょくファノンはそのまま、夕闇にきらめく川面を、しばらくクリルと見つめるだけだった。
――まあいい。まだ時間はある。
――もっと……もっといいタイミングで、言える日が来るはずだ。
ファノンはこの決断を、後悔することになる。
なぜなら……クリルとこうしてポワワワンの川を見つめることは、この日以降、二度とやってこなかったからである。