65.素粒子を変える力

1.人間はみな(他人に迷惑をかけない範囲で)自由であらねばならない。

2.すべての人間はただ一つの立法に従わなくてはならない。

3.すべての人間は平等でなくてはならない。

エマニュエル・カント『永遠平和のために』

 上記のひとつでも乱す人間が、一人でもいれば、永遠平和も理想の世界も、訪れることはない。

 今のセントデルタのように。

 美しかったダイヤモンド中央広場はいま、アレキサンドライト台座のツチグモから発された、幾本ものレーザーにより、溝、というにはあまりにも深い断裂が、ダイヤモンドの敷石に走っていた。

 岩の割れ目からは、異臭にも近い、独特な匂い(文明の風を知らないファノンには例えようもないが、まさにそれは敷いたばかりのアスファルトに似ていた)がたちのぼり、ファノンの鼻をついた。

 そして、その周囲に、焦げた肉塊として転がる、無数の人々の死体。

 ツチグモのレーザーは単体で毒物にもなるフッ化重水素をもちいたもの。

 このエネルギーの前では、ハサミで紙を断つような容易さで、人間の体も大岩も等しく切り裂くことができるのである。

 そんなことができる殺人兵器の、すぐ目の前にファノンは堂々と立ちふさがっていた。

「よく来たなファノン、さあ、俺の……」

 そこまで言ったところで――ツチグモは消滅した。

 ファノンがひらめかせた、ヘリウム化現象によって、ツチグモが爪の先っぽだけを残して、雲散うんさんしたのである。

 ファノンはそれを確認すると、黙したまま、そこに何もなかったかのように、まっすぐ、強い足取りで広場へ進み出てきた。

「おいおいファノン……短気になったな。ここにいる人質どもが見えないのか?」

 となりのアメジスト通りに立つツチグモから、フォーハードの声がなった。

 フォーハードの示すとおり、6体のツチグモの足元には、30人ほどに分けられた人質が、なすすべもなく尻餅しりもちをつけさせられていた。

「こいつらを殺されたくなければ……」

 そうしゃべりかけるツチグモもまた、瞬時に気化していった。

「ファノン……お前!」

 また別のツチグモがわめいた。

「勘違いするなフォーハード。俺はお前と交渉しに来たんじゃあない」

 ファノンは鋭く言い放ち、そのままダイヤモンドの中央広場へ走り出すと、両手を横に、まるでタカワシが威嚇でもするように、大きく広げて見せた。

 そのアクションとともに、2体のツチグモもまた、なすすべもなく気体へと帰った。

「きさま……もういい、人質をやれ! ツチグモ!」

 フォーハードから、焦りに似た号令が放たれた。

 そのとたん、残った4体のツチグモが戴くレーザー砲門から、『可視光ではない』光をともなった、強大なエネルギーが発射された。

 それらは確実に、ツチグモの足元でちぢこまる人々の頭蓋骨ずがいこつや心臓を狙い、さばいていく……はずだった。

 だが、発射されたはずのレーザーは、いつまで経っても人質を焼くことはなかった。

「! これは……」

 フォーハードの鼻白はなじろむ声が響いた。

 あきらかに、このレーザーの消失には、ファノンの力が関わっている、と判別できている声音だった。

「お前のやることは、とっくにわかりきっているんだよ」

 ファノンは再び両手をかざすと、またも2体のツチグモを消し去った。

 残りは、エメラルド通りと、シトリン通りに立つツチグモだけとなった。

 ファノンはそれに向けて、全速力で駆けていった。

「ツチグモ! ファノンの両腕と両脚を切り落とせ!」

 フォーハードの命令が鳴るや、走るファノンへ向けて、2体のツチグモが、レーザーを放ってきた。

 だが人質のときと同じように、光がファノンを断つことはなかった。

「はは……ファノン……だがな」

 ツチグモからひり出るフォーハードの声は、そこで終わった。

 ファノンが、最後に残った2体も消し去ったのである。

「――……」

 ファノンは走るのをやめ、その場にたたずんだ。

 ツチグモの束縛をうしない、解放された人々は、約束された生還を噛みしめることも忘れ、あぜんとした様子で、ファノンを見つめていた。

 人々のその沈黙をかいくぐるようにして、ファノンは中央のアレキサンドライト中央祭壇へ歩きだした。

 そこには、その祭壇を抱きすくめるようにして、半壊したツチグモが動けずに、へたっていた。

 ヨイテッツの指揮により、村人に囲まれて半壊したツチグモだった。

「やってくれたじゃないか、ファノン……」

 カメラアイやレーザー砲塔が潰れたツチグモからフォーハードの声がひりでる。

「セントデルタに戻って3日あったんだ。俺が何もしなかったと思うのか」

 ファノンは台座の上のツチグモを見上げ、そう語った。

 フォーハードと再接触の起こる今日を予期して、ファノンはひとつの手を打っていた。

 超弦の力は、その知識に準じる。

 この力は、ファノンが知っていることにしか、働かないのである。

 だが、図書館に現存していたはずの、超弦にかんする記述は、すべて自警団によって、エノハの住むアレキサンドライトの塔にある、電子ロックの扉の向こうに封印された。

 もう、超弦の知識を掘り下げることはできない……かに思われたが、ファノンにはもう一つ、知識を得る方法に心当たりがあった。

 人間でありながら、頭の中に図書館をかかえこむ男。

 モエクである。

 ファノンはセントデルタへ帰還してから、怪我の養生ようじょうのために休んでいたわけだが、その間に、モエクを自室に呼んでいたのだ。

 超弦について、教えてもらうために。

 3日という、限られた時間の中なのだから、学習することには限度があった。

 それでも、モエクの優秀な講習により、ファノンは20個以上の、超弦能力を使った術法を体得することができた。

 ファノンがツチグモのレーザー光線を消し去ったのは、それによるものである。

 ファノンがやったのは、ツチグモから発射された赤外線由来の高熱レーザー(波長にすれば3.8マイクロメートルの中赤外線)の帯を、さらにエネルギーの強いβベータ線にしてしまったのである。

 エネルギーが強いと、波長はちぢむ。

 たしかにその力は強力になるが、その代わり、こんどは飛距離が極端に短くなるのである。

 ファノンはレーザー粒子を0.2電子ボルトのエネルギーに変え、30センチほどしかレーザーが飛ばないようにしたのである。

 ちなみに、モエクから講習を受けている間に、ファノンは「何でもかんでもヘリウムにしてしまえばいいだろ。飛んでくるレーザーだろうが、強烈なパンチだろうが、それさえやれば全クリだろうに」という質問をモエクにしたことがある。

 すぐに、それは無理だと返された。

 ファノンの超弦の力は、言い換えれば素粒子を変える力とも呼べる。

 素粒子とは、物質を極限まで細分化したもので、原子より小さく、分子よりはるかに小さい物質である。

 ファノンはたしかに、電子をグルーオン粒子やヒッグス粒子に変えたり、ニュートリノに変えたりすることはできる。

 だが、ひとつの電子をふたつには、できないのである。

 ファノンの力の特徴は、この力で物質を生成しても分解しても、核融合反応も核分裂反応も起きないことにある。

 つまり、核爆発が起きない。

 だが、秒速30万キロメートルという、光速で噛みついてくる光子のレーザーを、ひとつの場所で、原子よっつで構成されるヘリウムに変じると、さすがに核融合爆発が起こるかもしれない、とモエクに釘を刺されたのである。

 だからこそファノンは、ヘリウムではない、この回りくどい力を使ってレーザーを洗浄したのである。

 ――20個の知識をモエクから教わったものの、いま使うことができたのは、一つだけ。

 ――知識っていうのは、こういうふうに小出しにしていくものなんだな。

「ファノン。これで俺に勝ったつもりでいるのか?」

 フォーハードは不敵に含みを持たせて語った。

 だがそれを聞いてもファノンは、表情が揺るがなかった。

「いや……勝つのは、これからだよ」

 ファノンはツチグモから目を離すと、崩れた家壁のはるか向こうにある、サファイア・インディゴライト通りの病院屋根をにらんだ――

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