59.遺言

 秋の斜陽は、まるで空そのものが暖炉の炎に包まれたかのような、やわらかい朱に包まれる。

 一日を締める最後の陽光が、エノハの住まうアレキサンドライト宝石の塔に当たり、その宝石の深い緑色が、まるで黒いダイヤモンドのようににぶく輝き、それを見上げる人々に夜を予感させる。

 そんな夕方に、ファノンとクリルのふたりはルビー・ガーネット通りの東を抜けたポワワワンの川で、丸みを帯びた木槍を構え、川原でカンコンと音を立てながら、槍を叩き合っていた。

 いや、ぶつけていたのは、ほんの数回だった。

 クリルが水に浮かぶでもすくいとるように、槍でファノンの足元を撫でると、ファノンの五体は重力を失ったかのように、ふわりと浮いて、その尻をぶざまに河原に叩きつけた。

 今日だけで、通算5回目となる尻餅。

 その衝撃にひるむファノンの鼻先に、すかさずクリルは木槍を突きつけた。

「ダメねファノン。まるでダメ」

「少しは手加減してくれよ。俺、病み上がりなんだぜ」

 ファノンは胸元のえりを引っ張り、中にのぞける木製コルセットをひけらかした。

「だから5回ダウンしたら終わりってルールにしたんでしょ。ハイ、これで終わり。しゅーりょー」

 クリルはファノンの前から、槍の切っ先を、あたかも海面の釣り針を引き戻すように、天に持ち上げた。

 すると、川を無数に舞い遊ぶアキアカネのうちの一匹が、その切っ先にとまり、羽を休めてきた。

 クリルはそのアキアカネを見上げたあと、ファノンになおった。

「でもまあ……意気込みはめたいよ。それに、超弦の力を使わずに、あなたはあなたの身を守れるようにならないといけない。でないと、あなたの味方がどんどん、あなたを守りにくくなっていく」

「わかってるよ……わかってるさ。誰にも迷惑をかけたくない。だからこうして、差し当たってお前に手こずってもらってるんだ。人に迷惑をかけずに生きるために」

「めい、わく……?」

「そうさ。他人の世話にならずに自分のことをすべてやる。それが立派な、あるいはまともな個人だと、モエクが言ってた」

 ファノンは最近モエクに教わった言葉を、そのまま述べた。

 ――へへ、どうだクリル。このごろはモエクに勉強を教えてもらってんだぜ。前の俺にはこんな言葉、でなかったろ。

 ――いいんだぜ? 褒めてくれても、いいんだぜ?

 そんな心持ちで、得意になっていると。

 その瞬間、ファノンの頭をカコーンと、まるで鹿おどしのような風流な音を立てて、クリルの木槍が叩いてきた。

「あゴにイっ!」

 ファノンはおのれの槍を捨て、両手で頭をかかえ、ゴツゴツした河原の上をもんどり打った。

「なーにが、迷惑、だよ」

 クリルは左耳を覆う、青いアクアマリンの補聴器がずれるのを直しながら、ファノンを叱咤しったした。

「あのねえ……たぶんモエクはそういう意味で言ってないよ」

「な、なんだよ、じゃあどういう意味だよ」

 激痛のほとばしる頭部をおさえながら、ファノンは聞き返す。

「モエクはなんでもかんでも自分のことは自分でやってんの? 違うでしょ。あいつ、風呂掃除も洗濯も、食事の用意も……つまり人間に必要な後片付けを、ぜんぶ家に一緒にいるアエフにやってもらってんじゃない。

 あいつは、それに甘えてるから、自分の研究に集中できているだけ。それを、迷惑のかけていない生き方だと言うわけ? だいたい、迷惑をかけずに生きるというのを、実際にやってる人がいるなら、名前を挙げてみなさいよ」

「え、あ……も、もしかしたら歴史の人物とかにいるかも」

「あー……たしかにいるね。文明を剥奪はくだつされた離島の中で、誰の力も借りられずに、ナイフ一本で家を組み立て火を起こし、魚をとって獣を追わざるを得なかった人なら。ただし、その人の1日は、いつもそれだけで終わらざるを得なかった。他人の力がないから、外敵に襲われればひとたまりもない。病気になっても、それがなんの病気か診断する方法もない。

 落ち葉の音にもビクビクと気をとがらせ、病気におびえ故郷にむせび、人をがれて……それでもなお、戻れなかった人。

 あなたは、そういうのを目指すわけ?」

「いや……それはそれで、迷惑をかけてるのかもしれないな。そいつを知っている人は、その隠者がすでに死んでいると思って悲しむだろうし、まだ生きているかもしれないと思うなら、心配もやみはしないだろう」

 つぶやくファノンの脳裏のうりに、3日前の、ゴンゲンとモンモの言葉が蘇る。

 ――人は、生まれた瞬間から、自分だけの命じゃない。

「そういうことよ。生き物が生きるってのは、迷惑を1日に何回もかけまくってるってことだよ。それをいちいち重荷に感じてたら生きてられない。かけられた分だけ恩返しをしようなんて思えば、そのあまりの膨大さの前で、自分の一生はなくなるも同然。

 迷惑なんか、いくらかけてもいいのよ。その迷惑の中でいくつか、悪いことをしたと感じられる時もあるでしょう。後悔する時もあるでしょう。そのときは心から謝ればいい、そして言葉で感謝を伝えれば、それでいい。

 そうして、自分が受けたものを、これから続く者に、同じように分け与えればいい」

「クリル……」

「説教みたいになっちゃったね」

「いや……何も間違ってないよ。かっこいいと思う」

 ファノンは上体を起こし、クリルに笑いかけた。

「なら、よかった」

 クリルも顔をほころばせると、ファノンを横切り、川岸のほうに歩いていった。

 クリルはそこにしゃがみこむと、産卵という大仕事を終えて川べりに打ち上げられ、ボロボロにウロコのただれ落ちた鮭を、そっとすくい上げた。

 鮭はあえぐように、パクパクと口をせわしなく開けており、もはや命が長らえる見込みがないことを如実に伝えていた。

 アポトーシスという名の自然の摂理によって、命が消えかけているのだ。

「ファノン、これ見て」

「ああ……その時期、始まっちまったな……」

「うん……」

 クリルは神妙なようすで鮭を川の流れに返すと、ポワワワンの川面をバシャバシャとしぶきを上げて遡上そじょうする、ほかの鮭の群れを眺めた。

 ファノンは、のろりと起き上がると、クリルのそばに立った。

 座りこんだクリルの、その整った横顔には夕日が降りて、まるでルビーのように赤く染まっていた。

「ファノン。あなたがそんな力を得たのは、何か意味がある気がする。きっとそれは、フォーハードにそそのかされるため、とか、人々に怖がられたり、嫌われたりするため……なんて理由なはずがない。もしかしたら――このエノハの時代を打ち壊すための力なのかもしれない」

「なんども言ってるだろ。俺はエノハ様を倒す気はないよ」

「そう……でもねファノン、それだけの力を持ってるなら、誰にもできないことができるはずだよ」

 クリルはしゃがんだまま、川底の石にぶつかりながら流される鮭を見つめていた。

「エノハはこの時代の永続を望んでもいるけど、この世界がよりよくなるためなら、今が滅んでもいいと、思ってるんだよ、たぶん」

 クリルの瞳は、そこで悲しげに落ちこんだ。

「俺は……」

 ――お前と一緒にいられれば、それだけでいいんだよ……。

 という語句を、勇気のないファノンは言えなかった。

 けっきょくファノンはそのまま、夕闇にきらめく川面を、しばらくクリルと見つめるだけだった。

 ――まあいい。まだ時間はある。

 ――もっと……もっといいタイミングで、言える日が来るはずだ。

 ファノンはこの決断を、後悔することになる。

 なぜなら……クリルとこうしてポワワワンの川を見つめることは、この日以降、二度とやってこなかったからである。

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